ネイビーブルー・カタストロフィ――誰が○○○を×したか――

古間降丸

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6 時代巡り(その3)

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 土曜日の昼下がり、まだ高い陽の下で静刻は目の前に建つ建造物を見上げた。
 かたわらの門に刻み込まれている文字は“山葵坂中学校”。
 比較的近所に住んでいる静刻は知っている。
 土曜日のクラブ活動は午前中だけにしか行われないことを。
 駐車場に止まっている自家用車は五台。
 このことから、少なくとも五人の教職員が校内にいることがわかる。
 静刻はそれを狙っていた。
 自由に出入りできるように解錠されて、それでいて校内にはごくわずかの人間しかいないこの状況を。
 目指すのは体育館裏の桜である。
「よし」
 口中で小さくつぶやき、開きっぱなしの職員玄関から脱いだ靴を手に校内へと踏み入る。
 校内の配置はわかっている。
 今いる所は特別教室棟の一階であり、目の前にまっすぐ伸びる長い廊下の先に体育館がある。
 靴下で滑りがちな足元に注意しながら早足で進む。
 校舎の半分まで来た時、不意に体育館からジャージに身を包んだひとりの中年男が現れた。
 中年男は慌てて立ち止まった静刻に大声で問い掛ける。
「誰だっ」
 もし静刻が今より十歳ほど年齢を重ねていれば、あるいは今の年齢であってもワイシャツにネクタイならばもっと穏やかな問い掛けもしたのだろう。
 しかし、今の静刻は服装といい挙動といい、どう見ても“侵入者”であり“不審者”である。
 一方の中年男は、その服装や態度からこの学校の教師であることが静刻にも容易に想像できた。
 静刻は小さく舌打ちすると、苦々しい表情でつぶやく。
「あっさり見つかったか」
 そして、その場でターンし、すたすたと引き返す。
「待て、こらあっ」
 その様子に“侵入者”であり“不審者”であることを確信した教師が怒声を放つ。
 静刻はその怒声が出走の号令であるかのように、誰もいない廊下を走り出す。
 ひとまず学校を出て出直しだ――そう考える静刻の目に、前方の職員玄関からワイシャツ姿の若い男が入ってくるのが見えた。
 いきなり向かってくる静刻を見て戸惑っている若い男へ――
「捕まえろ、不審者だっ」
 ――体育館から現れた中年教師が怒鳴る。
 その口調から若い男も教師であることを察した静刻は、思わぬハサミウチ状態から退路を探してかたわらの階段を駆け上がる。
 そして、手近な扉を開いて転がり込む。
 そんな長い距離を走ったわけでもないのに、ぜえぜえと息が荒いのはやはり日頃の運動不足のツケだろう。
 自分の荒い息を聞きながら考える。
 逃げ続けても逃げ切れるわけがない、とりあえずやりすごそう、桜まで行けばあとはどうにでもなる、オペレーションルームさえ健在ならば。
「よしっ」
 自分を勇気づけるようにつぶやいて、周囲を見渡す。
 そこは教室ではなかった。
 まず広さが普通教室の半分くらいしかなく、さらに奥がカーテンで仕切られている。
 置かれている机やイスは曲線でデザインされ暖色系でまとめられているうえ、壁には風景画や猫の写真が飾られ、部屋の隅には観葉植物が置かれている。
 その様子はまるで学校らしくない。
「誰?」
 突然、部屋の奥を仕切っているカーテンがしゃっと開いて中年女が顔を出した。
 誰もいないと思っていた静刻は逃げることもできず、ただ、その場で硬直する。
 女は校医なのかあるいは科学教師なのか白衣をまとい、上げた前髪の下で眼鏡越しに厳しい視線を静刻に向けている。
 が、ほんの数秒を経て、その視線が不意に驚いたものへと変わる。
 白衣女は静刻の顔を意外なものでも見るように眺めて、そして、口を開く。
「もしかして、……小幌?」
 静刻はこの女を知らない。
 まず思ったのは“ここから遠く離れた母校で習った教師がここへ赴任しているのか”ということ。
 しかし、“記憶の顔照合”を自分の小学校時代まで遡っても、この顔に憶えはない。
「えっと、お会いしたことありましたっけ」
 静刻は戸惑っているが、それ以上に白衣女も戸惑っている。
 目の前にいるこの男が“自分を知らないこと”に対してではなく、“本当に小幌静刻であること”に対して戸惑っている。
 一方の静刻は、自分はまったく憶えていないが、もし、知り合いなら匿ってもらえるかもしれないと自分勝手なことを考える。
 そして、答える。
「確かに小幌静刻ですけど……」
 その言葉に眼鏡越しの戸惑った目が一転して柔和な表情になった。
「私だよ。飯詰みどり。憶えてない? ほら、机」
「お、おおおおおっ」
 思い出した。
 中辺誠に机を放り出されてた女生徒だった。
 静刻が思い出せなかったのも当然である。
 目の前にいる飯詰みどりはすでに四十代中盤なのだ。
 さらに色の白さこそ変わらないものの、当時の前髪を下ろした陰鬱な印象はまるでない。
「せ、先生やってんのか」
「教師じゃなくてカウンセラーだけどね」
 そう言われてみれば確かにこの部屋はカウンセリングルームである。
「久しぶりぃ。でも――」
 みどりはうれしそうに微笑みながら問い掛ける。
「――小幌はどーしてほとんど変わってないの?」
 一九九二年に出会った時には認識誘導膏の作用でクラスメートとして認識されていた。
 ということは実年齢よりも五歳ほど若く見えていたはずである。
 つまり、みどりの目に映る今の静刻は三十年ぶりなのに五歳くらいしか年齢を重ねていないことになる。
「いや、まあ」
 説明のしようもなく静刻が口ごもった時、ドアの外で男の声が聞こえた。
「瀬上先生、瀬上先生いますか」
 みどりは潜めた声で静刻に笑う。
「私の今の名字だよ」
 そして、静刻の手を引きカーテンの奥へ押し込むと、自身は扉に向かう。
 静刻は部屋の奥で息を潜める。
 扉が開く音がしてみどりの声が続く。
「どうしたの、騒々しい」
 若い男の声が答える。
「不審者ッス、不審者。こっちへ来なかったッスか」
「いーえ、見てないけど」
「ち、どこへ行きやがった」
 少しの間を置いて若い男の声が大きくなる。
「こっちにはいませぇん」
 廊下の向こうにいる別の教師に伝えたのだろう。
「休日なんで生徒狙いじゃなく空き巣なんでしょう。とにかく気をつけてください。じゃ」
 若い男がそう伝え、ばたばたと慌ただしい足音が遠ざかり、そこからさらに少しの間を置いて扉が閉じた。
「いいよ、出ても」
 みどりの声に誘われ、カーテンから出る。
「いろいろ訊きたいことあるけど許してあげる。小幌には感謝してるし」
 その言葉は旧交を温めている場合ではない静刻にとって願ってもないものだった。
 もっとも認識誘導膏による虚偽のクラスメートだった静刻には温めるだけの旧交など存在しないのだが。
「あ、ありがと。じゃ……っと」
 一旦は扉へ足を進めるが、思い出し、振り返る。
「同じクラスに船引和江っていただろ」
「うん、いたね。和ちゃん。今は結婚してロンドンにいるんだって」
「中学時代に、家へ遊びに行ったことある?」
「あるよ。大きなお屋敷でね、三歳下の弟とおばあちゃんの三人暮らしだったよ」
 その言葉に静刻は隠れている身であることも忘れて声を上げる。
「お、おばあちゃんっ?」
 そんな静刻の思わぬ反応に怪訝な表情を浮かべながらみどりが続ける。
「そう。ご両親はほとんど海外で、年に数箇月しか日本にいないみたいなこと言ってた。……どーかした?」
 顔を覗き込まれ静刻は我に帰る。
「なんでもない。そうかおばあちゃんか。おばあちゃんだ。うひひ」
 こらえきれず笑い声が漏れる。
 そんな静刻の額にみどりがてのひらを当てる。
「熱、はないか。大丈夫?」
 静刻はみどりの手をとり、両手で強く握ると――
「おう。ありがとっ。じゃあなっ」
 ――カウンセリングルームを飛び出した。
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