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堅吾 志至朗
三
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入学後、アルバイトの許可証をもらった志至朗はすぐにバイト先を見つけ働き始めた。できるだけまかないの出るバイトを選び、放課後と休日は働く。まずは自分が腹いっぱいに食べられるようにしなければいけなかったからだ。おかげで、足りなかった肉がつき始め、志至朗の体つきはぐんと変わっていった。
青漢高校を前身とするこの青還高校は、元々男子校だったことや開設されている専門科の傾向から、全体として男子が多い。女子は科に一人か二人いるていど、というのがだいたいで、しかし、そのなかで異彩を放っている科がひとつだけあった。――琅玕の所属する、デザイン科だ。この科だけは男女の比率が逆転していた。
彼女のいる高校生活に憧れる男子たちの一部は、入学してからしばらくの間、休憩時間が来るとデザイン科を覗きに行き、そうでなくても、移動教室で前を通るときにちらちらと視線を送った。そのなかで琅玕が話題になるのは、とうぜんともいえた。
はじめは、デザイン科に背の高い美女がいるらしいという噂だった。それを見に行き――あわよくば連絡先をゲットしようとして――帰ってきたクラスメイトが、ビッグニュースだと言わんばかりに「男じゃった!」と声をあげるのだ。
志至朗は、自ら琅玕の元へ赴くことはなかったが、集会や体育のときに偶然彼を見かけることがあった。デザイン科のなかでは少ない男子だからなのか、とうぜん女子よりも背が高くすぐにそうとわかる。周りにはいつも人がいて、どこかやさしい空気に包まれている。彼の周りでは笑みがたえないのだと知った。ふと琅玕の亜麻色が揺れたとき、志至朗は顔をそらした。自分が彼と幼なじみであることを周りに知られてはいけない気がしたからだ。琅玕に大声で手を振られるかと内心ひやひやしていたが、さいわいにも彼は気づかなかったらしい。
琅玕は演劇部に入ったというから、志至朗はおどろいた。どうやら友人に誘われて見学に行き、そのまま流れで入ることになったらしい。役者をやるのかと訊ねると、彼は「そんなの無理だよ。裏方」苦笑をうかべた。たしかに、スポットライトを全身に浴びて観客の注目を集める姿は、想像ができない。
志至朗は放課後すぐバイトへ行く。とくに、週末のバイトは駅を超えたところから、もう少し先にある割烹料理店のホールに入る。その店にはしばしば団体の予約が入り、多いときは一度に三十人以上が来店することもあったため、臨時の助っ人として雇われたのだった。
大将と奥さんが二二時であがらせてくれるものの、まかないを食べて帰宅するころには零時をとうに超えている。まだ自転車を買えていなかったからだ。
それを知った琅玕が「じゃあうちで寝たらいいよ」となんのきなしに言った。最初こそ迷惑をかけてしまうことに抵抗があったが、琅玕は「眠いときはかってに寝るし、一回寝たら起きないから物音も気にしなくていいよ~」と言い、じっさいに課題がないときの彼は先に寝ていた。早上がりの日に琅玕の「おかえりなさい」を聴くのも好きだったが、こうして眠っている彼を見るのも好きだった。 いつも自分の前で見せてくれるあどけない表情が、いっそうあどけなく見える。彼のひかえめな寝息は、それだけで疲れた心をじゅうぶんに満たしてくれた。
二人が会う場所は、もっぱら琅玕のアパートになっていた。彼の「おかえりなさい」と「おはよう」を聴くことがたまらない幸せで、週の半分は琅玕の部屋で寝起きするようになり、それに慣れたころには志至朗の着替えや洗面用品も部屋の一部になっていた。
志至朗の寝床は運動公園の西側にあるスポーツ用品店で購入した折り畳みマットだ。琅玕は「いっしょに寝る?」としばしばベッドを示したが、志至朗はかたくなに首を振った。同じ部屋で生活することには慣れても、肌が触れれば自分を抑えられる自信はない。自分の欲に負けて泣かせることはしたくない。志至朗がもっとも恐れていたのは、琅玕に拒絶され、この温かい時間が失われてしまうことだった。
六月の小文化祭が終わったころ。琅玕の部屋には小さな観葉植物の鉢が置かれていた。訊ねると、彼は
「梛。縁起のいい木なんだって。スーパーで値下げされてて、なんとなくね~」
と、その横顔に静かな微笑をたずさえた。
「おかえりなさい」と「おやすみなさい」。
「おはよう」に「いただきます」。
あたりまえの言葉をあたりまえに交わせる日々がはじまって、季節は流れた。はじめての文化祭がすぎ、年越しもした。あいかわらず志至朗と琅玕は学校でほとんど会うことも手を振りあうこともせず、ただアパートのなかでいそがしい日常のなかにあるほんの短い時間を共に過ごしていった。
変わったことはいくつかあった。琅玕の部屋には、観葉植物を置くための小さいラックが窓際に組み立てられ、植物の種類も増えた。ペペロミアにミューレンベキア、トラディスカンティア……ほかにもいくつか鉢がある。横文字ばかりで覚えられたものではなかったが、琅玕はそのすべての名前を覚えているらしい。
二年に進級したころに、ハエトリグサをすっかり枯らしてしまったことを彼は嘆いていたが、いちばん最初に迎えたナギは葉を増やし、わずかに伸びている。
志至朗は一年前とくらべると、はっきり体格が変わった。三食しっかり食べられるようになったことにくわえ、いくらか力仕事のバイトもするようになったからだ。父もまたその変化に気づいたからなのか、殴る頻度は格段に減り、代わりにご飯代を置くこともなくなった。
まるで、父と自分はお互いが空気になってしまったように、同じ家で寝泊まりをするだけの希薄な存在になってしまった。父と目が合うことも、ほとんどない。
六月の半ばを過ぎるころ。バイト先で急なホールを頼まれた志至朗は、三十人の団体客を相手に一人で回すことになった。コース料理の提供やドリンクのオーダー。空いた食器を引き、合間に洗って片付ける。終業まで息つく暇もなくみっちりと働いた。まかないを食べてから琅玕のアパートへつく頃には、二三時をだいぶ過ぎていた。
琅玕はすでに寝ているらしく、部屋は静かなものだった。服を脱いで洗濯カゴヘ入れ、シャワーを浴びる。歯を磨き、寝る準備をすませてリビングへ向かうと、ベッドの上には読書灯がついたままだった。枕元には図書館で借りた小説が落ちていて、寝落ちる直前まで本を読んでいたのが想像できる。
(俺を待っててくれたんかな)
自惚れも甚だしい、と思ういっぽうで、そうだといいなと考える自分がいる。
ふっと頬をゆるめて、そっと触れる。そのとき、琅玕が寝返りを打った。あわてて手をひっこめる。
(寝とる……よな?)
バクバクしながら、彼のようすを伺ったとき。
固く閉じた目じりから、つぅ、と透明な雫がこぼれた。
「!」
見てはいけないものを見てしまったような気持ちと、あまりの衝撃にしばらくのあいだ立ちつくした。いつも朗々と話し、明るく笑っている琅玕。思えば、彼が泣いている姿を見たことはなかった。
(……こいつにも、泣くほど悲しいゆうことがあるんかな)
志至朗はローテーブルを壁に立てかけると、いつものようにマットを広げて横になった。
翌朝、志至朗は琅玕の声で目覚めた。いっしょに朝ごはんを食べ、琅玕はひと足先に準備をすませてしまうと、「お弁当つくってるから、食べてね~」とパネルケースを片手に出ていった。朝から学校で課題をやるらしい。
志至朗は朝の食器を洗い、洗濯物を干してから制服に着替えた。鞄に弁当を入れようとしたところで、その容器が二人分あることに気がつく。
「……あいつ、忘れていきよったな」
人にもっていけと言いながら、自分のぶんを忘れてどうするのか。かといって、届けにいくのも気が引ける。
(まぁ、購買でパンくらい買えるじゃろ)
息をついて靴を履こうとしたとき、シューズボックスに目がむいた。いつもないはずのものが、そこにあるからだ。
(財布も忘れていきよったんか!)
頭を抱える。琅玕はいつも、肝心なところで抜けている。さすがに一食抜いたぐらいでは死なないだろうが……志至朗は悶々とした。気づいてしまったがゆえに、これを無視すれば良心が痛むことはまちがいない。
「あんの、アホ……」
ひとりうなだれて、志至朗はもうひとつの弁当を鞄に詰めた。
弁当を届けてすぐ帰るつもりだったが、琅玕は「いっしょに食べよう」と志至朗を引きとめた。いつもならつっぱねて教室に帰っているところだが、昨晩の涙が気になって断りきれなかった。
「んっふふ~、レオありがとね。ご飯届けてくれて」
琅玕は上機嫌に弁当を開いた。
「誰かに見られたらどうすんなら」
諫めるように言うと、琅玕は口をとがらせる。
「これくらい許してよ、レオ。僕は君と過ごす時間が好きなんだ」
「じゃけど」
「それに、誰もこないよ。こんなとこ。ね、一回くらいいいでしょ?」
琅玕はいたずらっこのような笑みを浮かべた。
誰も来ないところに、二人きり。そんなことをいまさら意識してしまった。
「食べたらすぐ戻られ」
ぶっきらぼうにつきかえす。二人きりなのはアパートでも同じだ。いまさら意識することではない。何度も言い聞かせてから、ようやく志至朗は弁当の包みに手をつけた。ちょうどそのとき、琅玕のまなざしがこちらへそそがれていることに気がつく。彼はなんとなく見ているだけだろうが、翡翠色の瞳を意識すると、どうしても緊張してしまう。
「そんなに見られな」
一瞬のゆるみ。琅玕の指先が、志至朗の横頭に触れた。刈り上げている部分だ。琅玕はこの短い刈り上げを触るのが好きらしく、しばしば断りをいれてから触ることがあった。なにも訊かれずにそれを触れられたのは、初めてだった。
「なんっ……」
おもわず、となりの琅玕を見る。翡翠色は思っているより近くにあった。あどけないまなざしは、まっすぐに志至朗を映している。……いったい何を考えているのか、わからない。
ぞわぞわと内側からなぞられるようなおちつかない気持ちに、志至朗は視線を揺らさずにはいられなかった。身を引いたとき、壁に背がぶつかる。膝のうえの弁当が揺れて、片手で抑える。自分はなにをこんなに動揺しているのだろう。
志至朗が膝の上から弁当を避難させたとき、いつもならありえないことが起こった。
「!」
琅玕の指先が、耳に触れた。たまたま当たっただけだろうと思った。しかし、その指先は意図的に耳の輪郭をゆるりとなぞる。ゾクゾクと身体がふるえ、無意識に身を固くする。いま、琅玕の顔を見ることができない。混乱する頭では、彼がいったいなにを考えているのか知る由もなかった。わずかな身じろぎ。目端で、琅玕はそのネクタイをゆるめる。耳に触れたままの彼の手は熱い。布越しに太腿が触れ合う。身体のほとんどが密着する。琅玕の少し甘い匂いがする。
「ろ、琅玕……ん゙っ?!」
なにが起こったのか理解できなかった。琅玕の匂いと熱に包まれていた。
琅玕はぼうとした瞳で、言った。
「ね、ちから抜いて」
「そんな……ん、」
――無理じゃ。言おうとしたとき、
「キモチイイよ?」
「っ……」
鼓膜に触れた声は、まちがいなく琅玕のものだ。けれど、それはいままであたりまえに聴いてきたものとはちがう。せせらぎの声はとろりと溶けだすような熱を孕み、志至朗の胸のうちに秘めた欲にささやく。
(こんな琅玕、知らん……!)
はじめて、幼なじみを怖いと思った。いま目の前にいるのは、本当に琅玕だろうか。淫靡な亜麻色のまつげは微笑んでいる。彼は志至朗の上に乗るようにして、こちらを見下ろしていた。甘い香りが彼の髪と共にしなだれて、視界のいっさいをさえぎった。暗くなった世界の中で、唇に熱が触れる。まるで、たしかめるように何度も何度も重なった。
(これは、夢なんか?)
また、唇に触れられる。耳に吐息が触れる。首筋にぬらりと熱が這う。
「ええ、んか」
触れても、いいのだろうか。――本当に? 頭の中で問答をくりかえす。都合のいい夢ではないだろうか。頭でも打って気をおかしくしたんじゃないだろうか。琅玕は自分と誰かをまちがえてはないだろうか。
「本当に、ええんか」
「レオ?」
まちがいじゃ、ない。
その瞬間、自分の中でなにかが堰を切った。胸のうちを激流がめぐり、ドクドクと指先まで脈打った。なにもかもが熱におかされて逆らえなくなった。琅玕を抱き寄せる。まるごと抱きしめて、唇を重ねる。やわらかくて愛しい。同時に、許せない。いままで誰にどうやってこの唇で笑いかけ、身体を明け渡したのか。なにが憎いのかわからないまま、すべてが憎らしく思えてしまう。
気が、狂いそうだ。
「っ……ん」
聴いたことのない、琅玕の音。知りたい。欲しい。欲があふれてたまらない。いっそこのまま壊してしまいたい。
琅玕がほうとまなざしを溶かした。
誰にも渡したくない。
誰にも見せたくない。
唇を重ねる。好きだ。好きでたまらない。早く自分のものにしたい。
「ね、もっと深いのしよ?」
甘い誘惑が、志至朗の奥底をなぞった。
「舌、出し……」
「痛ッ……」
急激な昂りに身体の芯がズキと痛んだとき、志至朗はハッと我に返った。
「えっ、レオ、大丈……あ、」
琅玕のまなざしが、すぅ、と下へ吸い寄せられる。頬がカッと熱くなって、志至朗は思わず彼を振りはらった。
「ッ見んなアホ!」
そのまま、バタバタと不格好に逃げていく。
(なんで、なんで、なんで! 俺ァあんなことしたんじゃ!)
誰もいない場所でうずくまる。ズキと痛む昂りが収まるまでのあいだ、頭の中には波のように激しい後悔と罪悪感が渦巻き、そのことごとくに打ちのめされた。
(しにてぇ……)
青漢高校を前身とするこの青還高校は、元々男子校だったことや開設されている専門科の傾向から、全体として男子が多い。女子は科に一人か二人いるていど、というのがだいたいで、しかし、そのなかで異彩を放っている科がひとつだけあった。――琅玕の所属する、デザイン科だ。この科だけは男女の比率が逆転していた。
彼女のいる高校生活に憧れる男子たちの一部は、入学してからしばらくの間、休憩時間が来るとデザイン科を覗きに行き、そうでなくても、移動教室で前を通るときにちらちらと視線を送った。そのなかで琅玕が話題になるのは、とうぜんともいえた。
はじめは、デザイン科に背の高い美女がいるらしいという噂だった。それを見に行き――あわよくば連絡先をゲットしようとして――帰ってきたクラスメイトが、ビッグニュースだと言わんばかりに「男じゃった!」と声をあげるのだ。
志至朗は、自ら琅玕の元へ赴くことはなかったが、集会や体育のときに偶然彼を見かけることがあった。デザイン科のなかでは少ない男子だからなのか、とうぜん女子よりも背が高くすぐにそうとわかる。周りにはいつも人がいて、どこかやさしい空気に包まれている。彼の周りでは笑みがたえないのだと知った。ふと琅玕の亜麻色が揺れたとき、志至朗は顔をそらした。自分が彼と幼なじみであることを周りに知られてはいけない気がしたからだ。琅玕に大声で手を振られるかと内心ひやひやしていたが、さいわいにも彼は気づかなかったらしい。
琅玕は演劇部に入ったというから、志至朗はおどろいた。どうやら友人に誘われて見学に行き、そのまま流れで入ることになったらしい。役者をやるのかと訊ねると、彼は「そんなの無理だよ。裏方」苦笑をうかべた。たしかに、スポットライトを全身に浴びて観客の注目を集める姿は、想像ができない。
志至朗は放課後すぐバイトへ行く。とくに、週末のバイトは駅を超えたところから、もう少し先にある割烹料理店のホールに入る。その店にはしばしば団体の予約が入り、多いときは一度に三十人以上が来店することもあったため、臨時の助っ人として雇われたのだった。
大将と奥さんが二二時であがらせてくれるものの、まかないを食べて帰宅するころには零時をとうに超えている。まだ自転車を買えていなかったからだ。
それを知った琅玕が「じゃあうちで寝たらいいよ」となんのきなしに言った。最初こそ迷惑をかけてしまうことに抵抗があったが、琅玕は「眠いときはかってに寝るし、一回寝たら起きないから物音も気にしなくていいよ~」と言い、じっさいに課題がないときの彼は先に寝ていた。早上がりの日に琅玕の「おかえりなさい」を聴くのも好きだったが、こうして眠っている彼を見るのも好きだった。 いつも自分の前で見せてくれるあどけない表情が、いっそうあどけなく見える。彼のひかえめな寝息は、それだけで疲れた心をじゅうぶんに満たしてくれた。
二人が会う場所は、もっぱら琅玕のアパートになっていた。彼の「おかえりなさい」と「おはよう」を聴くことがたまらない幸せで、週の半分は琅玕の部屋で寝起きするようになり、それに慣れたころには志至朗の着替えや洗面用品も部屋の一部になっていた。
志至朗の寝床は運動公園の西側にあるスポーツ用品店で購入した折り畳みマットだ。琅玕は「いっしょに寝る?」としばしばベッドを示したが、志至朗はかたくなに首を振った。同じ部屋で生活することには慣れても、肌が触れれば自分を抑えられる自信はない。自分の欲に負けて泣かせることはしたくない。志至朗がもっとも恐れていたのは、琅玕に拒絶され、この温かい時間が失われてしまうことだった。
六月の小文化祭が終わったころ。琅玕の部屋には小さな観葉植物の鉢が置かれていた。訊ねると、彼は
「梛。縁起のいい木なんだって。スーパーで値下げされてて、なんとなくね~」
と、その横顔に静かな微笑をたずさえた。
「おかえりなさい」と「おやすみなさい」。
「おはよう」に「いただきます」。
あたりまえの言葉をあたりまえに交わせる日々がはじまって、季節は流れた。はじめての文化祭がすぎ、年越しもした。あいかわらず志至朗と琅玕は学校でほとんど会うことも手を振りあうこともせず、ただアパートのなかでいそがしい日常のなかにあるほんの短い時間を共に過ごしていった。
変わったことはいくつかあった。琅玕の部屋には、観葉植物を置くための小さいラックが窓際に組み立てられ、植物の種類も増えた。ペペロミアにミューレンベキア、トラディスカンティア……ほかにもいくつか鉢がある。横文字ばかりで覚えられたものではなかったが、琅玕はそのすべての名前を覚えているらしい。
二年に進級したころに、ハエトリグサをすっかり枯らしてしまったことを彼は嘆いていたが、いちばん最初に迎えたナギは葉を増やし、わずかに伸びている。
志至朗は一年前とくらべると、はっきり体格が変わった。三食しっかり食べられるようになったことにくわえ、いくらか力仕事のバイトもするようになったからだ。父もまたその変化に気づいたからなのか、殴る頻度は格段に減り、代わりにご飯代を置くこともなくなった。
まるで、父と自分はお互いが空気になってしまったように、同じ家で寝泊まりをするだけの希薄な存在になってしまった。父と目が合うことも、ほとんどない。
六月の半ばを過ぎるころ。バイト先で急なホールを頼まれた志至朗は、三十人の団体客を相手に一人で回すことになった。コース料理の提供やドリンクのオーダー。空いた食器を引き、合間に洗って片付ける。終業まで息つく暇もなくみっちりと働いた。まかないを食べてから琅玕のアパートへつく頃には、二三時をだいぶ過ぎていた。
琅玕はすでに寝ているらしく、部屋は静かなものだった。服を脱いで洗濯カゴヘ入れ、シャワーを浴びる。歯を磨き、寝る準備をすませてリビングへ向かうと、ベッドの上には読書灯がついたままだった。枕元には図書館で借りた小説が落ちていて、寝落ちる直前まで本を読んでいたのが想像できる。
(俺を待っててくれたんかな)
自惚れも甚だしい、と思ういっぽうで、そうだといいなと考える自分がいる。
ふっと頬をゆるめて、そっと触れる。そのとき、琅玕が寝返りを打った。あわてて手をひっこめる。
(寝とる……よな?)
バクバクしながら、彼のようすを伺ったとき。
固く閉じた目じりから、つぅ、と透明な雫がこぼれた。
「!」
見てはいけないものを見てしまったような気持ちと、あまりの衝撃にしばらくのあいだ立ちつくした。いつも朗々と話し、明るく笑っている琅玕。思えば、彼が泣いている姿を見たことはなかった。
(……こいつにも、泣くほど悲しいゆうことがあるんかな)
志至朗はローテーブルを壁に立てかけると、いつものようにマットを広げて横になった。
翌朝、志至朗は琅玕の声で目覚めた。いっしょに朝ごはんを食べ、琅玕はひと足先に準備をすませてしまうと、「お弁当つくってるから、食べてね~」とパネルケースを片手に出ていった。朝から学校で課題をやるらしい。
志至朗は朝の食器を洗い、洗濯物を干してから制服に着替えた。鞄に弁当を入れようとしたところで、その容器が二人分あることに気がつく。
「……あいつ、忘れていきよったな」
人にもっていけと言いながら、自分のぶんを忘れてどうするのか。かといって、届けにいくのも気が引ける。
(まぁ、購買でパンくらい買えるじゃろ)
息をついて靴を履こうとしたとき、シューズボックスに目がむいた。いつもないはずのものが、そこにあるからだ。
(財布も忘れていきよったんか!)
頭を抱える。琅玕はいつも、肝心なところで抜けている。さすがに一食抜いたぐらいでは死なないだろうが……志至朗は悶々とした。気づいてしまったがゆえに、これを無視すれば良心が痛むことはまちがいない。
「あんの、アホ……」
ひとりうなだれて、志至朗はもうひとつの弁当を鞄に詰めた。
弁当を届けてすぐ帰るつもりだったが、琅玕は「いっしょに食べよう」と志至朗を引きとめた。いつもならつっぱねて教室に帰っているところだが、昨晩の涙が気になって断りきれなかった。
「んっふふ~、レオありがとね。ご飯届けてくれて」
琅玕は上機嫌に弁当を開いた。
「誰かに見られたらどうすんなら」
諫めるように言うと、琅玕は口をとがらせる。
「これくらい許してよ、レオ。僕は君と過ごす時間が好きなんだ」
「じゃけど」
「それに、誰もこないよ。こんなとこ。ね、一回くらいいいでしょ?」
琅玕はいたずらっこのような笑みを浮かべた。
誰も来ないところに、二人きり。そんなことをいまさら意識してしまった。
「食べたらすぐ戻られ」
ぶっきらぼうにつきかえす。二人きりなのはアパートでも同じだ。いまさら意識することではない。何度も言い聞かせてから、ようやく志至朗は弁当の包みに手をつけた。ちょうどそのとき、琅玕のまなざしがこちらへそそがれていることに気がつく。彼はなんとなく見ているだけだろうが、翡翠色の瞳を意識すると、どうしても緊張してしまう。
「そんなに見られな」
一瞬のゆるみ。琅玕の指先が、志至朗の横頭に触れた。刈り上げている部分だ。琅玕はこの短い刈り上げを触るのが好きらしく、しばしば断りをいれてから触ることがあった。なにも訊かれずにそれを触れられたのは、初めてだった。
「なんっ……」
おもわず、となりの琅玕を見る。翡翠色は思っているより近くにあった。あどけないまなざしは、まっすぐに志至朗を映している。……いったい何を考えているのか、わからない。
ぞわぞわと内側からなぞられるようなおちつかない気持ちに、志至朗は視線を揺らさずにはいられなかった。身を引いたとき、壁に背がぶつかる。膝のうえの弁当が揺れて、片手で抑える。自分はなにをこんなに動揺しているのだろう。
志至朗が膝の上から弁当を避難させたとき、いつもならありえないことが起こった。
「!」
琅玕の指先が、耳に触れた。たまたま当たっただけだろうと思った。しかし、その指先は意図的に耳の輪郭をゆるりとなぞる。ゾクゾクと身体がふるえ、無意識に身を固くする。いま、琅玕の顔を見ることができない。混乱する頭では、彼がいったいなにを考えているのか知る由もなかった。わずかな身じろぎ。目端で、琅玕はそのネクタイをゆるめる。耳に触れたままの彼の手は熱い。布越しに太腿が触れ合う。身体のほとんどが密着する。琅玕の少し甘い匂いがする。
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琅玕はぼうとした瞳で、言った。
「ね、ちから抜いて」
「そんな……ん、」
――無理じゃ。言おうとしたとき、
「キモチイイよ?」
「っ……」
鼓膜に触れた声は、まちがいなく琅玕のものだ。けれど、それはいままであたりまえに聴いてきたものとはちがう。せせらぎの声はとろりと溶けだすような熱を孕み、志至朗の胸のうちに秘めた欲にささやく。
(こんな琅玕、知らん……!)
はじめて、幼なじみを怖いと思った。いま目の前にいるのは、本当に琅玕だろうか。淫靡な亜麻色のまつげは微笑んでいる。彼は志至朗の上に乗るようにして、こちらを見下ろしていた。甘い香りが彼の髪と共にしなだれて、視界のいっさいをさえぎった。暗くなった世界の中で、唇に熱が触れる。まるで、たしかめるように何度も何度も重なった。
(これは、夢なんか?)
また、唇に触れられる。耳に吐息が触れる。首筋にぬらりと熱が這う。
「ええ、んか」
触れても、いいのだろうか。――本当に? 頭の中で問答をくりかえす。都合のいい夢ではないだろうか。頭でも打って気をおかしくしたんじゃないだろうか。琅玕は自分と誰かをまちがえてはないだろうか。
「本当に、ええんか」
「レオ?」
まちがいじゃ、ない。
その瞬間、自分の中でなにかが堰を切った。胸のうちを激流がめぐり、ドクドクと指先まで脈打った。なにもかもが熱におかされて逆らえなくなった。琅玕を抱き寄せる。まるごと抱きしめて、唇を重ねる。やわらかくて愛しい。同時に、許せない。いままで誰にどうやってこの唇で笑いかけ、身体を明け渡したのか。なにが憎いのかわからないまま、すべてが憎らしく思えてしまう。
気が、狂いそうだ。
「っ……ん」
聴いたことのない、琅玕の音。知りたい。欲しい。欲があふれてたまらない。いっそこのまま壊してしまいたい。
琅玕がほうとまなざしを溶かした。
誰にも渡したくない。
誰にも見せたくない。
唇を重ねる。好きだ。好きでたまらない。早く自分のものにしたい。
「ね、もっと深いのしよ?」
甘い誘惑が、志至朗の奥底をなぞった。
「舌、出し……」
「痛ッ……」
急激な昂りに身体の芯がズキと痛んだとき、志至朗はハッと我に返った。
「えっ、レオ、大丈……あ、」
琅玕のまなざしが、すぅ、と下へ吸い寄せられる。頬がカッと熱くなって、志至朗は思わず彼を振りはらった。
「ッ見んなアホ!」
そのまま、バタバタと不格好に逃げていく。
(なんで、なんで、なんで! 俺ァあんなことしたんじゃ!)
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