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堅吾 志至朗
二
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琅玕との奇妙な関係は中学に上がっても続いたが、彼が制服を着ていつもの場所に訪れたときに、その制服から天宮の生徒だということを知った。
天宮は県内でも有名な私立のエスカレーター校で、いわゆる金持ちの子息令嬢が通う学校だ。あるていど予想していたことではあったものの、やはり琅玕は自分と違う世界の人間なのだと志至朗は痛感した。
お互いにスマートホンなどの連絡手段を持つことはなかったが、あいかわらず週に数回、示し合わせたようにいつものベンチで放課後に会うのがあたりまえだった。斜め向かいに座ったまま、ただそれぞれに課題をしながらぽつぽつ会話するていどのもので、同級生がやっていたように、カラオケで騒いだり遠出をしたりといったことはしなかった。そもそも、そういうお金はおたがいにもっていなかった。志至朗にとっては、毎朝父が置いて出る晩飯代が小遣いのようなもので、それをやりくりして朝と晩の空腹をしのいでいた。中学生ではバイトもできず、遊ぶ余裕はない。
あまりに暑い日やひどく寒い日は運動公園でおちあってから図書館へ行き、閉館まで黙々と過ごし、そのあとまた戻ってしばらくベンチですごすのは小学校からの通例だ。
中学一年の七月。連日の晴れで日中の気温は三十度を超えており、琅玕は折り畳みの日傘を携帯するのが常になった。雨の日も陽ざしが強すぎる日も、図書館へ移動するときには持ってきた傘を開き、それを志至朗へさしかけてくれる。はじめは腕が疲れるだろうと思ってその傘を取ると、琅玕はおどろいた顔をしてから、嬉しそうに頬をゆるめた。以来、傘を開くときは志至朗が持つようになった。こうして琅玕があたりまえのようにそばに身を寄せてくれることで、自分が彼のなにかになれたような気がした。
だが同時に、人の声がすると背筋がひやりとする。志至朗は自分がほかと違うことを自覚し始めていた。
同じ傘の下で、琅玕が制服のネクタイをゆるめた。「あっつ~」と手であおぎながら、彼はそのまま第一ボタンを外す。少しでもこもった熱気を逃がそうとしているらしい。志至朗は遅れて目をそらした。
「ねー、レオぉ。僕たち、おんなじ高校に行かない?」
「なんじゃ急に」ずいぶん早い話じゃな、と思った。
「青還工業高校。デザイン科に入ろうかなって思って」
「青還――ゆうたら、県立じゃったか」
「そそ」
「俺ァ絵なんざ描けんしデザイン……もようわからん。なんなら就職してぇ」
「だから、科じゃなくて高校。機械に情報技術。化学工学とか、土木に建築……電気科もあったかな。あ、ちなみに就職率高いらしいよ?」
「お前は大学行かんのん?」
「デザイン科なら大学でも専門でも、ってかんじだから、入ってから考えるよ~」
「受かる前提か」
「二人ともね」
琅玕はクスと笑った。こういうふうに笑うとき、彼はたいてい確信を持っている。志至朗からしてみれば、いったい何を根拠にしているのかと、いつも半信半疑なものだったが、稀に琅玕がみせる確信めいた笑みは嘘になったことがない。
運動公園のイチョウが黄色く染まり始めた二年の秋。ちょうどいつもよりずいぶん遅くに訪れた琅玕は、「最近雨すごいよねぇ」といつもと変わらない声音で屋根の下に入った。いつもとちがったのは、そのなめらかな頬が赤く腫れていたことだ。
「お前、それ……」
「ん? 殴られた」
「誰じゃ!」
志至朗はガッと立ちあがった。
「おちついてよ~。ちょっと誤解があっただけなんだって」
琅玕はこまったように笑いながら、荷物をおろした。
「このまえ先輩に遊ぼっていわれてちょっと遊びにいったんだけど。なんかその先輩、つきあってる人がいたみたいで」
通学鞄を開いて、彼は英文のノートを取りだす。
「彼氏さんに、先輩のことを僕が寝取ったって誤解されちゃってさ。それでちょっと一悶着」
「お、おう」
そういったことに縁のない志至朗は、目を白黒させながら遅れて着席した。教科書をはらはらとめくる琅玕は「彼氏さんがいるの知ってたら行かなかったんだけどねぇ」と言ってテーブルに置くと、筆箱からシャープペンシルをとりだした。
「知ってる? ――天宮のやりちんシンデレラ」
「……は?」
その瞬間放たれた言葉のなにからなにまで、志至朗には理解がおよばなかった。
「だから、天宮の」
「わぁぁぁぁ! 二回も言わんでええ、それがなんじゃ!」
「僕の蔑称だって~」
琅玕はからからと笑った。
「いや笑うところじゃねえじゃろうが!」
ノートに英文を書きいれながら、琅玕は「今日はレオの反応が面白いなぁ」と他人事のように、ふふと声をこぼしている。志至朗はぐったりと頭を抱えた。
「もう、なんなん……」
「一週間ごとにとなりの女が変わるとか、老若男女のセフレがいるとか、そういう……あ、黒生は継母にいじめられていて、それは継母の男を誘惑して寝取ったからだー、みたいなのもあったかな?」
「それをほのぼのと話せるお前がわからん」
「どれもてきとうな想像だからねぇ。黒生 琅玕っていう人間を題材にして遊んでるだけだよ」
「……」
志至朗はふと琅玕の横顔を見つめた。微笑をたずさえたまま、ノートにさらさらとペン先を走らせる彼の瞳には、噂に対してなんの感情も抱いていないように思えた。
「ええんか」
「僕もまぁ……いろんな女の子と関係をもったのは事実だから、そういう噂にもなるのかなとは」
「?!」
「さすがに字面そのままじゃないよ? 大人のお姉さんに声かけられたりとかはあったけど、おじいちゃんおばあちゃんとかはないし。やりちん、もちょっと誇張しすぎかなぁって思うし」
琅玕は眉根を下げて補足をいれた。
「なんか、中学生になってから……かな? 告白されることが増えて」
たしかに、中学生になってからの琅玕は急に背が伸びた。それでも志至朗のほうが高かったが……無垢な少女のようだった彼は、雑誌の表紙を飾っていてもおかしくないような美青年へ羽化し始めている。声変わりもおちついて、せせらぎの声には魅惑的な深みが存在するようになった。やさしいゆらぎは、聴くものを溶かして包みこんでしまうような魔力を秘めている。
亜麻色のやわらかな髪は陽ざしを吸いこむと淡く発光しているようにも見えてどこか近寄りがたく、影に入ればやわく艶めく。同年代よりもおちついた挙動は大人びていて、かと思えば花のように表情をほころばせて明るく笑う。
そんな彼に触れ、秘密の囁きを知りたいと思うのは、その茫洋とした翡翠色の瞳を見た誰もが思うのだろう。
琅玕は肩を落とした。
「けど、つき合ってって言われても、好きじゃない女の子とつきあうのはけっきょく泣かせちゃうから、そういうのやめたほうがいいなぁってわかったんだよね。それから、恋人とかつき合うとか、そういう話はぜんぶ断ることにしてて。いまは、誘われたら遊びに行くかな~、くらいだったんだけど。今日みたいなこともあるし、むずかしいなぁ、って思ったり」
翡翠色の瞳は教科書を見、またすぐ手もとへもどる。
「噂を信じたい人にとっては、黒生 琅玕はそういう人間でしかないんだと思うよ。僕を殴った彼氏さんみたいにねぇ」
朗々と話す琅玕のほほに手をのばす。それまでよどみのなかったペン先が止まり、彼はこちらを見た。
「レオ?」
「痛ぇか?」
「……え、と」白い肌はひといきに赤みを帯びる。
「熱いな。ちゃんと冷やしとかれ」
手をはなして予習に戻ると、斜め向かいで琅玕は顔を覆ってつっぷした。
「……爆発するかとおもった」
「は?」
「ううん、なんでもない……」
その後しばらく、琅玕は顔を上げなかった。
志至朗と琅玕は青還工業高校への進学が決まった。父は卒業式に来たが、ついに一言も交わさずにいつのまにか帰っていた。
卒業式を終えたあとの生徒たちは、泣きながら抱き合う者もいれば、写真を撮ったり、先輩から譲りうけた刺繍入りの派手な学ランで騒ぐ者もいた。このあと昼飯を食いに行こうだとかカラオケに行こうだとかそういう話もあったが、志至朗の足はおのずといつもの運動公園へ向かっていた。今日はやらなければいけない課題も予習もないが、琅玕の顔を見たかった。
ベンチに寝転がりながら、うたた寝をした。まどろみのなかで無意識に思いだしていた光景は、校門で見かけた卒業生と在校生の男女だ。どうやら片方が告白して、もう片方がそれを受け入れたらしかった。志至朗は興味がないフリをして立ち去ったが、本当のところは、見ていられなかったからだ。
(……言えるわけがねえ。男に惚れてる、なんて)
まどろみから目覚めた桜の世界に琅玕が現れることはなかった。
雨嵐で桜のほとんどが散った。新葉が顔をのぞかせ、入学式が二週間後に迫った昼日中に琅玕はようやく姿を現した。久々の私服だった。
「レオ~!」
ぱたぱたと軽い足音で走ってきた琅玕は、すっかり息をきらし、ほっぺたも真っ赤にしていた。
「ごめ、最近、ちょっといそがしくて」
肩で息する彼は、小脇にスケッチブックを抱えている。志至朗の視線に気づい琅玕は「ああ、これね~」と開いてみせた。
「デザイン科の課題なんだ。入学するまで毎日ひとつ、なんでもいいからスケッチして、気がついたことをメモしてこいって」
「入学前から、課題があるんか?」
「課題が多いって有名だからねぇ」
琅玕は眉じりを下げた。スケッチブックには、身の回りの小物やたまたま見つけた道草、段ボールを運ぶ業者などが描かれている。余白には、琅玕らしいやわらかな文字が添えられていた。
「上手ぇもんじゃな」
「ありがと」
琅玕は照れくさそうに笑う。
「入試のときとか、みんなデッサン上手くてびっくりしちゃった。僕はそんなにだったから、受かるか怖くてさぁ」
「そのわりには能天気に笑っとったがさ」
「そうだっけ?」
「覚えとらんのかい」
ふふふ、と笑った琅玕はふと思いだしたように言った。
「ね、レオ。もうお昼食べた?」
「まだじゃけど」
「じゃあ、僕の家来ない?」
「は?!」
志至朗は思わず声をあげた。金持ちの実家、なんて場違いすぎていけたものではない。それに、自分のような人間は、琅玕の親も嫌うだろう。
琅玕ははにかむように言った。
「一人暮らしはじめたんだ。じつは、まだあんまり片付いてなくて……」
つまりは、手伝ってほしいということか。志至朗はほっと息をついた。
「お願い! お昼ごはん作るから、手伝って!」
両手を合わせて、琅玕は頭を下げた。
「どこじゃ」
訊ねると、琅玕はきょとんとした顔をした。
「お前の家はどこなら。今日だけバイトしてやる」
どこか不安げだった彼の顔はみるみる明るくなり、飛び跳ねんばかりの勢いで指さした。
「こっち! 歩いてすぐだよ!」
琅玕のアパートは、意外にもふつうだった。大通りから一本入ったところにある二階建てで、ボロ屋とまではいかないが、それなりに年季が入っている。オートロック付きのマンションにでも案内されるかと想像していたが……。
入り口には『リーベス・トゥラウム』と書かれている。
「“Liebesträume” ……このアパートのオーナーは、クラシックが好きなのかもねぇ」
言って、琅玕は外階段に足をかける。志至朗もそれについてゆきながら訊ねた。
「有名な曲なんか?」
「レオも一回くらいは聞いたことあると思うよ~? いろんなところで流れてるし」
「ふぅん」
「元々は“O lieb, so lang du lieben kannst” おお愛せよ、愛することができる限り……っていうフェリディナント・フライリヒラートの詩にフランツ・リストが曲をつけた歌曲なんだけど、あとでピアノ独奏曲に編曲したんだって」
琅玕の流れるような解説をなんとなく聞きながら階段を上り切り、扉を二つ超えたあたりで彼は足を止めた。鍵を開け、扉を引く。
「どうぞ~」
「……おう」
室内は小奇麗だった。玄関から入ってすぐ右手にはキッチンがあり、正面をむくとリビングまでにひとつづきになっている。左手にあるのが、おそらく洗面所の扉だろう。志至朗はぎこちなく靴を脱いで、足を踏み入れた。
「一年前くらいに改装したんだって」
玄関の扉を閉めて、琅玕も靴をぬぐ。
「その辺、てきとうに座ってていいよ」
うながされるままリビングへ向かうと、部屋のなかはベッドがひとつといくつか段ボールがあった。そのなかには、まだ組み立てられていないカラーボックスの箱もある。キッチンからリビングまでのようすを見るかぎり、現状、生活に必要最低限のものだけ置いてあるように思えた。
「物、少ねぇな。このあとまだ入れるんか?」
「んー? それでぜんぶだよ~」
冷蔵庫のなかを吟味しながら、琅玕は言った。
「もっと本とかあるんかと思った」
「手持ちの本は教科書くらいしかないよ。だいたい図書館で借りて読むし……ご飯炊いてないから、焼きそばでいい?」
琅玕の口から“焼きそば”という単語が出てきて、どきりとする。
(焼きそば、食べたりするんか)
「変な顔しないでよ~」
くすくす笑って、キャベツや玉ねぎ、にんじん、もやしを取りだし、小さいパックの豚こまや平天、かまぼこを小さい冷蔵庫の上にならべる。
「かまぼこ……?」
「え? 入れない?」
「平天も入れんが……」
「おいしいよ~。あ、ピーマンは平気?」
「ありゃなんでも食う」
「それはお母さんがよろこびそうだね」
「母さんはおらん。うち、離婚しとるけぇ」
「へぇ、そうなんだ」
琅玕はさっと髪を結んだ。手をていねいに洗いながら「僕も似たようなかんじかも」と話す。軽く消毒してから、フライパンとまな板を出し、にんじんを洗う。ピーラーで皮を上機嫌にむきながら、
「あ、ごめん。テーブル真ん中に出してくれる? そこの、それ」
と彼は視線で示した。
トントンとこぎみ良く響くまな板の音を聞きながら、志至朗は壁ぎわに立てかけてあったローテーブルの脚を開いて運んだ。こんなふうに、誰かが料理を作ってくれる音を聞くのは久々だった。もう忘れかけていた母の背中を思いだす。
「台は拭くんか?」
「おねがーい」
手を止めた琅玕は布巾を濡らして絞ると、志至朗へ渡す。受け取った布巾を軽く広げてから、天板をふきはじめる。そのころ、換気扇を開く音が響いた。
「たまねぎってさぁ、換気扇つけないとすごい染みるんだよね。部屋に残ってたら、あとから目が痛くなったりして」
「そねぇもんか」
「もうね、しみしみ。目が疲れてるとすごい痛くて~」
「手際ええな」
「ちょっと教えてもらったんだ。うち、料理はお手伝いさんが作ってくれるんだけど」
お手伝いさん。縁のない響きで、あまり想像はつかない。
「一人暮らしでできそうな料理を聞いたら、包丁の使い方とか教えてくれた。父さんには内緒だけどね。ぜったいに危ないからだめだって言うし」
くす、といたずらっこのように笑う。フライパンに油を落として、琅玕はIHのスイッチをいれた。
「それでよう一人暮らし許してもらえたな」
「条件はあるけどね。僕が末っ子だからっていうのもあるのかも。兄さまや姉さまは送り迎えも車だし、習い事で自由な時間もほとんどないからねぇ。僕はけっこう自由にさせてもらってるかな」
フライパンの油を広げてから、琅玕は豚肉を落とした。じゅう、といい音と共に、熱した油の香りがたちのぼる。次第に、肉の香ばしい匂いが広がった。軽く塩コショウをふって、火が通った豚肉を別皿にあげると、一度スイッチを切り、にんじんと玉ねぎフライパンへ入れた。
「このまえ野菜炒め作ってみたんだけど、にんじんと玉ねぎが半生になっちゃって。正直あんまり美味しくなかったんだよねぇ。ちゃんと火を通さなきゃいけないんだなって、すんごい実感した」
琅玕は自らの失敗を朗々と語りながらピーマンを千切りにし、キャベツは幅一センチメートルほどに。平天とかまぼこもそれぞれ食べやすい大きさに切っていく。カットが終わると、包丁を洗い、ふたたびIHのスイッチを入れてにんじんと玉ねぎを炒めはじめた。頃合いをみて平天、かまぼこを順にいれ、それがなじんだころにキャベツともやしを入れる。ややあって袋を開封し、そばを炒めた野菜の上へ乗せる。軽量カップで水を回し入れると、
「あともう少しだよ」
と琅玕は笑った。
「座っててもいいのに。……ふふ、気になる?」
「……」
志至朗は小さくうなずいた。
「まだあんまり上手じゃないけど、そのうち上手くなるから楽しみにしててよ」
なにげない彼の言葉が、きゅうと胸に沁みこんだ。琅玕はあたりまえに自分といる未来を想像している。彼を抱きしめてしまいたい衝動に駆られたが、耐えることに慣れた志至朗の腕がかってに動くことはなかった。いっそ抱きしてしまえば、と思う反面、そんなことはだめだと強く恥じる自分がいる。こういうときに脳裏で反芻されるのは、雑誌の特集を見る同級生たちの会話だった。
――なぁ、こいつめっちゃ美人じゃね? 男だって。
――うっわやば。マジで? 俺イケっかも。
――キッモお前まじ無理。わやじゃ、わや!
ギャハハハ、とふざけ半分で笑う声が、いまもずっと周りにあるような気がした。もし、同じようなことを琅玕に言われたら、もしくは拒絶されたら……と考えるだけで、立ちすくんでしまう。いつもそうだ。こうして琅玕と過ごす時間に憩いながらも、同時に崖っぷちに立たされているような気分でいる。琅玕がほんの少し押せば、きっとそれだけでたやすく転落してしまう。
できあがった焼きそばを二人で分けて、麦茶を片手に他愛ない話をする。食事の片づけをし、段ボールを開き、ああだこうだと言いながら棚や机を組み立てると、質素ながらもずいぶん部屋らしくなった。カーテンの外側は、もう陽を落とそうと部屋をのぞきこんでいる。
「今日はありがとね~」
玄関先で、琅玕は言った。
「帰り道わかる? 送ろうか」
「いらん」
暗くなって琅玕を歩かせるほうが危ない。
「ん、わかった。気をつけて帰ってね」
おう、と短くうなずいて、志至朗は琅玕のアパートをあとにした。
(高校がはじまったら、すぐにバイトの許可証申請して……バイトも探さにゃいけん。平日の夕方から夜までと、土日で雇ってくれるとこ……まかないが出るんがええな)
運動公園にさしかかったところで、志至朗は足を止めた。これから高校生活が始まれば、自分は空いた時間のほとんどをバイトに費やすだろう。琅玕は身の回りのことをすべて自分でやらなければいけなくなり、部活にでも入れば、いっそういそがしくなる。同じ高校に入ったとはいえ、科がちがうためどれくらい会えるのか……そもそも、自分が琅玕といっしょにいるところを周りが見たら、どう思われるだろうか。琅玕に迷惑がかかるのではないだろうか。……なんにせよ、いままでと同じようには会えないだろう。
(ここにももう、来られんようになるんかな)
空が暗くなり夜風がふきつけた。電灯がいっせいについて、十八時を知らせる童謡がスピーカーから流れはじめる。きゃあきゃあと帰る子どもたちの声が「じゃあな」「また明日」と約束をして離れていき、誰かが「かえりましょ」と旋律にあわせて口ずさむ。
「……」
視線を下げたまま、志至朗はまた歩きはじめようとした。
そのとき。
「レオ~っ!」
ばっとふりかえる。向こうから走ってくるのは、琅玕だ。
「ごめーん、忘れ物!」
志至朗は思わずズボンの後ろポケットを触った。今日は小銭入れしか持ってきていないが、ちゃんとここにある。あいかわらず足の遅い彼が、たったったった、と走ってくるまでの時間、志至朗は首をかしげるほかなかった。
「俺ァ忘れ物なんて」
「これ」
琅玕は志至朗の手を取ると、なにかを握らせた。熱をはらんだ金属が肌に触れる。
「渡そうと思ってたのに忘れちゃってて。合鍵ね」
「!」
カッ、と耳まで熱くなった。いきなり心臓がドクドク鳴りはじめて、急に季節がすぎてしまったみたいに蒸し暑く感じられた。合鍵を握りこんで、そのまま琅玕の胸元にかるくぶつける。
「……アホ」
「ええ~?!」
「こういうんは、親とかカノジョに渡すもんじゃろうが」
「親はこないよ~。カノジョもいないしなぁ」
う~ん、と琅玕は高い声でうなった。
「だから、レオに渡すのがいちばんかなぁって思ったんだけど……だめ?」
「お前……」
「なに?」
「変な奴に騙されんようにせられぇよ」
――コイツには勝てん。頭を抱えてしぶしぶ受け取ると、琅玕はパァと表情を明るくした。
「ありがとレオ! 大好き」
「抱きつくなや距離感バグっとんのかお前は!」
べり、と引きはがすと、ふわりとなびいた髪からやわらかい香りがする。志至朗の好きな香りだった。
夜風でみだれる亜麻色を、白い手で押さえながら、彼は無邪気に笑った。
「あはは、今日本当に風強いねぇ! 気をつけて帰ってよ。志至朗が風邪ひいたら、僕すごい悲しいから」
「俺ァ丈夫じゃけぇ、そねぇひかん」
「じゃあまたね! いつでもおいで」
琅玕は手を振りながら走っていく。ときおりつまづくこともあったが、彼は姿が見えなくなるまで、何度もふり向いて手を振った。
(……本当に、人の気も知らんで)
まだ彼の熱を残す鍵を握りしめて、志至朗はわずかに目もとをゆるめた。
天宮は県内でも有名な私立のエスカレーター校で、いわゆる金持ちの子息令嬢が通う学校だ。あるていど予想していたことではあったものの、やはり琅玕は自分と違う世界の人間なのだと志至朗は痛感した。
お互いにスマートホンなどの連絡手段を持つことはなかったが、あいかわらず週に数回、示し合わせたようにいつものベンチで放課後に会うのがあたりまえだった。斜め向かいに座ったまま、ただそれぞれに課題をしながらぽつぽつ会話するていどのもので、同級生がやっていたように、カラオケで騒いだり遠出をしたりといったことはしなかった。そもそも、そういうお金はおたがいにもっていなかった。志至朗にとっては、毎朝父が置いて出る晩飯代が小遣いのようなもので、それをやりくりして朝と晩の空腹をしのいでいた。中学生ではバイトもできず、遊ぶ余裕はない。
あまりに暑い日やひどく寒い日は運動公園でおちあってから図書館へ行き、閉館まで黙々と過ごし、そのあとまた戻ってしばらくベンチですごすのは小学校からの通例だ。
中学一年の七月。連日の晴れで日中の気温は三十度を超えており、琅玕は折り畳みの日傘を携帯するのが常になった。雨の日も陽ざしが強すぎる日も、図書館へ移動するときには持ってきた傘を開き、それを志至朗へさしかけてくれる。はじめは腕が疲れるだろうと思ってその傘を取ると、琅玕はおどろいた顔をしてから、嬉しそうに頬をゆるめた。以来、傘を開くときは志至朗が持つようになった。こうして琅玕があたりまえのようにそばに身を寄せてくれることで、自分が彼のなにかになれたような気がした。
だが同時に、人の声がすると背筋がひやりとする。志至朗は自分がほかと違うことを自覚し始めていた。
同じ傘の下で、琅玕が制服のネクタイをゆるめた。「あっつ~」と手であおぎながら、彼はそのまま第一ボタンを外す。少しでもこもった熱気を逃がそうとしているらしい。志至朗は遅れて目をそらした。
「ねー、レオぉ。僕たち、おんなじ高校に行かない?」
「なんじゃ急に」ずいぶん早い話じゃな、と思った。
「青還工業高校。デザイン科に入ろうかなって思って」
「青還――ゆうたら、県立じゃったか」
「そそ」
「俺ァ絵なんざ描けんしデザイン……もようわからん。なんなら就職してぇ」
「だから、科じゃなくて高校。機械に情報技術。化学工学とか、土木に建築……電気科もあったかな。あ、ちなみに就職率高いらしいよ?」
「お前は大学行かんのん?」
「デザイン科なら大学でも専門でも、ってかんじだから、入ってから考えるよ~」
「受かる前提か」
「二人ともね」
琅玕はクスと笑った。こういうふうに笑うとき、彼はたいてい確信を持っている。志至朗からしてみれば、いったい何を根拠にしているのかと、いつも半信半疑なものだったが、稀に琅玕がみせる確信めいた笑みは嘘になったことがない。
運動公園のイチョウが黄色く染まり始めた二年の秋。ちょうどいつもよりずいぶん遅くに訪れた琅玕は、「最近雨すごいよねぇ」といつもと変わらない声音で屋根の下に入った。いつもとちがったのは、そのなめらかな頬が赤く腫れていたことだ。
「お前、それ……」
「ん? 殴られた」
「誰じゃ!」
志至朗はガッと立ちあがった。
「おちついてよ~。ちょっと誤解があっただけなんだって」
琅玕はこまったように笑いながら、荷物をおろした。
「このまえ先輩に遊ぼっていわれてちょっと遊びにいったんだけど。なんかその先輩、つきあってる人がいたみたいで」
通学鞄を開いて、彼は英文のノートを取りだす。
「彼氏さんに、先輩のことを僕が寝取ったって誤解されちゃってさ。それでちょっと一悶着」
「お、おう」
そういったことに縁のない志至朗は、目を白黒させながら遅れて着席した。教科書をはらはらとめくる琅玕は「彼氏さんがいるの知ってたら行かなかったんだけどねぇ」と言ってテーブルに置くと、筆箱からシャープペンシルをとりだした。
「知ってる? ――天宮のやりちんシンデレラ」
「……は?」
その瞬間放たれた言葉のなにからなにまで、志至朗には理解がおよばなかった。
「だから、天宮の」
「わぁぁぁぁ! 二回も言わんでええ、それがなんじゃ!」
「僕の蔑称だって~」
琅玕はからからと笑った。
「いや笑うところじゃねえじゃろうが!」
ノートに英文を書きいれながら、琅玕は「今日はレオの反応が面白いなぁ」と他人事のように、ふふと声をこぼしている。志至朗はぐったりと頭を抱えた。
「もう、なんなん……」
「一週間ごとにとなりの女が変わるとか、老若男女のセフレがいるとか、そういう……あ、黒生は継母にいじめられていて、それは継母の男を誘惑して寝取ったからだー、みたいなのもあったかな?」
「それをほのぼのと話せるお前がわからん」
「どれもてきとうな想像だからねぇ。黒生 琅玕っていう人間を題材にして遊んでるだけだよ」
「……」
志至朗はふと琅玕の横顔を見つめた。微笑をたずさえたまま、ノートにさらさらとペン先を走らせる彼の瞳には、噂に対してなんの感情も抱いていないように思えた。
「ええんか」
「僕もまぁ……いろんな女の子と関係をもったのは事実だから、そういう噂にもなるのかなとは」
「?!」
「さすがに字面そのままじゃないよ? 大人のお姉さんに声かけられたりとかはあったけど、おじいちゃんおばあちゃんとかはないし。やりちん、もちょっと誇張しすぎかなぁって思うし」
琅玕は眉根を下げて補足をいれた。
「なんか、中学生になってから……かな? 告白されることが増えて」
たしかに、中学生になってからの琅玕は急に背が伸びた。それでも志至朗のほうが高かったが……無垢な少女のようだった彼は、雑誌の表紙を飾っていてもおかしくないような美青年へ羽化し始めている。声変わりもおちついて、せせらぎの声には魅惑的な深みが存在するようになった。やさしいゆらぎは、聴くものを溶かして包みこんでしまうような魔力を秘めている。
亜麻色のやわらかな髪は陽ざしを吸いこむと淡く発光しているようにも見えてどこか近寄りがたく、影に入ればやわく艶めく。同年代よりもおちついた挙動は大人びていて、かと思えば花のように表情をほころばせて明るく笑う。
そんな彼に触れ、秘密の囁きを知りたいと思うのは、その茫洋とした翡翠色の瞳を見た誰もが思うのだろう。
琅玕は肩を落とした。
「けど、つき合ってって言われても、好きじゃない女の子とつきあうのはけっきょく泣かせちゃうから、そういうのやめたほうがいいなぁってわかったんだよね。それから、恋人とかつき合うとか、そういう話はぜんぶ断ることにしてて。いまは、誘われたら遊びに行くかな~、くらいだったんだけど。今日みたいなこともあるし、むずかしいなぁ、って思ったり」
翡翠色の瞳は教科書を見、またすぐ手もとへもどる。
「噂を信じたい人にとっては、黒生 琅玕はそういう人間でしかないんだと思うよ。僕を殴った彼氏さんみたいにねぇ」
朗々と話す琅玕のほほに手をのばす。それまでよどみのなかったペン先が止まり、彼はこちらを見た。
「レオ?」
「痛ぇか?」
「……え、と」白い肌はひといきに赤みを帯びる。
「熱いな。ちゃんと冷やしとかれ」
手をはなして予習に戻ると、斜め向かいで琅玕は顔を覆ってつっぷした。
「……爆発するかとおもった」
「は?」
「ううん、なんでもない……」
その後しばらく、琅玕は顔を上げなかった。
志至朗と琅玕は青還工業高校への進学が決まった。父は卒業式に来たが、ついに一言も交わさずにいつのまにか帰っていた。
卒業式を終えたあとの生徒たちは、泣きながら抱き合う者もいれば、写真を撮ったり、先輩から譲りうけた刺繍入りの派手な学ランで騒ぐ者もいた。このあと昼飯を食いに行こうだとかカラオケに行こうだとかそういう話もあったが、志至朗の足はおのずといつもの運動公園へ向かっていた。今日はやらなければいけない課題も予習もないが、琅玕の顔を見たかった。
ベンチに寝転がりながら、うたた寝をした。まどろみのなかで無意識に思いだしていた光景は、校門で見かけた卒業生と在校生の男女だ。どうやら片方が告白して、もう片方がそれを受け入れたらしかった。志至朗は興味がないフリをして立ち去ったが、本当のところは、見ていられなかったからだ。
(……言えるわけがねえ。男に惚れてる、なんて)
まどろみから目覚めた桜の世界に琅玕が現れることはなかった。
雨嵐で桜のほとんどが散った。新葉が顔をのぞかせ、入学式が二週間後に迫った昼日中に琅玕はようやく姿を現した。久々の私服だった。
「レオ~!」
ぱたぱたと軽い足音で走ってきた琅玕は、すっかり息をきらし、ほっぺたも真っ赤にしていた。
「ごめ、最近、ちょっといそがしくて」
肩で息する彼は、小脇にスケッチブックを抱えている。志至朗の視線に気づい琅玕は「ああ、これね~」と開いてみせた。
「デザイン科の課題なんだ。入学するまで毎日ひとつ、なんでもいいからスケッチして、気がついたことをメモしてこいって」
「入学前から、課題があるんか?」
「課題が多いって有名だからねぇ」
琅玕は眉じりを下げた。スケッチブックには、身の回りの小物やたまたま見つけた道草、段ボールを運ぶ業者などが描かれている。余白には、琅玕らしいやわらかな文字が添えられていた。
「上手ぇもんじゃな」
「ありがと」
琅玕は照れくさそうに笑う。
「入試のときとか、みんなデッサン上手くてびっくりしちゃった。僕はそんなにだったから、受かるか怖くてさぁ」
「そのわりには能天気に笑っとったがさ」
「そうだっけ?」
「覚えとらんのかい」
ふふふ、と笑った琅玕はふと思いだしたように言った。
「ね、レオ。もうお昼食べた?」
「まだじゃけど」
「じゃあ、僕の家来ない?」
「は?!」
志至朗は思わず声をあげた。金持ちの実家、なんて場違いすぎていけたものではない。それに、自分のような人間は、琅玕の親も嫌うだろう。
琅玕ははにかむように言った。
「一人暮らしはじめたんだ。じつは、まだあんまり片付いてなくて……」
つまりは、手伝ってほしいということか。志至朗はほっと息をついた。
「お願い! お昼ごはん作るから、手伝って!」
両手を合わせて、琅玕は頭を下げた。
「どこじゃ」
訊ねると、琅玕はきょとんとした顔をした。
「お前の家はどこなら。今日だけバイトしてやる」
どこか不安げだった彼の顔はみるみる明るくなり、飛び跳ねんばかりの勢いで指さした。
「こっち! 歩いてすぐだよ!」
琅玕のアパートは、意外にもふつうだった。大通りから一本入ったところにある二階建てで、ボロ屋とまではいかないが、それなりに年季が入っている。オートロック付きのマンションにでも案内されるかと想像していたが……。
入り口には『リーベス・トゥラウム』と書かれている。
「“Liebesträume” ……このアパートのオーナーは、クラシックが好きなのかもねぇ」
言って、琅玕は外階段に足をかける。志至朗もそれについてゆきながら訊ねた。
「有名な曲なんか?」
「レオも一回くらいは聞いたことあると思うよ~? いろんなところで流れてるし」
「ふぅん」
「元々は“O lieb, so lang du lieben kannst” おお愛せよ、愛することができる限り……っていうフェリディナント・フライリヒラートの詩にフランツ・リストが曲をつけた歌曲なんだけど、あとでピアノ独奏曲に編曲したんだって」
琅玕の流れるような解説をなんとなく聞きながら階段を上り切り、扉を二つ超えたあたりで彼は足を止めた。鍵を開け、扉を引く。
「どうぞ~」
「……おう」
室内は小奇麗だった。玄関から入ってすぐ右手にはキッチンがあり、正面をむくとリビングまでにひとつづきになっている。左手にあるのが、おそらく洗面所の扉だろう。志至朗はぎこちなく靴を脱いで、足を踏み入れた。
「一年前くらいに改装したんだって」
玄関の扉を閉めて、琅玕も靴をぬぐ。
「その辺、てきとうに座ってていいよ」
うながされるままリビングへ向かうと、部屋のなかはベッドがひとつといくつか段ボールがあった。そのなかには、まだ組み立てられていないカラーボックスの箱もある。キッチンからリビングまでのようすを見るかぎり、現状、生活に必要最低限のものだけ置いてあるように思えた。
「物、少ねぇな。このあとまだ入れるんか?」
「んー? それでぜんぶだよ~」
冷蔵庫のなかを吟味しながら、琅玕は言った。
「もっと本とかあるんかと思った」
「手持ちの本は教科書くらいしかないよ。だいたい図書館で借りて読むし……ご飯炊いてないから、焼きそばでいい?」
琅玕の口から“焼きそば”という単語が出てきて、どきりとする。
(焼きそば、食べたりするんか)
「変な顔しないでよ~」
くすくす笑って、キャベツや玉ねぎ、にんじん、もやしを取りだし、小さいパックの豚こまや平天、かまぼこを小さい冷蔵庫の上にならべる。
「かまぼこ……?」
「え? 入れない?」
「平天も入れんが……」
「おいしいよ~。あ、ピーマンは平気?」
「ありゃなんでも食う」
「それはお母さんがよろこびそうだね」
「母さんはおらん。うち、離婚しとるけぇ」
「へぇ、そうなんだ」
琅玕はさっと髪を結んだ。手をていねいに洗いながら「僕も似たようなかんじかも」と話す。軽く消毒してから、フライパンとまな板を出し、にんじんを洗う。ピーラーで皮を上機嫌にむきながら、
「あ、ごめん。テーブル真ん中に出してくれる? そこの、それ」
と彼は視線で示した。
トントンとこぎみ良く響くまな板の音を聞きながら、志至朗は壁ぎわに立てかけてあったローテーブルの脚を開いて運んだ。こんなふうに、誰かが料理を作ってくれる音を聞くのは久々だった。もう忘れかけていた母の背中を思いだす。
「台は拭くんか?」
「おねがーい」
手を止めた琅玕は布巾を濡らして絞ると、志至朗へ渡す。受け取った布巾を軽く広げてから、天板をふきはじめる。そのころ、換気扇を開く音が響いた。
「たまねぎってさぁ、換気扇つけないとすごい染みるんだよね。部屋に残ってたら、あとから目が痛くなったりして」
「そねぇもんか」
「もうね、しみしみ。目が疲れてるとすごい痛くて~」
「手際ええな」
「ちょっと教えてもらったんだ。うち、料理はお手伝いさんが作ってくれるんだけど」
お手伝いさん。縁のない響きで、あまり想像はつかない。
「一人暮らしでできそうな料理を聞いたら、包丁の使い方とか教えてくれた。父さんには内緒だけどね。ぜったいに危ないからだめだって言うし」
くす、といたずらっこのように笑う。フライパンに油を落として、琅玕はIHのスイッチをいれた。
「それでよう一人暮らし許してもらえたな」
「条件はあるけどね。僕が末っ子だからっていうのもあるのかも。兄さまや姉さまは送り迎えも車だし、習い事で自由な時間もほとんどないからねぇ。僕はけっこう自由にさせてもらってるかな」
フライパンの油を広げてから、琅玕は豚肉を落とした。じゅう、といい音と共に、熱した油の香りがたちのぼる。次第に、肉の香ばしい匂いが広がった。軽く塩コショウをふって、火が通った豚肉を別皿にあげると、一度スイッチを切り、にんじんと玉ねぎフライパンへ入れた。
「このまえ野菜炒め作ってみたんだけど、にんじんと玉ねぎが半生になっちゃって。正直あんまり美味しくなかったんだよねぇ。ちゃんと火を通さなきゃいけないんだなって、すんごい実感した」
琅玕は自らの失敗を朗々と語りながらピーマンを千切りにし、キャベツは幅一センチメートルほどに。平天とかまぼこもそれぞれ食べやすい大きさに切っていく。カットが終わると、包丁を洗い、ふたたびIHのスイッチを入れてにんじんと玉ねぎを炒めはじめた。頃合いをみて平天、かまぼこを順にいれ、それがなじんだころにキャベツともやしを入れる。ややあって袋を開封し、そばを炒めた野菜の上へ乗せる。軽量カップで水を回し入れると、
「あともう少しだよ」
と琅玕は笑った。
「座っててもいいのに。……ふふ、気になる?」
「……」
志至朗は小さくうなずいた。
「まだあんまり上手じゃないけど、そのうち上手くなるから楽しみにしててよ」
なにげない彼の言葉が、きゅうと胸に沁みこんだ。琅玕はあたりまえに自分といる未来を想像している。彼を抱きしめてしまいたい衝動に駆られたが、耐えることに慣れた志至朗の腕がかってに動くことはなかった。いっそ抱きしてしまえば、と思う反面、そんなことはだめだと強く恥じる自分がいる。こういうときに脳裏で反芻されるのは、雑誌の特集を見る同級生たちの会話だった。
――なぁ、こいつめっちゃ美人じゃね? 男だって。
――うっわやば。マジで? 俺イケっかも。
――キッモお前まじ無理。わやじゃ、わや!
ギャハハハ、とふざけ半分で笑う声が、いまもずっと周りにあるような気がした。もし、同じようなことを琅玕に言われたら、もしくは拒絶されたら……と考えるだけで、立ちすくんでしまう。いつもそうだ。こうして琅玕と過ごす時間に憩いながらも、同時に崖っぷちに立たされているような気分でいる。琅玕がほんの少し押せば、きっとそれだけでたやすく転落してしまう。
できあがった焼きそばを二人で分けて、麦茶を片手に他愛ない話をする。食事の片づけをし、段ボールを開き、ああだこうだと言いながら棚や机を組み立てると、質素ながらもずいぶん部屋らしくなった。カーテンの外側は、もう陽を落とそうと部屋をのぞきこんでいる。
「今日はありがとね~」
玄関先で、琅玕は言った。
「帰り道わかる? 送ろうか」
「いらん」
暗くなって琅玕を歩かせるほうが危ない。
「ん、わかった。気をつけて帰ってね」
おう、と短くうなずいて、志至朗は琅玕のアパートをあとにした。
(高校がはじまったら、すぐにバイトの許可証申請して……バイトも探さにゃいけん。平日の夕方から夜までと、土日で雇ってくれるとこ……まかないが出るんがええな)
運動公園にさしかかったところで、志至朗は足を止めた。これから高校生活が始まれば、自分は空いた時間のほとんどをバイトに費やすだろう。琅玕は身の回りのことをすべて自分でやらなければいけなくなり、部活にでも入れば、いっそういそがしくなる。同じ高校に入ったとはいえ、科がちがうためどれくらい会えるのか……そもそも、自分が琅玕といっしょにいるところを周りが見たら、どう思われるだろうか。琅玕に迷惑がかかるのではないだろうか。……なんにせよ、いままでと同じようには会えないだろう。
(ここにももう、来られんようになるんかな)
空が暗くなり夜風がふきつけた。電灯がいっせいについて、十八時を知らせる童謡がスピーカーから流れはじめる。きゃあきゃあと帰る子どもたちの声が「じゃあな」「また明日」と約束をして離れていき、誰かが「かえりましょ」と旋律にあわせて口ずさむ。
「……」
視線を下げたまま、志至朗はまた歩きはじめようとした。
そのとき。
「レオ~っ!」
ばっとふりかえる。向こうから走ってくるのは、琅玕だ。
「ごめーん、忘れ物!」
志至朗は思わずズボンの後ろポケットを触った。今日は小銭入れしか持ってきていないが、ちゃんとここにある。あいかわらず足の遅い彼が、たったったった、と走ってくるまでの時間、志至朗は首をかしげるほかなかった。
「俺ァ忘れ物なんて」
「これ」
琅玕は志至朗の手を取ると、なにかを握らせた。熱をはらんだ金属が肌に触れる。
「渡そうと思ってたのに忘れちゃってて。合鍵ね」
「!」
カッ、と耳まで熱くなった。いきなり心臓がドクドク鳴りはじめて、急に季節がすぎてしまったみたいに蒸し暑く感じられた。合鍵を握りこんで、そのまま琅玕の胸元にかるくぶつける。
「……アホ」
「ええ~?!」
「こういうんは、親とかカノジョに渡すもんじゃろうが」
「親はこないよ~。カノジョもいないしなぁ」
う~ん、と琅玕は高い声でうなった。
「だから、レオに渡すのがいちばんかなぁって思ったんだけど……だめ?」
「お前……」
「なに?」
「変な奴に騙されんようにせられぇよ」
――コイツには勝てん。頭を抱えてしぶしぶ受け取ると、琅玕はパァと表情を明るくした。
「ありがとレオ! 大好き」
「抱きつくなや距離感バグっとんのかお前は!」
べり、と引きはがすと、ふわりとなびいた髪からやわらかい香りがする。志至朗の好きな香りだった。
夜風でみだれる亜麻色を、白い手で押さえながら、彼は無邪気に笑った。
「あはは、今日本当に風強いねぇ! 気をつけて帰ってよ。志至朗が風邪ひいたら、僕すごい悲しいから」
「俺ァ丈夫じゃけぇ、そねぇひかん」
「じゃあまたね! いつでもおいで」
琅玕は手を振りながら走っていく。ときおりつまづくこともあったが、彼は姿が見えなくなるまで、何度もふり向いて手を振った。
(……本当に、人の気も知らんで)
まだ彼の熱を残す鍵を握りしめて、志至朗はわずかに目もとをゆるめた。
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