息を溶かして、また明日。

寺谷まさとみ

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黒生 琅玕

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 ルテンは買い物袋を片手に提げたまま、空いた手でスマートホンの画面を何回かスワイプした。時刻は十九時を回った頃合いで、そろそろ帰らなければ家族に心配をかけてしまう。
「くそ、やっぱ出ねぇな……既読もつかねぇし」
 はぁ、と息をつく。黒生くろはえ 琅玕ろうかんは幼少からしばしば知恵熱を出すことがあったと。中学生のころに知り合ったルテンは、友人のそんな姿を見たこともなかったが……どうやら本当の話だったらしい。
「こりゃ、寝てるか、ぶっ倒れてるかのどっちかだろうな」
 黒生のアパートから駅までは約十五分。そこから電車に乗って、帰りのバスの時間を考えると……。
「しかたねぇ。とりあえず、ドアノブに提げとくか」
 メッセージでも入れておけば大丈夫だろう、と自分を納得させて動こうとしたとき、かすかな物音が鼓膜に届いた。アパートの住人かと思ってちらと見やったときに、ルテンは、ぐっと奥歯を噛んだ。壁から背中を離し、片足を半歩下げる。

(でけぇ……岩みてえだな)

 ゆうに二メートルはありそうな分厚い男がこちらを見下げている。鋭い眼光は一瞬、おどろいたように見ひらかれて、しかしすぐに影を落とした。男はくるりと踵を返した。図体に見合わない静かな挙動だ。

(不気味な奴)

 内心、男が離れていくのにほっとした。ここからだと、男がいた方向にある階段がゆいいつの順当な逃げ道で、それ以外はここからとびおりるか、非常階段の見当をつけなければいけなかったからだ。
 静かな背中を目視したとき、その男のスラックスが自分と同じ高校のものだと気づく。ルテンは彼が何者かを悟った。
「へぇ、アンタが幼なじみくん、ってやつ」
 ぴく、と男は足を止めた。
「なに? 寝込みでも襲いに来たワケ? やるね」
「ちばけとんのか」
 わずかにふりかえったその男の、殺気だった目つきがギラと光る。
「いやいやふざけてねぇよ? ただ、幼なじみくんとやらがお前みたいな不良だとは思わなくてさぁ。けどもう、関係ない話だっけ。ずっと無視してるって話だもんなァ」
「なら、お前とわざわざ話す必要もねえじゃろうが」

(おっと意外と冷静)

 ルテンは心のなかで口笛をふいた。
「アイツさんざん泣いてたぜ。まぁ、オレが可愛い琅玕ろうかんけど」
 意味深にクク、と嗤ってやると、男はぐぁとふりかえってズンズンと戻ってきた。
(やっべ、ちょっと煽りすぎたか?!)
 ぐいと襟元を乱暴に引かれ、思わず目をつぶる。
「……っ」
 が、いつまでたっても予想した衝撃はこなかった。
「?」
 おそるおそるまぶたを開いたとき、パッと手が離れた。男はふいとそっぽを向いた。
わりい。乱暴した」
「乱暴って、こんなん。数えるくらいにもなんねぇけど……殴られてねぇし」
 そのとき、バサリと男のブレザーが頭からかけられた。
「なぁにすんだよ!」
「服、直され」
 ルテンは自分の胸元を見やった。見れば、襟をつかまれたときにワイシャツが開いてしまったらしい。そのうち、いくつかのボタンは糸が切れていた。
「そーゆーコトね」
 初心うぶだねぇ、とぼやきながら、ワイシャツのボタンを閉じていく。取れたところは手持ちの裁縫セットで縫えばいいだろう。
「お前女じゃったんか」
「……あんまり意識すんなよ。正直だりぃから」
「お前こそ他人を煽るのはやめぇや。ふるえとるぞ」
 ルテンは笑みを凍らせた。
 はぁと息をつく。
「アイツからは、お前にキスしてそれから会えてないって泣き言を聞かされただけだ。他はなんもねぇよ。ただのトモダチ」
琅玕ろうかんは知っとるんか」
「あ? オレが女だってことか? そりゃそうだろ。体育の授業があんだから。……ま、安心しろよ。オレが好きなのは女の子。男なんて嫌いだし、黒生とどうこうなることもねぇよ」
「……きれえなのに、わざわざ琅玕ろうかんのところには来るんか?」
「ああくそ面倒くせぇ男だなてめぇはよ!」
 ルテンはイラついて買い物袋を投げつけた。
「なんじゃ乱暴な奴じゃな! それでも女か!」
「るせぇるせぇ! いちいち細けぇ男だな。女だの男だのじゃからしい! オレは一人暮らしのトモダチが熱でつらそうだから心配で見舞いに来たんだっつの。お盛んな時期でしかもこんな節操無しの部屋に入るつもりなんざ最初からさらさらねぇし入る方法もねぇわ!」
「その通りじゃとしても失礼じゃろうが!」
「そこだけはお互い解釈一致だな!」
 しばらくのにらみ合いがあってから、ルテンは長いため息をついた。
「お前、合鍵持ってんだろ。それ、アイツに届けてやってくんね? 既読つかねぇから、きっとぶっ倒れてるだろうし」
「じゃけど……」
「なんだよ急にしおらしくなりやがって」
「俺ァ、あいつに合わせる顔が……」
「だぁぁぁぁぁッもう! オレは帰る。行かないならそれはてきとうに捨てておけブァァァァァカ!」
「待っ……」
「ったく、お前はなんのためにここに来たんだ。いまさら気まずいだとか言うなよ何日経ったと思ってんだ。いつまでもウジウジウジウジしやがって面倒くせぇな! いい加減しやがれ。じゃあな!」
 言うなり、ルテンはブレザーを投げ返して駆け出だした。

(やべ~ッ走らねぇと電車まにあわねぇ! 頼むまにあってくれ~)





「うゔ……」
 琅玕ろうかんは寝返りをうった。なにか夢にうなされていた気もしたが、覚えていない。意識の輪郭をわずかに取りもどしたときに、忘れてしまったからだ。
 あまり思いだしたくない夢だったのかもしれない。どれくらい時間が経ったのかはわからないけれど、ぐっすり寝たという心地はない。長いあいだ、ずっと寒くて、ふるえていた。

 冬風のにおいがした。
 いつのまにか、自分は公園のベンチに小さく座っている。

――風邪ひくぞ。

 少年の声がして、となりにどかりと黒色のランドセルが置かれる。幼い琅玕ろうかんは、その声の主を見上げて、ニッと笑った。

――レオだって。
――俺ァ丈夫じゃけえ、ひかん。

 丈の合わない半袖のシャツとズボン。膝小僧まで見えていて、寒そうだ。今日の彼は、目もとにあざをつけていた。

――それ、どうしたの?
――あ゙?

 彼は怪訝な表情で、自分の目もとに触れる。腫れたところが痛んだのか、顔をしかめた。

――あー……。別に。……転んだ。

 転んだらふつう、膝をすりむいたりするものじゃないだろうか。それとも、転びそうになってぶつけたとか、そういう話だろうか。前から、彼はケガが多かった。腕や太腿、ふくらはぎにはしょっちゅうあざが残っていて、それが黄色く治りかけてもまた赤や紫色がつく。自分と居るときは静かだけれど、もしかしたら小学校では、ふつうにトモダチと外でやんちゃするのかもしれない。
 琅玕ろうかんは気休めていどに「はやく治るといいね」と言った。いつもどおり「ああ」とか「おう」という短い返事が返ってくるのだろうと思ったが、じっさいに彼の口から放たれた言葉は、そんなものではない。

――どうでもええ。

 その、一言に。内心動揺した。
 それは紛れもなく彼の本心だった。
 ランドセルをあけて淡々と宿題を取りだす彼は、自分がケガをしていることすら。――じゃあ、その意味は?
 ケガについて訊ねたときに、彼はなにか考えてから、どこか面倒くさそうに「転んだ」と答えた。その言葉と態度こそ、彼にとっての境界線であり、たしかな拒絶だ。
(安易に踏みこんじゃいけない)
 結果的に、琅玕ろうかんは「そっか」とあまりに簡素なあいづちを打っただけだった。



 ふ、と琅玕ろうかんは目をあけた。目じりから熱がこぼれ落ちたらしく、シーツにかすかな鈍い音が響く。

(あー……、僕、泣いてる?)

 遅れて自覚する。

(たまにあるんだよなぁ、こういうこと)

 拭う気力もないまま、視線だけを動かす。すっかり夜になっていたらしく、室内は真っ暗だ。

(僕、一日寝てたのか)

 まだ熱っぽいが、身体は少し楽になった……だろうか。この調子じゃ明日も休みだなぁ、と落胆でまぶたを閉じようとしたとき、ローテーブルの上にいつもはないものが置かれていることに気がつく。目を凝らしてみれば、経口補水液や栄養剤、ゼリーのたぐいが置かれている。

(そういえば、ルテンがなんか持ってきてくれるって)

 身体を起こして手を伸ばす。ひと口くらい飲んでから、とペットボトルを取った。キャップはおどろくほど軽く空いて、すこし減っていた中身がちゃぷりと揺れる。
「へ……?」
 すでに、空いている。

(いつのまに飲んだ……?)

 その瞬間、琅玕ろうかんはハッと玄関を見た。

(鍵は閉まってる。でも、ルテンは鍵をもってない……)

 刹那の思考。
 バッと立ちあがり駆けだす。キッチンとの段差でつまづきそうになったが、気にも留めず玄関へ向かい、鍵をひらき、開けはなつ。
「レオ!」
 しん、と静まり返る夜は、初夏の暗い湿気をもたらすだけだった。
「ははっ……」
 自嘲。
 ちからが抜けていく。
「そりゃ、帰ってる、よね」
 レオはやさしいから、情けをかけてくれたのだろう。それでも、彼にとって気まずいことは変わりない。むしろ、嫌われていてもおかしくない。

(嫌わ……)

 あ、と思った。
 自覚した瞬間に、ぼろぼろとぜんぶがこぼれ始める。

(あー、これ。だめかも)

 動けない。

(涙、止まんない。え~、僕、こういうことで泣く?)

 視界がにじんで、またぼろりと落ちる。

(まずったなぁ。こんな夜中に通る人はいなさそうだけど、せめて、扉閉めて、鍵かけてから……)

 足にちからが、はいらない。
「おい、どうした」
 粗い呼吸とともに、揺れる声がふりそそいだ。
 鋭いまなざしは大きく見ひらかれ、すぐさま琅玕ろうかんの肩を抱いた。
苦しいえれぇんか。熱は?」
 レオだ。
 レオが、いる。
「うぁ……」
 琅玕ろうかんは無意識のうちに、彼の手をつかんだ。濡れた頬がいっそうぼろぼろと濡れ、
「あああああああああああああん」
「なっ、お前。泣くほどしんどいんか! きゅ、救急車のほうがええんか……? ええと、ああくそ、何番じゃ」
「レオ以外いらないよぉぉぉぉぉ」
 琅玕ろうかんはレオの腕のなかにとびこんだ。
「!」
「嫌だいやだいやだ! どこにも行かないで。ぼくを置いていっちゃヤダ。ひとりにしないで。レオだけはそばにいなきゃだめなの。レオじゃなきゃイヤなんだよぉぉぉぉ」
「お前、それ、どういう……」
 ああ、ほら。こまらせている。
 こんなことを言うつもりじゃなかった。ちがう。そうじゃない。自分の気持ちじゃなくて、レオの気持ちを訊かなきゃいけないのに。
「おちつかれぇ」
 レオの厚い腕が、琅玕ろうかんをまるごと包んだ。大きな手が、ぽん、ぽん……と頭をなでる。
「ずっと無視して悪かった」
「ちがう。僕が、まちがったから。レオの気持ちも考えないで、無理やり……」
 しゃくりあげる琅玕ろうかんを前に、レオはまっすぐ向き合った。
「……ちゃんと話、聴くけぇ。まずはお前の身体が大事じゃ」
 諭されて、コクリとうなずく。
「すこし触るけぇな」
「へ?」
 その瞬間、ぐいと引き寄せられ、そのまま抱き上げられた。
「へぁ?! え、レオ」
「ったく、無理しよってからに」
 レオにはおよばないものの、これでも身長は一七十を超えている。それを軽々と持ちあげてしまうなんて――……、

(いや信じられないけど?!)

 レオはさっさと琅玕ろうかんをベッドに運んでしまうと、その足で戻り、開けっ放しになっていた扉をしめ、鍵をかけて、玄関先の靴を直した。踵を返して、またこちらへ。
「調子は」
「え、……っと、朝よりは、だいぶ」
 あまりにいつもの調子で訊かれたものだから、逆にとまどってしまった。と、同時に冷静さを取り戻し、さきほどの醜態を思いだす。琅玕ろうかんは頭を抱えた。

(僕はなんてことを……)

「熱上がっとんじゃねぇんか。顔あけぇぞ」
「ちがう」
 苦い声で否定する。
「これはちょっと、己を恥じていて……その。あまりにも、あんまりな……いやそれもなんだけど。あのとき、キス……しちゃって、本当にごめんなさい。僕は君をこまらせることばっかりしてしまった……」
 ちらとレオを伺うと、彼は目を丸くしていた。
「お前、そんなしゃべり方する奴じゃったか?」
「ああ、いや。うう……」
 琅玕ろうかんはふたたび頭をかかえた。
「ごめん。この際だから言うよ。僕はこれが素だ」
「……ってぇことは、うたときから、ずっと……」
 おもわず、気まずさに視線をそらす。
「うん、十年くらい」
「猫かぶっとったんか?!」
「そういうことに、なるねぇ」
 琅玕ろうかんは、ははは、と乾いた笑い声をあげた。
 レオはしばらく口をあんぐりと開けていたが、ややあっていつもの形に戻すと「慣れんもんじゃな」とうしろ頭をかいた。彼の瞳はまたこちらを見て、すこし考えるように横へそれて、またこちらを見て、いよいよ耐えかねたのかその場でうなだれた。
「調子くるう」
「だろうね」
 琅玕ろうかんは乾いた笑いであいづちをうった。
「なんかもう、お前がよう、わからん……この前の、その……キス、もそうじゃし」
 レオはキスの部分だけ小声にした。
「お前といると気が狂いそうじゃ……」
「ごめん。いっぱいこまらせた」
「そうじゃねぇ。……んにゃ、そうか。お前のせいじゃ。俺ァ必死に我慢しとったのに、そねぇことも知らんで、女じゃなんじゃゆう噂は尽きんし」
「ああ、中学生のころの」
 琅玕ろうかんは遠い目をした。
「そのくせ、子どもみてぇな表情カオで合鍵渡してくるし」
「ごめんなさいそれは確信犯」
「かと思えば、こないだみたいに……」
「本当にそれはごめん。ちょっと歯止めが利かなくて……正直殴ってくれてもいいくらいのことはしでかしたと思ってる」
「そうじゃねぇ」
 レオは頭を抱えるように言った。
「つぎうたら、お前をめちゃくちゃにしそうで怖かったんじゃ」
「……へ?」
 琅玕ろうかんはここでようやく、レオの発言を思いかえした。

――俺ァ必死に……。

「我慢? え、なにを……?」
「じゃけぇ、お前を襲いそうで怖いうとろうが!」
「えー……」
「なんじゃ、そのようわからんみたいな反応は」
 レオはふてくされたように口を曲げた。
「えっと、いつから?」
「昔からじゃボケェ! じゃけぇ気が狂いそうじゃうとんのがわからんのか! 俺ァずっと昔からお前のことが好っ……」
「す?」
理解わかれや!」
 レオがきぃと眉じりをつりあげたときに、琅玕ろうかんはようやくからからと笑った。
「ごめん、ちょっと意地悪した」
「お前、ええかげんにせぇよ! あんまり調子のっとったら本当ほんに襲うけぇな!」
「いいよ」
 さらりとうなずく。うろたえたのはレオだった。琅玕ろうかんはまっすぐに彼を見つめた。
「いいよ。めちゃくちゃにして」
「お前、それがどういう意味か……」
「わからないと思う?」
「思わん、けど……」
 琅玕ろうかんはベッドから降りて、レオににじり寄った。彼はわずかに身を引いた。
「好きだよ。レオ。大好き。僕は、レオのことが好きでたまらない」
「お前」
「逃げないで。レオが言いたくないことには踏みこまないって約束する。けど、レオが僕をどうにかしたいなら、拒む理由なんて僕にはなにもないんだよ。僕はそんなに弱くない。だからレオがためらう理由もない。レオだけは、僕をめちゃくちゃにしていいんだよ」
「……お前、あたまオカシイんじゃねぇんか」
 琅玕ろうかんはふっと笑った。
「もしそうなら、きっと、ずっと昔からだね」
 顔を寄せる。
「イヤなら、逃げてね」
 言いかけた、そのとき。熱い感触がひといきに口を塞いだ。琅玕ろうかんは目を見ひらく。腰をぐいと引き寄せられ、考える間もなく彼の腕のなかに閉じ込められてしまった。
「んぅ……う」
 ぷは、と息継ぎ。ぼやけた視界に、レオの猛る眼光が映る。それを見た瞬間、ぞくと身体の奥から咽喉のどまで熱が走った。

(あ、これ。食べられるやつだ)

 予感した。
「……この先は、どうすんなら。俺ァ初めてじゃけぇ、ようけ知らんぞ」
「~~~~~~っ」
 あは、と琅玕ろうかんは笑みをこぼす。ぞくぞくと背筋を抜けていく快感への期待がふくれて、思わず声に喜色がにじんでしまった。
「好き。大好き。レオ、いっぱいしよ?」
 腕を絡めて、耳もとでささやく。
「お互いのことしか考えられなくなるくらいに、さ。いっぱい。いっぱ、い……?」
「? どうした」

(あれ……おかしいな)

 琅玕ろうかんは、ぐわんぐわんと視界が揺れはじめたことに疑問をいだいた。

(あー……まずった)

 また熱があがってきたのだと自覚するが、もう遅かった。
「ごめん、レオ。僕、今日だめだぁ……」
 琅玕ろうかんは意識もたえだえに、へなぁと潰れた。
 




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