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西海 広

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庭園と白い建物 ビーナスとジュピター

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 マーキュリーの後をゆっくり歩いていたビーナスとジュピターは、風に運ばれてきた香りに大きく息を吸った。
 ビーナスはトーバックを手に提げて、ジュピターは紺色のスクールバックを肩にかけている。ジュピターの鞄には小さな熊のぬいぐるみが付けられている。
 とても柔らかな花の香り。とても甘いケーキの匂い。地図の必要はなかった。どうやら風が彼女たちの案内人を引き受けたようだ。
 町に入って道を真っすぐ歩く。道路の右側にブルーのガーデンフェンスが見えた。緑の植物がフェンスに絡まっている。花の香りはフェンスを飛び越えて町中に届けられる。
 フェンスの向こうに白い建物が見える。建物の窓はすべて開いていて、中にいくつかのテーブルと椅子が見えた。ケーキの匂いはその奥からやってくる。
 マーキュリーは正面に見える山にしか興味がないようで、香りを放つ庭園や白い建物に目をやることなく、真っすぐ歩いて行った。
 ビーナスがマーキュリーの後ろ姿に「どうぞお気を付けて」と声を掛けた。マーキュリーは足を止めて振り返ると、登山帽を取って「ありがとう」と言ってビーナスに頭を下げた。
 ビーナスとジュピターは、庭園のある白い建物の前に立った。二人は言葉を交わすことなく、中をのぞきこんだ。誰もいない。そう言えばこの町にはだれも住んでいないのだ。この町は、世界地図に載っていない。
 外から見える赤や黄色や紫の花を見て、強くなっていくケーキの匂いを感じてビーナスとジュピターは我慢できなくなった。二人で入り口の扉を開ける。ビーナスとジュピターは中に入ると、ビーナスは庭園にジュピターはテーブルのあるオープンテラスに向かった。
 ビーナスは、体を屈めて花壇の花に顔を近づける。やはり自分をここに導いたのは、この香りだと思った。
 周りを見渡すと、黄色や白のチョウたちも花の蜜を吸うためか、庭園の花にとまり羽を休めている。十分栄養を吸収したチョウたちは、別の花に向かうことなく天に舞い上がっていった。一頭、二頭と高い空に引き込まれるように飛んでいく。チョウはやがて光の粒になり、太陽の光線と交わると、青い空の中に消えていった。ビーナスはこの不思議な光景を、しばらく顔を上げて見ていた。(あの子たちの住処すみかは天上にあるのかしら)
 持ってきたトートバックを地面に置き、使い慣れたコデや園芸バサミ。霧吹きなどを出してはみたが、やがてそれらが必要ないことに気付いた。
 庭はビーナスが理想とするもので、隅から隅までが完璧だったのだ。草むしりの必要もない。水やりはもう終わっていた。花たちは十分土からの養分を吸収していて、色とりどりの装いを競うように微笑んでいる。
 花の笑顔は満点で、付け足すものや取り除かなければならないものは一つもなかった。
 ビーナスは、ふと寂しくなった。この庭園は確かに素晴らしい。けれどまったく自分が必要とされていない。自分が入り込む余地がなく、庭園と自分の間に氷の壁があるようだ。
 花たちを見ることは、楽しくて心が安らぐ。ただ、それは自分が花たちを育てるからこそ得られる喜びなのだ。花の手入れは容易なことではない。難しいからこそガーデニングは面白い。
 たとえどんな困難なことがあっても、自分の手で庭園を作り上げていきたい。それができないなんて、少し寂しい。
 そしてもっと奇妙なことにビーナスは気付く。
 赤、黄色、紫、白い花もある。でも……、その花の名前がわからない。(私が知らない花などないはずなのに)そしてまた気付く、名前がわからないのではなく、そもそもその花を見たことがないのだ。目にする花は、すべてビーナスが初めて見るものだった。(植物図鑑でもこの花たちを見たことがないわ。私の頭には世界中の花たちがきちんと整理されている。その記憶の引き出し引いても、どこにも今目にしている花がない。新種の花なのかしら)ビーナスは首を傾げた。

(鏡は私の大切なお友達。鏡の中の私はいつもチャーミング。にっこり微笑めばアイドルのあの子にだって負けない。絶対に負けないんだから。だから私はこの美しさをいつまでも保たなくてはいけない。私はアイドルのあの子より可愛い、……可愛いはず……。それなのに私は甘いものが大好きだ。でも私は今までスィーツを我慢してきた。我慢することがこんなに苦しいなんて、だからこの町では思う存分食べたい。大好きなスィーツを思いきり食べるんだ。ひょっとしたら、私の本当のお友達はスィーツかもしれない)
 チョコレートケーキ、ストロベリーのパフェ、プリン、アイスクリームもテラスのテーブルの上に置いてあった。(どうして私の大好物がわかるの?)ジュピターは、そう心の中でつぶやいた。
 ジュピターは椅子に座るとすぐにナイフとフォークを使って食べ始めた。(美味しい、本当に美味しいわ)ジュピターは庭に目をやることなく、ケーキとパフェ、それにプリンを食べる。口元にカラメルソースがついてもジュピターは気にしない。(私のことを見ている人なんて今は誰もいない。例えば私のお鼻のてっぺんに、ケーキの生クリームが付いていたりすれば、それを見た男の子たちの胸は、必ずキュンとなる。私にはその自信がある。ああ、また男子から告白されるのか。まぁいいわ)
 スプーンに乗せられたスィーツが、休むことなくジュピターの口に運ばれる。そのスピードがどんどん速くなる。(ちょっぴり恥ずかしいけど、私には止めることができない)
 ジュピターは、あっという間にテーブルの上のスィーツをほとんど食べてしまった。ジュピターはそれでもまだ物足りなく(もう少しほしい)と目を閉じ願おうとした。ただ、ジュピターは不思議な気持ちになった。チョコもストロベリーも味が同じだった。(チョコはチョコのはずなのに、ストロベリーはストロベリーのはずなのに、何だかか最後に口の中に残る味は甘さだけのような気がする。私が変なのかな? でもいいわ。体重計の数字を気にしなくていいんだもの。この町じゃなければ、これだけ食べるなんてことはできないのよ)ジュピターはそう自分に言った。バニラアイスが溶け出した。ジュピターは、慌ててスプーンでアイスクリームをすくった。
 
 ビーナスは、ジュピターがいる白い建物のオープンテラスに、トートバックをさげてやってきた。結局彼女は、バックの中のものを使うことはなかった。
 テーブルには椅子が四つあり、ビーナスはジュピターの正面に座った。ビーナスは椅子に座るとジュピターに向かって優しく微笑んだ。ジュピターはテーブルの上に並んでいる空っぽのお皿が気になったのか、恥ずかしさで顔が赤くなった。
 ビーバスは庭園に顔を向け、今見てきた草花をもう一度眺めた。気になることはあるが、とにかく素晴らしく、そして美しい庭園であった。
 庭園を見ているビーナス。アイスクリームを食べ終わったジュピター、二人は同時に「本当に綺麗」「ああ美味しかった」と心の中の思いを声にした。
 互いの声に驚いたのか、二人は顔を合わせ、それから笑い出した。ビーナスは口に手を当て、ジュピターは赤く染まった頬を両手で隠すようにして笑った。
「ねぇ、喉が渇いていない? 何か飲みましょうか?」
 ビーナスはジュピターにそう話しかけた。
「オレンジジュースが飲みたいな」
 ナプキンで口を拭いてから、ジュピターはそう言った。
「私は紅茶にしようかしら、ホットミルクティーを頂くわ」
 ビーナスはそう言った。
 二人は同時に目を閉じ、ビーナスはホットミルクティーを、ジュピターはオレンジジュースを心の中で願った。
「一、二、三、四、五」二人は声を出して数を数える。カチャカチャという音が二人に聞こえる。「六、七」二人の声が少し小さくなる。二人は音の正体が気になったのだ。それを突き止めずにはいられずに、ビーナスとジュピターは少しだけ瞼を開けたてみた。
(あっ!)
 二人は何とかその声を喉の奥で止めることができた。瞼を開けたことを知られてはいけない。これは守らなければならないルールだ。二人は声をそろえて続きを数えた。「八、九、十」(よかった誰にも見られていない)
 ビーナスとジュピターは、ほっと胸をなでおろした。
 ビーナスはミルクティーの香りを楽しんでから、カップに口をつけた。ジュピターはオレンジジュースにストローを入れて、しぼりたてのオレンジジュースを飲んだ。
 二人はもう一度顔を合わせ微笑んだ。
「ああ、美味しい」
 二人の声が重なる。
 その時、どこからか音楽が聴こえてきた。柔らかな音色がビーナスとジュピターにおくられる。ビーナスはカップをソースに置くと目を閉じ、深く深呼吸をした。
「バッハのG線上のアリア、素敵だわ。心が静かにリセットされていくみたい。風に流れ、波に揺られているようだわ」
 ビーナスは目を閉じたままそう言った。ジュピターはビーナスを真似て目をゆっくり閉じた。
 陽の光が二人を優しく包んでいる。雲は形を変えずにポツンと空に浮かんでいた。飛行機が残した白い跡は、青空にまだにじんでいない。その飛行機雲は、ピンと真っすぐに張られたバイオリンの絃のように見える。
 目を開けると、ビーナスはトートバックからスケッチブックと鉛筆を取り出した。
「この庭の花は、私の知らないものばかりなのよ」
 ビーナスはジュピターにそう言って、庭園のスケッチを始めた。
「それじゃあ、私がその花を調べてみましょうか?」
「お願いできるかしら」
 ビーナスはそう答えた。
 ジュピターはビーナスにうなずいてから、鞄の中からスマートホンを出して、画面に指を滑らせた。
「おかしいな、電源は入っているのに、ネットに繋がらない。ここは圏外なのかな」
 ジュピターのその言葉に、ビーナスは目をジュピターのスマートホンにやった。
 相変わらずテラスには花の優しい香りと、スィーツの甘い匂いが漂っている。
(でもさっきのあれは何だったんだろうか?)ビーナスとジュピターはそう思った。
 

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