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西海 広

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森の中 マーズとムーン

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 マーズとムーンは道に迷うことなどなかった。町に入ると、真っすぐ続く道の左前方に森が見えた。高い山だけが森から頭を出している。広くて大きな森。森から虫たちの声が聞こえてくる。
 マーズは森が近づくと駆けだした。その勢いで被っていた麦わら帽子が、頭から飛んでいこうとしたのだが、首にかけたゴムひものおかげで、麦わら帽子はマーズの頭の後ろで方でとまった。マーズはそんなことにはお構いなしで、ビーナスやジュピター、マーキュリーまでも追い越して。ただひたすら森を目指した。
 ムーンがマーズを追いかける。マーズが走り出したからではなく、森の方に匂いを感じたからだ。(きっと優しくてハンサムな彼が、私を待っているんだわ)ムーンはそう思った。
 森の中に入ってムーンは「ワンワンワン」と三回吠えた。マーズは「わぁ、すごい」と森の方を大声を上げた。

 マーズは一歩、そしてまた一歩と足を忍ばせて、草むらをかき分けながら進んでいく。どこかに隠れているバッタを逃がさないように、マーズは息をするのにも注意した。体をかがめ、目を地面に集中する。そんな風にしてもバッタのジャンプ姿は見られない。マーズは虫とり網を置いて草むらに手をつき、はいつくばりながらバッタを探したが、バッタはどこにもいなかった。草と土の匂いだけがマーズの鼻に残る。
(あーあ、どこにもバッタなんかいないや)マーズは溜息をついた。
 マーズはあきらめて体を起こすと、草むらにあぐらをかいて座った。虫とり網を掴んで、でたらめに一振りすると、確かな手ごたえを感じた。網の中をのぞいてみると、五匹のバッタが入っていた。(えっ?)五匹を虫かごに入れる。もう一度適当に網を振ってみる。するとまた手ごたえがあった。網をのぞくとまたバッタが入っていた。今度は三匹。(どうしてだろう?)虫かごに三匹のバッタを入れながら、マーズはそう思った。
 バッタ取りはやめて、マーズはセミの声がする木の方に行った。マーズは木を一つ一つ注意しながら見ていった。顔を上げ、木の高いところも見たのだが、カブトムシやクワガタどころか、樹液を吸う虫たちは一匹もいなかった。
(おかしいな、セミの鳴き声とか聞こえるけど、一匹も見えない。セミはどこで鳴いているのだろう?)
 虫とり網を持ったマーズが、しばらく木を見上げていると、手足の長い大きなクモが、木の上からキラキラ光る細い糸にぶら下がるようにして、マーズの目の前に突然現れた。クモがマーズの顔に飛び移ってきそうで、マーズはしばらく動くことができなかった。クモは糸にぶら下がったまま、マーズの様子をじっくりうかがっている。マーズはクモに見張られているようで怖くなった。一分、二分、そのくらいの時間だったろうか、マーズを十分観察したクモは、エレベーターで上の階を目指すみたいにスーッと上っていきやがて消えた。手足を動かすことができないマーズは、それを目だけで追った。
 しばらくすると、マーズの手と足の自由が戻って来た。虫とり網も掴むことができるし、足にも力が入る。マーズはほっとした。
 マーズは草むらに寝転がって空を見た。青空にいろいろな雲。風がないのか雲は流れることなく、ぽかりと浮かんでいた。こんなにいい天気なのに気分がすぐれない。(ひょっとしたらこの森じゃなかったのかな。この町には別の森があって、そこに行けばよかったのかもしれない)
 マーズは右手に持った虫とり網を、寝転がったまま大きく振ってみた。何かが虫とり網にかかった感触があった。マーズが上体を起こし、網を自分の目の前に持ってくると、網にクワガタが入っていた。(えっ? どうしてだろう? さっきはバッタで今度はクワガタ。どこにクワガタがいたんだ?)マーズは立ち上がって、もう一度虫とり網を大きく振ってみた。するとまた手ごたえがあった。今度はカブトムシが網に入っていた。(カブトムシなんていなかったのに、どうしてなんだろう?)マーズは何度も何度も虫とり網を大きく振った。

(やっぱりこの森でよかったんだわ。私と同じパグ犬。私よりもくりくりとした大きなお目目。しわくちゃのお顔がなんだかとってもカッコいい。本当にハンサムだわ。彼の彼女になれたらいいな。シャンプーをしてきて本当によかったわ。耳の赤いリボンは私のお気に入り。彼、見てくれているかな)
 ムーンは胸がドキドキして熱くなった。彼女は三回「ワンワンワン」(こんにちは、あなたのお名前は?)とハンサムに呼びかけた。ハンサムは不思議そうな顔でムーンを見ている。
(どうしたのかしら。まさか聞こえなかったとか)ムーンはそう思ってもう一度「ワンワンワン」(こんにちは、あなたのお名前は?)と、ハンサムに声をかけた。やはりハンサムは何も答えずに、ただムーンを見ている。
(失礼しちゃうわ。いくら自分がハンサムだからって、女の私が声を掛けているのよ。それなのに何も答えない。何様のつもり? 冗談じゃないわよ。私だってお散歩の時に『お付き合いしてください』って、男の子たちから何度も言われているんだから)ムーンはハンサムに「ワン!」(あなたなんて最低よ!)と一つ吠えてから、ハンサムを後にして歩き出した。(きっと別の彼が私を待っている。私のシャンプーの香りと、赤いリボンを気に入ってくれる別の彼が私を探している。この町は、私の願いを何でも叶えてくれるんだから)
 十歩ほど歩いたところで、ムーンはこちらを見ているパグ犬を見つけた。そのパグ犬は、ムーンを見ても動こうとしない。座ったままじっとしている。少し変だとは思ったが、ムーンは足を速めて近づいて行った。人の世界でも犬の世界でも、挨拶は大切だと飼い主のパパとママが言っていた。
「ワンワンワン」(こんにちは)「ワンワン」(一緒に遊びましょ)そうムーンが吠えても、パグ犬は何も答えない。(おかしいな、こんなに大声で挨拶しているのに聞こえないのかな)そう思いながら、ムーンは一歩二歩とゆっくり前に進んだ。
(あっ!)
 驚きのあまりムーンは腰を抜かしてしまい。背中が地面について、お腹は上を向いてしまった。ムーンを驚かせたパグ犬は、さっきのハンサムだったのだ。
(どうしてあなたがここにいるの?)
 ムーンは起き上がり、今歩いてきた方を見た。遠くではあったが、ハンサムの姿が見えた。そして向き直るとハンサムがいる。
(まさかこんなことがあるなんて……)
 ハンサムの氷のような冷たい視線が、ムーンの心に突き刺さる。それが無言の言葉に変換される。
「私はあなたを認識できない」
 ムーンはその氷の声を聞き取ることができなかった。
 
  網に入ったバッタやカブトムシを虫かごに入れていくと、虫かごが昆虫たちで一杯になった。マーズはもう一つ虫かごが欲しくなったので、目を閉じ、虫かごが欲しいと願った。
 一、二、三、四、五、マーズは目を閉じていられなくなってしまった。少しずつ瞼が開いてくる。「あっ!」それは大きな声だった。六、七、八、マーズは目を固く閉じ、五の次から数えていった。
 もう一つの虫かごも、虫たちですぐに一杯になった。こんなにバッタやクワガタ、カブトムシをとることができたのにうれしくない。虫取りは面白いはずなのに、どうして気分がすぐれないのだろうか?
(網を振れば虫がとれるなんて、簡単すぎてつまんない。虫とりは難しいはずなのだ。それななのに少し網を振っただけで虫をつかまえることができた。誰かが僕の網に虫たちを「さあ、どうぞ」と入れているような気がする。この町には誰も住んでいないとは言っていたけど、ここには僕たちの他に誰かがいる。そして、その誰かは人間ではない。あれは何だったのだろう? 僕が数を数えている時に見てしまったあれは何だ?)マーズは少し怖くなった。
 虫たちを持ち帰ろうなんて気持ちはおきない。それどころか二つの虫かごから聞こえてくるガサガサという音が不気味だ。この虫たちから離れたい。マーズは虫かごから昆虫たちを逃がそうとした。ところが虫たちは虫かごから出ようとしない。マーズは虫かごを思いきり振ってみた。すると、バッタやクワガタそれにカブトムシが勢いよく虫かごから飛び出した。虫かごから飛び出た昆虫たちは、黒い点になり宙にしばらく浮いていた。それから黒い点は、天上にある一点に向かって駆け上がっていった。
 空の奥に何者かがじっと潜んでいて、透明のストローで一気に吸い込んでいるのではないか、と、マーズは思った。
 手と足の震えが止まらない。マーズは必死に震えを止めようとするのだが、体はマーズの意思を受け止めてくれなかった。

(もうハンサムな彼なんてどうでもいいわ。私は自分の間違いに気づいたの。大きなお目目とかお鼻とかお耳、それは犬の個性よ。個性はもちろん大事よ。でも私の理想の彼は、優しさや思いやりがあふれているパグ犬なのよ。『こんにちは』とあいさつをしたら『こんにちは』と返してくれる。そんなこともできないなら、どんなにイケメンだって、私はお断りだわ。どうやらこの町には、私のことを一番に思ってくれる彼はいないみたい)
 ムーンは彼氏がいないことに少しだけ寂しさを感じた。下を向きながら歩く。
(あーダメダメ、こんなことじゃダメよ。気持ちを切り替えないと。だって私はまだ若いんだから。これからたくさんの出会いが私を待っている。そして最愛の彼に出会う。その時まで待てばいいのよ)
 そう思った後、ムーンはこの森の中で思いきりボール遊びをしたいと思った。飼い主のパパとママがいつも遊んでくれる水玉のボール。
(誰かあの水玉のボールを投げてくれないかな。彼なんかじゃなくて、今は水玉のボールを追いかけたい。そうだ、目を閉じて願えばいいんだっけ? あれ? お祈りだったかな? もうどっちでもいいわ。とにかく目を閉じればいいのよ)
 ところがムーンはうまく目を閉じることができなかった。
(あー上手く目を閉じることができない。水玉のボールを追いかけたいし、もう我慢できないわ。目を開けたまま数を数えちゃえ)
 一、二、三、四、五、数を数えながら、ムーンは今目にしていることに、自分の目がだんだん大きくなるのを感じた。六、七、八、九、十。
(何なの? これって何?)ムーンは胸がドキドキしてきた。(これは見てはいけないものかもしれない)
 水玉のボールがどこからか投げられた。ムーンは反射的にボールを追いかけた。
(少し遊んだら帰ろう。彼氏探しは終了よ。パパとママに早く会いたいな)ボールをくわえ、ムーンはそう思った。
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