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高校二年生 夏

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 堀内さんとの電話を切った後、部屋着から着替えて、すぐに駅に向かった。時刻は二時を回ったところだ。

 まだまだ夏真っ盛り。照りつける日差しが僕の肌を焼く。そんな暑さの中でも、僕の歩くテンポは一定のリズムを保ったままだった。落ちる気配がしない。最寄駅に着き、改札を抜け、タイミングよく到着した電車に乗り込む。

 数駅揺られた先で一度乗り換える。以前先輩から聞いていた駅で降りた。電車の窓から見えていたけれど、かなり大きな商業施設が併設されているようだった。初めて降りる駅だったので、広い駅の中を迷いながら進み、なんとか駅の外へ出ることができた。優雅に散策する時間なんてもったいないので、先輩の家の住所をスマホのアプリで検索し、寄り道もせずに向かった。

 堀内さんが言う通り、駅からは遠くなく、迷わず着くことができた。表札には『水無』と書かれていた。先輩の家で間違いなさそうだ。

「ふぅ」

 ここまで来たけれど、おそらく先輩は中にいない。両親はいるのだろうか? 二台停めることができる駐車場には、一台しか停まっていなかった。
 僕は先輩の両親に会ったことがない。兄妹は……確かお兄さんがいると言っていた気がする。当然、その人にも会ったことがなかった。先輩が家で僕のことを話していなかった場合、ストーカーと間違えられてもおかしくないんじゃないか……? いや、家の前まで来ている時点で紛うことなきストーカーじゃないか……! ツーアウトと言ったところだろうか。

 ここまで来て、今更弱気になってどうする! 僕はなんとかなる、と思考を放棄し、インターホンを鳴らした。
 数秒して、玄関の扉が開き、出てきた人物を見て、言葉を失った──

「あ」

 先に声を発したのは、先輩の家から出てきた人だった。

「……入ってくれ。立ち話もなんなので」

 先輩の家から出てきたのは、茶髪で大学生くらいの風貌。僕もよく知る人物だった。

 僕を家の中に入るように促したのは、ナンパ男だった。

 初めて訪れた先輩の家は、白を基調としている内装で、甘い香りが漂ってきた。僕は突然訪れたというのに、片付いており、ホコリひとつないように思えた。彼は僕をリビングに通してくれた。どうやら家にいるのは、彼だけのようだった。

 あぁ、全てが繋がった気がした。この人と先輩の関係も。

「そこに座ってくれ。長くなるかもしれないから、ゆっくり紅茶でも飲みながら話そう。レモンティーでいいか?」
「は、はい」
「好きにくつろいでくれ」

 そう言って、彼はお湯を沸かし、レモンティーを入れてくれた。

 勢いで先輩の家まで来てしまったけれど、少し頭を冷やすと、緊張が全身を駆け巡った。くつろぐことなんて到底無理だ。

 座るように指示されたL字型のソファの短い辺に腰掛けた僕は、じろじろと人の家を見回すのもよくないと思いつつも、テレビの前に飾られた写真や小さい頃に先輩が描いたであろう絵が飾られた部屋で目を泳がせないなんてできなかった。

「どうぞ」

 先輩たち四人が写る写真を見ていると、僕の前の長方形のテーブルに紅茶を出してくれた。

「ありがとうございます」
「あの写真を見てたのか?」お兄さんは長い辺の方に座った。
「あ、はい。すみません。勝手に見てしまって」

 勝手に写真を見ていたことがバレてしまい、バツが悪かった。

「あそこに飾ってあるんだから、別に謝ることなんてないよ。あの写真を見たってことは、きっと、俺が何も言わなくても、気づいてるんだよな?」

 お兄さんは流れるような動作で、レモンティーを啜った。

「はい。先輩──華蓮さんのお兄さんですよね」
「ああ、そうだ。他にも気づいたことは?」
「華蓮さんのご両親に見覚えがあります。僕と華蓮さんが神ヶ谷公園に行ったときです」

 僕らが公園内を歩いているときに指輪をなくしたという中年の男女に声をかけられた。その二人の顔にそっくりだった。記憶上の二人からは少し年月が経ったことを感じられたが、女性の優しく笑う顔、男性の控え目に笑う顔、写真には二人の面影があった。

「その通りだよ。家まで来たってことはある程度、華蓮の状況を把握してると思って、いいのか?」

 お兄さんも僕がどこまでの情報を知り得ているのか、探り探り訊いてきているようだった。僕が隠す意味もないので、全てを話す。

「今は……病院ですか?」
「そこまでバレてたら、全て話すしかないな」

 お兄さんは降参だ、と言わんばかりの表情で、初めて表情を崩した。控え目な笑みは父親譲りなのかもしれない。先輩の優しい微笑みは、母親譲りだろう。

「どこから話そうか。まずは、あのメールについて話そう」
「ミライのボクってやつですよね」
「ああ。あれは、気づいてると思うけど、俺が送ったものだ。正確には家族で協力して、未来を作って、君に信じてもらおうとしていた。本当に申し訳ない」

 お兄さんは頭を深々と下げた。

「そんな……頭を上げてください」

 歳上の人に深々と頭を下げられると居心地が悪かった。

「いや、君に対して悪いと思っていながらもメールを送っていた。君を騙していたんだ。きっと、傷つけた。本当に申し訳ない。許してもらえるとは思っていないけど、俺に言えることであればなんでも話す。なんでも訊いてくれ」

 僕は謝罪を聞くよりも、真実を知りたかった。

「傷つかなかったと言えば、嘘になります。お兄さんと先輩の写真が送られてきたときは、時が止まったように感じました。でも、そんなことをしたのは理由があるんですよね。それを教えてもらいたいです」
「わかった。あのメールを思いついたのは、華蓮との交際が始まって、数ヶ月が経った頃だ。春になる前だったか春になったところだったか、正確には覚えてないけれど、その頃だったと思う。華蓮はもしものときのことを考えて、布石を打ったんだ。最終的に、華蓮は自分から嫌われ、君が離れていく方法を探していた──」
「どうして嫌われなくちゃいけないんですか?」僕はお兄さんの言葉を遮り、食い気味に訊いた。
「……薄々気づいてるんじゃないか?」

 お兄さんの言葉に僕は心臓を掴まれたような感覚に陥った。考えないようにしていた。先輩が通院している理由を考えたくなかった。何も知らされていなかった僕が、あれこれ妄想したところで、単なる妄想に終わる。けれど、長い期間通院する理由なんて、限られているんじゃないのか? 僕は真実に近づくことを恐れていた。

 最近、先輩と一緒に帰れる日が減ってきていた。たまに最寄駅ではないはずの駅で降りることもあった。今になって考えると、きっと病院へ行っていたのだろう。これは何ヶ月も前からだ。隠し通せるくらいの怪我にしては治りが遅い。怪我でないとしたら、病院へ行く理由は一つしかないんじゃないのか?

「病気……なんですか?」

 僕は、お兄さんの否定する言葉を待った。

「そうだ」

 彼は辛そうな表情で言った。僕の質問に肯定することで、病気であることを再認識することになる。僕は残酷な質問をしたことに後から気づいた。それでも、その先を訊かずにはいられなかった。
 一言で病気と言っても、種類はある。軽度のものから重度のものまで。今は体調が悪いのかもしれないけれど、また数ヶ月後には今までのように屈託のない笑顔で僕の前に現れてくれるんじゃないか? 
 淡い期待を胸に、僕が訊ねるために口を開こうとしたとき──

「冬を迎えることは難しい。そう言われていてね」

 『冬を迎えることは難しい』その言葉から先輩の置かれている状況を理解することはできた。頭では理解できても、心が追いつかなかった。認めたくなかった。先輩との別れがすぐ目の前にまで迫っている事実を。

 この場から逃げ出したい。現実から逃げ出したい。夢であってくれ、夢なら覚めてくれ。何度そう願ったところで、夢は覚めるどころか非情な現実を突きつけられるだけだった。

 僕が何も言えないでいると、お兄さんが、「黙っていてすまなかった」ともう一度謝罪した。悲壮感漂うその姿を見ると、ハッとさせられ、後悔が押し寄せてきた。
 彼は先輩と家族だ。血のつながった家族なんだ。今まで何も知らずに先輩と楽しく過ごしてきた僕が謝られる道理がどこにある? ずっと辛かったはずだ。先輩だけでなく、家族も。前に電車で見たときよりも、心なしかやつれている気もする。

 お兄さんや先輩の気持ちを推し量ると、気遣いに欠けていた僕は、自己嫌悪に陥る。

「──そういうわけで、これ以上関係を縮めないためにあんな方法をとったんだ」
 
 お兄さんは神妙な面持ちで続ける。

「華蓮はわかっていたんだ。君に病気のことを告げて別れようとしても、きっと最期の一瞬まで華蓮の傍にいることを選ぶって。華蓮はこう言ってた、『これから一緒にいてあげられない私に時間を割くよりも、もっと自分の時間を大切にして欲しい。お見舞いに来るようになったら、夏樹くんの時間を奪っちゃうことになるから』って」

 先輩が僕を遠ざけようとした理由はよくわかった。しかし、僕は全く腑に落ちていなかった。

 自分の時間を大切にして欲しい? 僕の時間を奪う? 勝手に決めるなよ! 

 僕の時間をどう使おうが僕の勝手だ。僕は決して誰かに指示されて、先輩と付き合って、遊びに行っていたわけではない。自分の意思で、そうしたいから先輩と会っていたのだ。最初の頃は振り回されながら遊びに行っていたかもしれない。それでも遊びに行く選択を僕自身が最終的にはしたんだ。時間を奪われたなんて、そんな風に考えたことはなかった。

 先輩は僕の気持ちをわかっているようで、何もわかっていない! 僕の大切な時間がなんなのかわからせたい。勝手に僕の気持ちを決めつけて、何も言ってくれなかった先輩に怒りまで湧いてきた。

「華蓮が想像する以上に君はしぶとかったみたいだけどね」

 お兄さんは少し嬉しそうに言った。

「はい。僕があの写真くらいで折れると思われてたことが心外です。華蓮さんに文句を言いたいんで、会わせてください」

 文句を言いたいから妹に会わせてくれ、という無茶苦茶な発言が普通なら通るわけがないだろう。

「ははっ、文句か。文句も一つや二つじゃ、終わりそうにないな」
「はい。文句を言い終えたら、華蓮さんに僕がどれだけ想っているのか言ってやりたいです」
「実の兄にそんなこと言えるのすごいな。さすが家まで来るだけのことある。華蓮はいい彼氏を持ったんだな」

 お兄さんは満足そうに、温かい目をして言った。

「父さんは仕事で、母さんは華蓮のところにいてることが多い。俺は大学ない日とかは顔を出すようにしてる。明日、大学が午前中に終わるから午後から行く予定だけど、一緒に行くか?」
「はい! お願いします!」
「了解。華蓮には黙っておくよ。きっと俺が全部言ったこと知ったら、華蓮に怒られるんだろうなー。計画をめちゃくちゃにしたーって」
「華蓮さんなら言いそうですね」

 お兄さんの言い方が先輩にそっくりで笑ってしまった。兄妹なんだな、と思った。

 僕の疑問点を解消し終えた後は、先輩の幼少期の話や病気のことを聞かせてもらい、外も暗くなってきたところで、帰ることにした。家まで車で送ってくれるらしい。もっと先輩について聞きたかったので、お言葉に甘えて乗せてもらうことにした。
 一台停まっていた車は家族共用の車のようだ。助手席に座り込み、道案内をするつもりだったが、先輩の家まで電車で来たため、道が全くわからなかった。僕は役立たずの置物になってしまったので、ルート案内をナビに任せることにした。文明の利器とは素晴らしい。

 ナビのおかげで、迷うことなく僕の家に着いた。家を出たときはまだまだ日は高かったのに、すっかり日も沈み、藍色の空が広がる。扉を開ける前に一つだけ言いたいことがあったので、言っておくことにした。

「お兄さんってシスコンですよね?」
「バレた?」
「はい。めちゃくちゃ大切に思ってることが伝わりますもん」
「恋愛感情はないから、安心してくれ」暗い車内でもわかるくらいのドヤ顔で言った。
「あったら僕とライバルになってしまうんで、良かったです」
「まあ、華蓮は俺じゃなく、君を選ぶはずだから大丈夫だろうよ」
 
 お兄さんに感謝の気持ちを告げて、僕は降りた。
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