3 / 27
3.影との遭遇
しおりを挟む
逃げる時に一本掴んだ松明を翳しながら、アカリは走った。バルドルを置いた町の外まで炎が照らしているから火のついた松明は必要なかった。
「バルドル!」
アカリは名を呼んだ。普段ならどこにいても、すぐに返事が返ってくる。しかし、なぜだか今回はその返事がなかった。
つないでいるわけではないが、今までバルドルがどこかに行ってしまうことなどなかった。燃え盛る炎に驚いて逃げてしまったのだろうか。
近くにいることを期待してもう一度名を呼ぼうとしたアカリは、頬に冷たい水滴が触れた感触に、反射的に天を仰いだ。
「……まずい」
火の最大の敵は水に他ならない。
「バルドル! バルドル! バルドル!」
アカリは慌てて立て続けにその名を呼ぶが、今度も返事はなかった。
その間に、ぽつぽつと降り始めた雨はあっという間に勢いを増していった。すぐにアカリが持っていた松明の火を消してしまうほどの豪雨になり、アカリがかぶった襤褸は水を吸って重くなっていった。
雨粒の冷たさにアカリは空を見上げて呻いた。こんな時に、最後の最後の希望さえ冷徹に奪っていく神への呪詛を、喉の奥から絞り出した。
背後からアカリを照らしていた町を燃やしていた炎が、次第に火勢を失っていくのを感じていた。みるみる弱々しくなっていく背中の熱を感じながら、アカリは「消えないで」と半泣きで呟いた。
しかし、その願いが叶うことはなく、あれほど猛り狂っていた炎は、呆気なく静まっていった。
そして――辺りが闇に包まれた。背後から微かな悲鳴が巻き起こったのが聞こえた。町にいたそれなりに数いた人たちの断末魔の叫びがすべて消え、闇に相応しい静寂が満ちるまでそれほどかからなかった。
そして、先ほどまでの土砂降りが噓のように雨も収まっていく。
アカリは振り返らなかった。
さっきまで町だった場所で何があったのか容易に想像ができる。町を守っていた火は、今度は町を奪い、悪魔を――影を町だった場所に招き入れた。
身を守る術を失ってしまったアカリには何もできない。
戻ることも、進むことも、確かめることも。
アカリは、ファントムに取り囲まれていることを悟っていた。闇の中、手を伸ばせば触れられるほどの距離に、数えきれないほどの何者かがいることを、その気配が教えてくれている。
……私は、ここで、死ぬ。
アカリは、諦めとともに目を瞑った。せめて、死ぬ時に見苦しく悲鳴を上げることだけは避けようと、ぐっと唇を噛みしめた。血の味が口の中に広がる。
目を瞑ったアカリだったがファントムの姿が閉ざされた瞼を通して見えるような不思議な感覚を感じていた。ファントムは人の姿に似た影のような姿。それが両手を突き出して迫ってくるのが、はっきり見えるような気がした。
そして何十もの掌に触れられたような不快な感触を感じた。
それは死の感覚だったのだろうか。
すっと意識が遠のいていった――。
この後に待っているのは、二度と目覚めることのない永遠の眠り。
――のはずだった。
アカリは、不思議な温かさを感じていた。それはとても心地がよい。何の不安も、恐れもない、まどろみの中にいる感覚。
いったい、こんな安心感、いつ以来だろう。
死の間際に見る夢のこと何と言っただろうか。懐かしいあの頃を思い出しているのだろうか。このまま思考は消え、自分という存在も消滅していくのだろうか。
だが同時に、自分が少し勇気を出せばこの目を開くことができるのだろうとも漠然と思っていた。
目を覚ましたくないと思う気持ちはありながらも、一度それを認識してしまうと覚醒するまでにさしたる時間はかからなかった。
少しだけ瞼に力を入れた。
しかし、目を開くとそこに広がるのは、ただの闇だった。
自分は一体どうなってしまったのだろう?
最後の光景を思い出した。確かに自分はファントムに触れられた。やはり自分は死んでしまって、ここは死後の世界という場所なのだろうか?
アカリは自分が今置かれている状況を確かめるために手を伸ばした。その時、身体がぐるんと、前のめりに一回転した。自分の足の下に何の感触もないことでアカリは気付いた。
アカリの足の下に立つべき床はなかった。
「浮いて……いるの?」
アカリは両手をかきながら泳ぐように前に進んでいった。突き出した手が何かに当たる。
硬い……。
痛い……。
冷たい……。
アカリはその感じから、手に触れたのは鉄製の棒のようなものだと考えた。うっかりするとグルんと回ってしまいそうになる自分の体を支えるために、その鉄の棒を握りしめた。
「バルドル!」
アカリは名を呼んだ。普段ならどこにいても、すぐに返事が返ってくる。しかし、なぜだか今回はその返事がなかった。
つないでいるわけではないが、今までバルドルがどこかに行ってしまうことなどなかった。燃え盛る炎に驚いて逃げてしまったのだろうか。
近くにいることを期待してもう一度名を呼ぼうとしたアカリは、頬に冷たい水滴が触れた感触に、反射的に天を仰いだ。
「……まずい」
火の最大の敵は水に他ならない。
「バルドル! バルドル! バルドル!」
アカリは慌てて立て続けにその名を呼ぶが、今度も返事はなかった。
その間に、ぽつぽつと降り始めた雨はあっという間に勢いを増していった。すぐにアカリが持っていた松明の火を消してしまうほどの豪雨になり、アカリがかぶった襤褸は水を吸って重くなっていった。
雨粒の冷たさにアカリは空を見上げて呻いた。こんな時に、最後の最後の希望さえ冷徹に奪っていく神への呪詛を、喉の奥から絞り出した。
背後からアカリを照らしていた町を燃やしていた炎が、次第に火勢を失っていくのを感じていた。みるみる弱々しくなっていく背中の熱を感じながら、アカリは「消えないで」と半泣きで呟いた。
しかし、その願いが叶うことはなく、あれほど猛り狂っていた炎は、呆気なく静まっていった。
そして――辺りが闇に包まれた。背後から微かな悲鳴が巻き起こったのが聞こえた。町にいたそれなりに数いた人たちの断末魔の叫びがすべて消え、闇に相応しい静寂が満ちるまでそれほどかからなかった。
そして、先ほどまでの土砂降りが噓のように雨も収まっていく。
アカリは振り返らなかった。
さっきまで町だった場所で何があったのか容易に想像ができる。町を守っていた火は、今度は町を奪い、悪魔を――影を町だった場所に招き入れた。
身を守る術を失ってしまったアカリには何もできない。
戻ることも、進むことも、確かめることも。
アカリは、ファントムに取り囲まれていることを悟っていた。闇の中、手を伸ばせば触れられるほどの距離に、数えきれないほどの何者かがいることを、その気配が教えてくれている。
……私は、ここで、死ぬ。
アカリは、諦めとともに目を瞑った。せめて、死ぬ時に見苦しく悲鳴を上げることだけは避けようと、ぐっと唇を噛みしめた。血の味が口の中に広がる。
目を瞑ったアカリだったがファントムの姿が閉ざされた瞼を通して見えるような不思議な感覚を感じていた。ファントムは人の姿に似た影のような姿。それが両手を突き出して迫ってくるのが、はっきり見えるような気がした。
そして何十もの掌に触れられたような不快な感触を感じた。
それは死の感覚だったのだろうか。
すっと意識が遠のいていった――。
この後に待っているのは、二度と目覚めることのない永遠の眠り。
――のはずだった。
アカリは、不思議な温かさを感じていた。それはとても心地がよい。何の不安も、恐れもない、まどろみの中にいる感覚。
いったい、こんな安心感、いつ以来だろう。
死の間際に見る夢のこと何と言っただろうか。懐かしいあの頃を思い出しているのだろうか。このまま思考は消え、自分という存在も消滅していくのだろうか。
だが同時に、自分が少し勇気を出せばこの目を開くことができるのだろうとも漠然と思っていた。
目を覚ましたくないと思う気持ちはありながらも、一度それを認識してしまうと覚醒するまでにさしたる時間はかからなかった。
少しだけ瞼に力を入れた。
しかし、目を開くとそこに広がるのは、ただの闇だった。
自分は一体どうなってしまったのだろう?
最後の光景を思い出した。確かに自分はファントムに触れられた。やはり自分は死んでしまって、ここは死後の世界という場所なのだろうか?
アカリは自分が今置かれている状況を確かめるために手を伸ばした。その時、身体がぐるんと、前のめりに一回転した。自分の足の下に何の感触もないことでアカリは気付いた。
アカリの足の下に立つべき床はなかった。
「浮いて……いるの?」
アカリは両手をかきながら泳ぐように前に進んでいった。突き出した手が何かに当たる。
硬い……。
痛い……。
冷たい……。
アカリはその感じから、手に触れたのは鉄製の棒のようなものだと考えた。うっかりするとグルんと回ってしまいそうになる自分の体を支えるために、その鉄の棒を握りしめた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
恋愛
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる