光の射す方へ

弐式

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3.影との遭遇

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 逃げる時に一本掴んだ松明をかざしながら、アカリは走った。バルドルを置いた町の外まで炎が照らしているから火のついた松明は必要なかった。
 
「バルドル!」

 アカリは名を呼んだ。普段ならどこにいても、すぐに返事が返ってくる。しかし、なぜだか今回はその返事がなかった。

 つないでいるわけではないが、今までバルドルがどこかに行ってしまうことなどなかった。燃え盛る炎に驚いて逃げてしまったのだろうか。

 近くにいることを期待してもう一度名を呼ぼうとしたアカリは、頬に冷たい水滴が触れた感触に、反射的に天を仰いだ。

「……まずい」

 火の最大の敵は水に他ならない。

「バルドル! バルドル! バルドル!」

 アカリは慌てて立て続けにその名を呼ぶが、今度も返事はなかった。

 その間に、ぽつぽつと降り始めた雨はあっという間に勢いを増していった。すぐにアカリが持っていた松明の火を消してしまうほどの豪雨になり、アカリがかぶった襤褸は水を吸って重くなっていった。

 雨粒の冷たさにアカリは空を見上げて呻いた。こんな時に、最後の最後の希望さえ冷徹に奪っていく神への呪詛を、喉の奥から絞り出した。

 背後からアカリを照らしていた町を燃やしていた炎が、次第に火勢を失っていくのを感じていた。みるみる弱々しくなっていく背中の熱を感じながら、アカリは「消えないで」と半泣きで呟いた。

 しかし、その願いが叶うことはなく、あれほど猛り狂っていた炎は、呆気なく静まっていった。
 
 そして――辺りが闇に包まれた。背後から微かな悲鳴が巻き起こったのが聞こえた。町にいたそれなりに数いた人たちの断末魔の叫びがすべて消え、闇に相応しい静寂が満ちるまでそれほどかからなかった。

 そして、先ほどまでの土砂降りが噓のように雨も収まっていく。

 アカリは振り返らなかった。

 さっきまで町だった場所で何があったのか容易に想像ができる。町を守っていた火は、今度は町を奪い、悪魔を――影を町だった場所に招き入れた。

 身を守る術を失ってしまったアカリには何もできない。

 戻ることも、進むことも、確かめることも。

 アカリは、ファントムに取り囲まれていることを悟っていた。闇の中、手を伸ばせば触れられるほどの距離に、数えきれないほどの何者かがいることを、その気配が教えてくれている。

 ……私は、ここで、死ぬ。

 アカリは、諦めとともに目を瞑った。せめて、死ぬ時に見苦しく悲鳴を上げることだけは避けようと、ぐっと唇を噛みしめた。血の味が口の中に広がる。

 目を瞑ったアカリだったがファントムの姿が閉ざされた瞼を通して見えるような不思議な感覚を感じていた。ファントムは人の姿に似た影のような姿。それが両手を突き出して迫ってくるのが、はっきり見えるような気がした。

 そして何十もの掌に触れられたような不快な感触を感じた。

 それは死の感覚だったのだろうか。

 すっと意識が遠のいていった――。

 この後に待っているのは、二度と目覚めることのない永遠の眠り。

 ――のはずだった。

 アカリは、不思議な温かさを感じていた。それはとても心地がよい。何の不安も、恐れもない、まどろみの中にいる感覚。

 いったい、こんな安心感、いつ以来だろう。

 死の間際に見る夢のこと何と言っただろうか。懐かしいあの頃を思い出しているのだろうか。このまま思考は消え、自分という存在も消滅していくのだろうか。

 だが同時に、自分が少し勇気を出せばこの目を開くことができるのだろうとも漠然と思っていた。

 目を覚ましたくないと思う気持ちはありながらも、一度それを認識してしまうと覚醒するまでにさしたる時間はかからなかった。

 少しだけ瞼に力を入れた。

 しかし、目を開くとそこに広がるのは、ただの闇だった。

 自分は一体どうなってしまったのだろう?

 最後の光景を思い出した。確かに自分はファントムに触れられた。やはり自分は死んでしまって、ここは死後の世界という場所なのだろうか?
 
 アカリは自分が今置かれている状況を確かめるために手を伸ばした。その時、身体がぐるんと、前のめりに一回転した。自分の足の下に何の感触もないことでアカリは気付いた。

 アカリの足の下に立つべき床はなかった。

「浮いて……いるの?」

 アカリは両手をかきながら泳ぐように前に進んでいった。突き出した手が何かに当たる。

 硬い……。

 痛い……。 

 冷たい……。

 アカリはその感じから、手に触れたのは鉄製の棒のようなものだと考えた。うっかりするとグルんと回ってしまいそうになる自分の体を支えるために、その鉄の棒を握りしめた。
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