光の射す方へ

弐式

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23.世界の形

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 “灯が”ピアノを嫌いになったのはいつの頃からだったか?

 母に褒められるのが誇らしく研鑽を重ねるのが楽しかったあの頃の気持ちを失ったのはいつだったのか?

 ついには母の目を恐れるようになったのはいつからだろう? 

  けれど、その前はどうだっただろう?

 よく頑張ったねと頭をなでてくれたこと。あなたには才能があるわ、と頬ずりしてくれたこと。

 あなたなら、世界一のピアニストになるわ……そんな期待の言葉をかけてくれたこと。

 でも、いつの間にか……。

 その言葉が、その行動が、その視線が……その全てが、"灯”を追い詰め、押しつぶしていった。

 しかし、それらは母としての愛情から出てきたものではなかったのか。アカリは、その愛情にちゃんと気づいていたからこそ、母親の期待に応えようとしたのではなかったのか?

 同時に、"灯"もまた母親のことを見ていたのだろうか。

 “灯”は、母親のことを「自分の代わりにピアノを弾いてくれる人」としか思っていない、と思っていた。実のところはピアノを通してしか自分の愛情を伝える術を持たない人だったのではないか……?

 頭の中に浮かんだ考えをアカリは振り払う。

「あの人の、自分勝手な優しさを、希望だと思えたのは、幼くて愚かだった頃だけだわ。まるでサンタクロースがクリスマスの朝にプレゼントを置いておいてくれるのが当たり前だと信じていたように、他人の好意が無条件に自分に向けられているものと思い込んでいたあの頃だけ」

 "灯"は傷ついていた。自分の命を奪うことを決意するほどに。

 "灯"は疲れ果てていた。自分の命を奪うということの意味さえ分からなくなるほどに。

 そんな"灯”に、自分を傷つける相手の裏側にまで思い至らなかったとしても、責めることができるだろうか。それは間違いだと言えるほど、アカリは強くなかった。

 そんなアカリの目前に、バルドルはそっと右手の掌を上にしてアカリに向かって差し出した。その掌の上に積み木が置かれている。

 アカリから見たら三角に見える。

「それは……」と呟くアカリの目の前で、バルドルの掌の上の積み木がぱたりと倒れる。今度はアカリに見えるのは真円の底面である。

「君もよく知っているだろう? 円錐の積み木だよ。これは横から見れば三角形だし、上から見れば丸に見える。視点をちょっと変えれば、丸にも三角にもなる。……“灯”は陸上をしていたけれど、『自己ベストを出して最下位だった』時に、今までで一番いいタイムだったというのは希望にもなるし、最下位だったというのは失望にもなる。つまり、ほんの僅かに視点を変えるだけで、"灯"の知っている世界の姿は簡単に変わってしまう。そのくらい、いいかげんなものなんだよ。"灯"たちが知っている世界なんていうのは……」

  アカリは首を振る。なんだか、騙されたような……ただの言葉遊びのようにも思える。

 それに何より……。

「それでも……何もしなければ、希望を持つことも、絶望することもないわ」

「希望も絶望もない世界……何者も存在せず、何者も生まれない世界という意味と同じなんだよ。そんな世界は今まで存在したこともなければ、世界中のどこにもない世界……。それは死んだら得られるのかさえ分からない」

「死ねば……消えるだけだわ。自殺したら永遠の責め苦を味わうとか、生きているうちに悪いことをしたら地獄に行くとか、そんなのは、本気で苦しんでいる人を救おうと思わない卑怯な人間の戯言よ! 本気で自分の存在を否定する人間の苦しみが分からない人間の、汚らわしい自己満足なだけの、言葉遊びよ!」

 悲鳴のような声を上げたアカリに、

「君を連れて行きたい場所がある」

 バルドルは話題を変えた。
 
 アカリはバルドルが顎を上げて目線を上げたのにつられて、同じように見上げた。水の底から見える日の光にも似た射すような鋭い光が目に飛び込んでくる。

 唐突にアカリの体が重力を感じなくなった。体がふわふわと浮いて何度も回転する。体が動くのを抑えようとしたが、支えるものがなく、掴まるものもない。

 この感覚は前にも経験したことがあるなとアカリは思い、そしてすぐに思い出した。エリューズニルに連れてこられたときに、最初に入れられていた檻の中の感覚。あのときと違うのは、アカリは檻の中にいるわけではなく、闇にとらわれているわけでもないことだった。

 体に力を入れると、体が回るのが何とか止められた。
 
 それは雲一つない大空の只中に置き去りにされたような気持ちの悪さを覚える。
 
「奇麗……。でも、怖い……」

 アカリは、率直な感想を口にした。 

「ここは君を縛る全てから解放された世界。――本当の意味で"自由"な世界」

 目の前にいるバルドルのトーンを押さえた声が、やけに遠くから聞こえたような気がした。
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