光の射す方へ

弐式

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25.別れ

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 ――北欧神話の世界では、死者たちの女王ヘル、ただ一人が、死者を生き返らせることができた。

 その声はアカリのちょうど真後ろから聞こえてきた。アカリの正面に立ったバルドルの表情がわずかに曇った。

「バルドルの弟のヘルモーズの哀願によって、ヘルは"全ての生命あるものがバルドルのために涙を流すこと"を条件にバルドルの命を蘇らせることを約束した」

 アカリとバルドルと取り囲む形で、ファントムたちが次々と湧き出してくる。アカリは、そっと振り返る。予想通り、そこにあるのはあのフード姿の闇の女王の姿。死と生を纏った女王の顔に浮かぶのは怒りよりかなしみ。

 いや……あわれみだろうか。

「多くの命ある者がバルドルのために涙を流した。けれど、バルドルのためにたった1人、悪神ロキだけが涙を流さなかった。結果……バルドルが蘇ることはなかった。ロキはこのために拘束され、神々による責め苦を与えられることになる。けれど、光の神バルドルが消えたことで生じた世界のほころびは確実に世界を蝕んでいった。小さな希望を抱いたために、バルドルのために涙を流した全ての生命ある存在は大きな絶望を抱いた。」

 アカリに対して語るヘルの言葉は、まるで子供に対して諭すようなものだった。最初は抑え込むような抑揚のない声だったが、すぐに感情を抑えられなくなったか荒々しいものが含まれるようなり、最後はまるで泣き叫ぶような声を上げた。

「希望は、絶望しか生まないのよ! そして、あなたも、絶望の中で消えることを望んだはず!」

 そう……確かに選んだ。

 アカリは思う。

 このまま目を覚ましたとしても、やはり母親には理解してもらえないかもしれない。理解しあえるなどと希望を持てば、結局絶望を味わうかもしれない。少なくともこのまま消えてしまえば、希望も、絶望もないまま消えてしまえるだろう。

 でも……。

 それでも……。

 アカリに向かってヘルが再び自分の中に取り込もうとするかのように手を伸ばしてくるが、アカリはすでに心を決めていた。

 ヘルから……いや、自分の中の絶望から目を逸らさない……。

 もう一度、そこから始めよう……と。

「ごめんね……」

 アカリはヘルに……いや、自分の中の絶望に謝った。

 思えば、絶望があるからこそ希望が生まれるとも言えるのではないか……。絶望を知らない人間に希望は訪れない。

 そういう意味ではヘルとバルドルは表裏一体の存在。どちらも"灯”の中から生まれた、という点を差し引いても、ある意味で同根の存在。

 アカリは自分からヘルの手に――絶望に向かって一歩踏み出した。自分から手を伸ばし、ヘルの手を掴むと、しっかりとヘルの目を見据えた。 

「私は、絶望の中に希望を探してみることにするよ。だからヘル。あなたの絶望の中の希望を、私に頂戴……」

 ヘルの手がアカリの体の中に沈み込んでいく。闇を冠した女王の口から出てきたのは弱々しいながらも確信したような口調でのさげすみの言葉だった。

「絶望の中に希望があるんじゃない。希望の中に絶望があるんだ。あなたは何度でも繰り返す。希望を見ては、絶望を見る。これから、一生……」

 ヘルの姿が完全にアカリに飲み込まれて消えてしまうと、ファントムたちもアカリの周りに集まってきた。ファントムたちがアカリに触れるたびに、光を放ち、一体一体消えていく。

 まるでファントムたちも救いを求めているかのようだと、アカリは思った。

 やがて、全てのファントムが消え去ると、アカリの正面――バルドルの後ろに、大きな扉が現れた。それは、何度も見たエリューズニルの玄関と同じものだった。

 この向こうに行けば、きっと帰ることができるのだろう。

 アカリが扉に手を触れるのを躊躇ちゅうちょしたのは、最初に開けた時の異様な重さや、扉の向こうにあった闇の中の断崖絶壁の景色を思い出したからだった。それをアカリの逡巡をととらえたか、バルドルがすっと横に移動し、アカリにドアの向こうへ行くようにと促した。

 アカリは小さく頷いて扉を押した。

 「大丈夫……」

  アカリの肩に、バルドルの手の感触が伝わってきた。温かい……。自分は何度この温もりに助けられてきただろうか。そう思うとアカリは、バルドルと別れることも、とてつもない絶望のようにも思えた。

 アカリがそんなことを考えていることに気付いたのか、そうでないのか……。

 バルドルは、そっと背中を押すように言葉をかけてきた。

「この扉はエリューズニルの玄関と同じもの……。あの時の君には、恐怖と絶望以外になかったからその先はなかった。でも、今なら、きっと……」

 アカリはこくりと頷くと、バルドルに別れの言葉をかけた。

「じゃあね。バルドル。先に戻っているわね。きっと、この先、また会えるんでしょう?」

「バルドルは君の中にいつでもいる。ヘルもね。君はきっと、希望も、絶望も、抱えて生きていける。……また、会おう」

「うん。またね」

 アカリはドアノブを力強く握りなおし扉を開くと、その先には、虹のような淡い光彩を放つ光の道ができていた。アカリは、恐れることなく足を踏み出した。足裏に響くような感触に、足下に地面があることで人は安心を覚える……というバルドルの言葉を思い出した。
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