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2章

知りたいことが知りたくはなかったことと同じだったとき【14】

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 タオルで顔の汗を拭くのもそこそこに、つかさがリングの上に駆け上がるのを横目に見る。ラウンドの始まりを告げる電子音が鳴ったのはそれからすぐだった。

 さて……こっちも仕事仕事。

 と、最近入ったばかりの会員にアドバイスをしようと背中を向けたリングの上で、つかさが川内の構えたミットに次々とパンチを打ち込む小気味のよい音がジムの中に響き渡った。時折聞こえる川内のアドバイスと手を止めずに律儀に返事をするつかさの声も。鋭い声に、自分の不安が杞憂であってほしいと切に願う。

 そんなことを思うサトルの耳元でキリカが囁いた。

「いいことを教えてあげる。休み明けの5月11日はつかさちゃんの誕生日なんだって。プレゼントでも用意してみたら?」

「はぁ?! 何を……」

 ボリュームは抑えることができたものの、思わず声が上ずった。

「別に……俺はそんな……」

「あんたってさ。焦ると一人称が“俺”になるね」

 サトルはわざと小さく咳き込んで、

「とにかく僕は……ボクシングジムのトレーナーが練習生に手を出したなんて言われたら大変ですよ」

「あんたはバイト。向こうはお客さん。別にあんたとつかさちゃんは教師と生徒じゃないんだよ」

 いたずらっぽい笑みをキリカが浮かべた時に、3分を告げるベルが鳴った。

「……一緒ですよ」

 とキリカには聞こえるか聞こえないかくらいの呟きで返した。

 その時、リングの上のつかさが、川内に声をかけたのが聞こえた。

「今月の11日は私の誕生日なんです」

「ああ。そうらしいね。吉野さんから聞いた」

 川内が返事をした。

 サトルにとっては、まさにさっき聞いたばかりの最新情報だったから思わず耳をそばだてた。

「なので……プレゼントください」

 つかさの単刀直入の物言いに、川内が苦笑らしい声を上げたのが聞こえた。妙に練習場の中が静かになったような気がする。皆、何かただならぬものを感じて、興味津々に聞き耳を立てているのだろう。冗談半分のセリフならとにかく、つかさの声音に笑いは全く含まれていないのだから、気にならないはずがない。

「別に、何か買ってくださいってわけじゃないです。ただ……」

 つかさが一瞬言葉を区切り、意を決したように、

「一度、スパーリングの相手をしてください」

 と言った。

「マスではなくて、真剣に」

 川内は困ったように頭を振った。冗談で片づけたいが、つかさが真剣に言っているのは見ればわかるので、そういうわけにいかない。そんな川内の内心が透けて見えるようだった。

「よせよせ……俺じゃ、体格が違いすぎる」

「それでもいいです」

「遊び半分ならとにかく、練習にならない」

「ならなくても、いいです」

 あくまでも断ろうとする川内に対して、つかさはなおも食い下がる。

「……分かったよ」

 結局折れたのは川内のほうだった。

「11日の練習が始まる前に時間を取るから。場所は地下室のリング。2分2ラウンドでいいか?」

「はい」

 その会話が終わるのを待っていたように、サトルの頭がキリカにはたかれた。

「さぁ、キリキリ働く働く」

「了解……」

 肩を竦めてから、先ほどまでの喧騒を取り戻したジムの中を見渡した。リングの上では、つかさがもう口を開くこともなく、黙々と川内が構えるミットにパンチを打ち込んでいた。その様子に少しだけ安堵の気持ちを覚える。スパーリングの申し出は、彼女なりに何か思うところがあってのことだろう。それならそれでいいと思った。

「何か、分からないことはありますか?」
 
 サトルはそう言いながら、鏡の前で手の止まっている中年女性の会員に声をかけた。 

     *     *     *

 サトルの携帯電話に江藤梓から連絡があったのは連休が始まった3日の朝のことだった。
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