ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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3章

一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【5】

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 サトルは地面に置いたミットやグローブを入れたスポーツバッグを取り上げ、持ち上げた。持ち上げた拍子に、右腕の二の腕に軽い痛みが走る。パンチを受け止めるというのは、ただ拳の前にミットを差し出せばいいというものではない。しっかりと力を込めて受け止めないと、ミットを持つ方が怪我をする。

 ……今日はずっと、つかさのパンチを受け止め続けてきたからな。

 このバイトを始めたばかりの頃は、よく感じていた痛みだった。ミットを受けた瞬間に、腕全体にビンっと走る衝撃を面白く感じるようになったのはいつごろからだろう。

「明日は、何をするかな……」

 呟いた瞬間、背中に何か得体のしれない視線を感じたような気がした。“気”なんてものは漫画の中だけの話だと思っていたが、確かに殺気の様なものを感じたのだ。そんなものを向けられる覚えはないはずだが……。

 しばらく気付かないふりを続けてみたものの、いつまでも、その視線が離れてくれないので、意を決して一呼吸して振り返る。

「あなたは?」

 振り返った瞬間、視界に入り込んできた髪の長い女性の姿。サトルは思わずびくりと肩を震わせた。年の頃は30歳を少し過ぎたくらいだろうか。少し疲れたような表情をしていると思った。そんな表情が相まって。こちらを見つめている視線は、冷たいような、感情のこもらないような。不気味さを感じさせる瞳に思えた。

 ここで遊んでいた子供たちの親御さん……じゃないよなぁ。

 と、何となく間の抜けたようなことを考える。

 自分が会ったことのある人間だろうか……そう考えたときに、その視線の主に、見覚えがあることに気付いた。というよりも、よく見知った顔によく似ていた。髪を短くして、年齢を15歳くらい若返らせて、さらに天真爛漫な笑顔をくっつけたら……。

 ついさっきまでここにいた、つかさに本当によく似ているのだ。
  
 しばらく、張り詰めた嫌な空気が辺りを支配していたが、「初めまして」と女性が大きく頭を下げた。

「私は……つかさの母親の高野由美子です。清水サトルさん……ですね」

 サトルは、以前つかさが自分の部屋に来た時のことを思い出しながら、小さく頷いた。

     *     *     *

 サトルが由美子に指定されたのは、サトルの部屋の近所にある喫茶店だった。場所や名前は知っていたが薄暗い外観の店なので、サトルは入ったことがない。いつも見かけるたびによく似た車ばかりが停まっていたから、どうやら常連ばかりでもっているような店なのだろう。

 ……お話があります。お時間をいただけませんか?

 と、由美子に言われたのは約30分前。

 ……時間は大丈夫ですから、荷物は置いてきてください。汗も、流してきて下さい。

 と言われたので部屋に戻り、練習用具を積め込んだスポーツバッグを放り込むと、シャワーを浴びた。

 普段と同じでTシャツとジーンズで出ようとして、さすがに失礼かと黒いジャケットを羽織った。

 そして、指定された場所へ向かう。

 向かう間に色々考えていた。

 由美子が自分とつかさの関係を誤解しているのであれば、それはちゃんと否定しておかなければならない。今の自分がやっていることが、つかさに対する好意からきていることだとしても、まだその感情を口に出すのは憚られた。

 それと同時に、自分が口を挟むべきではないと思いつつも、つかさと川内との間にある何かを、聞きだせるチャンスなのではないかとも思っていた。その結果如何によっては、今度のスパーリングは何が何でも止めるべきなのかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか喫茶店の前にたどり着いていた。少し汚れた白い外観の中、黒い扉の金色の細長いノブを回した。

 中に入る。

 ドアに付けられた小さな鐘が涼しい音色で鳴った。

 入った瞬間、カウンターの中にいたマスターらしき中年男性と、その奥さんなのだろう中年の女性と、カウンター席の数人の年配の男性客とが一斉にこちらを向いた。

 それらの面々は、すぐに顔を背けてしまったが、しかし、耳をそばだてて、肩越しにこちらに注意を払っているのがありありと見て取れた。それは、あたかも、突如として入って来た異物に対して見せる警戒――いや、拒否反応そのものだった。

 これだから、常連ばっかりで成り立っている店は嫌いだ……。

 形は違えど、客商売をしている身としては――いや、そうでなくても、二度と来るものか、と思いながら店内を見回す。

 向こうも、サトルに気付いたらしい。一番奥まった小さいテーブルの横に立った由美子が小さく頭を下げた。
 サトルもそのテーブルへと向かう。

 こういう場合、何と言っていいのか分からず、「どうも」といった感じの、自分でもよく分からない何だかもごもごとした言葉を口にすると、小さく会釈した。

「どうぞ、座ってください」

 と言った由美子の笑顔が妙に怖い。

 勇気を出して、という言葉が決して大げさではない心境で、二人掛けの丸いテーブルの、由美子の正面の椅子に腰かけた。
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