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3章

一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【6】

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 すぐに、中年の女性が注文を聞きに来たので、サトルはコーヒーを頼む。由美子の正面にはすでに空になった白いカップが置かれていたが、彼女もコーヒーのお代わりを注文する。

 コーヒーが出てくるまでの間に、互いに頭を下げる。

「御足労をおかけしました」

「いえ。お待たせしました」

 そのまま互いに沈黙してしまうが、その沈黙を救ったのは、「どうぞ」という先ほど注文を聞きに来たのと同じ女性店員の、無愛想な声だった。サトルの前に白いコーヒーカップが置かれ、由美子のコーヒーカップには、陶製の白いコーヒーポットからコーヒーが注がれた。

 一緒に出されたミルクを少し入れ、角砂糖を一つカップの中に落とした。スプーンで軽くかきまわしてから、コーヒーカップを口に運ぶが、正直に言ってそれは眠気覚ましと大差ない代物で、サトルは顔をしかめて角砂糖をもう一つ入れた。

「……清水さんは、つかさと仲良くしてくださっているようですね」

 ポトン、と角砂糖が落ちる微かな音に重なって、由美子が口を開く。

「仲良く……ですか」

「違うのですか? 先日もお世話になったようですし、今日も、休日を裂いて練習に付き合っていただいたようで。引っ越してきたばかりで、あの子にはまだ良い友人はいないと思いますから、感謝しています」

 不思議と、その言葉に非難するようなニュアンスは感じられなかった。台詞の通りに感謝している雰囲気も感じられなかったが。今の「感謝」という言葉の意味を理解するにはサトルは若すぎるし、立場も違いすぎる。理解できる日が来るとしたら、自分に子供が出来たときなのだろうか。

 サトルはそんなことを思いつつ、「何か誤解しているようですが……」と言いかけて、次につなげる適当な言葉が見つからず言葉を止めた。何が誤解なのかとサトルは考える。サトルがつかさに対して好意を持っているのは確かなのだ。

「自分が、ボクシングジムのバイトとはいえ、指導する立場にある人間として、相応しくない、行動を取っているという自覚はあります。ただ、自分は、つかささんに対して、不誠実な対応はしていないし、しないつもりです」

 しばらく考えてから、自分の率直な気持ちを丁寧に伝えようとして、何が言いたいのかよく分からない言葉になってしまった。そんなサトルの様子がおかしかったのか、由美子は小さく笑みをこぼした。

「清水さんは、実直な方ですね。失礼ですが年齢はおいくつですか?」

「21歳の大学3年生です。……あっちの国立大学ではないですが」

 と答えた。この街には4年制の大学は二つしかないので、自嘲の意味を込めて「国立ではない方」という言い方をする癖がサトルにはあった。それが自身のコンプレックスからくるものだという自覚はあったので口には出さないようにしていたはずが、ついポロリと出てしまったのはやっぱり相当に緊張しているからだろう。

「あの子の父親は実直とはかけ離れた人でした」

 サトルは片眉を跳ね上げる。

 他人の家庭の話だから、立ち入ることを躊躇っていた話を由美子が始めたことに戸惑う。由美子の意図が分からないので、どう受け取っていいのか分からない。ただ、少なくとも、自分がつかさに好意を持っていることには気づいていると思った。

 サトルは同時に川内の顔を思い浮かべる。「実直とはかけ離れた人」という言い方が、何だか引っかかる。それは、今の川内しか知らないからだろうか。

「私がつかさを妊娠した時、私は15歳で、あの人は清水さんと同じ年齢でした」
 
 という台詞に再び戸惑った。たしか由美子と川内は同い年のはずだ。自分が考えていた“ストーリー”とは違う。どこかで、登場人物が入れ替わっていた。そして、その誤った登場人物に沿って自分は――おそらくはつかさも、話を考えてきた。

 あたかも、推理小説の謎解きの段階になって、これまで一行たりとも出てこなかった人間が真犯人だと判明するような不条理な感覚を覚える。

 由美子は視線を落として話を続けた。

「……彼は、近所の大学生でした。国立大の学生で、家から支援をされながら大学に通っていました。……子供だった私には、彼の存在は、周りの人間全てが子供に見えてしまうような大人の男性で、自分の知らない世界ばかりを知っている憧れの存在でした。今になれば、それがただ外面が良くて調子がいいだけの見栄っ張りで、無責任な享楽に過ぎないことは分かっているのですが、あの頃は、スタイリッシュな自分の知らない楽しいことを知っている人だと思っていたんです」

「……」

「……私があの子を妊娠したことに気付き、そのことを告げた時、彼は逃げました。大学を辞め、姿を消したのです。私は……彼を信じていました。何も言わずに逃げられるなんて考えもしませんでした。……どうしていいか分からないまま、時間だけが過ぎ、両親に気付かれたときには堕ろすことはできなくなっていました」
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