ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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1章

出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【4】

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 ヒュッと拳を突き出す瞬間に空気を切り裂くような音が聞こえる……様な気がする。そのくらい速い左を双方打ち合い、同時にディフェンスの技術を駆使して打ち出されたパンチをガードする。

「高野さんのほうがボディワークを多用していますね。相手のパンチを交わして、隙を作って撃つのが上手い。サトルのほうがリーチが長いからスウェーを多用しているのが危なっかしく見えますけれど。サトルのほうは、相変わらずストッピングとバーリングを多用していますね。やっぱり彼はガードの高さと堅さなら、うちのジムで一番ですよ」

 キリカがとりあえずの感想を述べたのはラウンドを終わったのを告げる電子音が鳴り、川内が一旦リングに上がって双方に簡単なアドバイスをして、リング横に戻ってきてからだった。とりあえず見たままを答える。ブロックするほうを好むか、ボディワークでかわすほうを好むかの違いはあっても、2人ともディフェンス技術は高い。

 それよりも、その2人が拳をかわしあうのを見て、息を呑んで見守っていた自分がいることに、キリカは内心悔しく感じていた。しかも、一人は自分の同僚だと思うと少しだけ腹が立つ。

「何気に、サトルって運動能力高いですね。いつも、イマイチやる気のなさそうな、今時の若者って感じなのに」

 年配の人から、『今時の若者』と十把一絡げにされたような言われ方をするのは嫌だが、普段のサトルがいかにも一生懸命に頑張るのを格好悪いと考えるような、ステレオタイプな『今時の若者』なだけに、ついついそんな言い方をしてしまう。

「あいつも……挫折組だからな」 

 川内の返事は、何だか独り言のようだった。そして、その後「俺と同じ……」と付け加えたような気がした。そして、それはキリカも同じ。サトルに対してかつかさに対してか、湧きあがった内心の悔しさを、思わず口にした。「あの時逃げなければ私だって……」と唇を噛み締めた。それから、誰にともなく言葉を続ける。

「私は逃げたんじゃない……」

 2ラウンド目の始まりを告げる電子音が響く。2人は再びリング中央で対峙する。1ラウンド目より少しガードを固めたサトルに対して、つかさは少しガードを下げた。防御主体に切り替えたサトルに対して、攻撃主体に切り替えたつかさ。キリカの目にはそう写る。

 キリカは両手をメガホンのように口にあてて叫んだ。

「二人ともファイトッ!」

 2ラウンド目は、つかさの手数が更に増えた。伸びやかで回転のあるパンチがサトルに向かって飛んでいく。明らかにギアを5速から6速に入れ替えたつかさに対して、逆にサトルは5速から4速に落としたような感じだ。サトルの手数は少し減った。しかし、ディフェンスは更に固くなった。

 傍で見ているキリカでさえ、これがマスであることを忘れてしまうような攻防。それが、唐突に終わったのは残り1分を切ったあたりだった。

 下へのフェイントから上に、左を伸ばしたつかさ。その左に被せるように、サトルが右を放った。打った瞬間に、サトルの顔に「しまった」という表情が浮かぶのが見えた。しかし、一度出したパンチは戻せない。

 サトルの白いグローブは、つかさの顎先をかすめていた。直撃ではない。かすった程度。おそらくサトルの拳にはほとんど感触らしいものはなかったはずだ。だが、それは彼女の脳を揺さぶるには十分な一発だった。ほんの一瞬だけには違いないが、つかさの脳が、つかさの全身に送る命令を全てシャットダウンできる程度には。

 次の瞬間、つかさはぺたん、と尻餅をついていた。その顔には、「あれ?」という困惑の表情が浮かんでいる。おそらく、こういうダウンのとられ方をしたことがなかったのだろう。それから、すぐに、今までの真剣な表情が一変して、口元に小さな笑みが浮かんだ。自分に何が起きたかわかって、苦笑いしたようだった。

「大丈夫か? 変なふうに入ってしまった……」

 グローブを外しながらサトルが声をかける。

「へーき、へーき」

 言いながら立ち上がろうとして、しかし、まだ足が言うことをきかないようで、立ち上がれずに再びへたり込んだ。

「平気じゃないみたい……」

顎先チンは脳震盪起こしやすい人体急所の一つだからな。……他に人はいないし、立てるようになるまで待っていればいいさ」

 川内が声をかけた。

「それとも、サトルに抱えてもらって降りるか?」

 その光景を想像したのか、つかさが真っ赤になった。蒸気でも上がりそうな勢いで拒否の声を上げた。

「立てるようになるまで待ちます!」
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