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1章
出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【5】
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「……川内さん、それセクハラですよ」
とキリカが釘をさすように言ったとき、入り口の自動扉がウィーンと音を立てて開いた。いつもはジムが開く時間ぴったりにやってくる団塊世代の男性会員が練習に来たようで、キリカは挨拶するために小走りに駆けていった。
* * *
「ダウンとったんだから、責任とって無事に送り届けろよ」
「大丈夫なですけれどねぇ…」
長椅子の上でしばらく横になっていたつかさはすぐにでも練習に戻りたかったようだったが、大事をとって今日の練習を切り上げるように、というのが川内の指示だった。夜の道を女の子ひとりで返すのは危険だと、サトルは付き添いを命じられたのだった。
制服姿のつかさと、夕刻の道を並んで歩く。時間は夕方5時過ぎ。太陽はオレンジの色をだんだん濃くしていた。
「家まで結構遠いのか?」
「歩いて20分もかからないですよ」
「……」
「……」
底辺大学に通う21歳のサトルにとって、高校生だった3年前はついこの間のことのようだ。男友達も多かったが、女友達もそれなりにいた。しかし、3年という時間には隔世の感を覚える。高校生になったばかりの女の子にとっての今時の話題というやつがよくわからない。この間あったばかりで、どんなタレントが好きなのか、スポーツは? 勉強は……といった共通の話題を掴めていなかったので、自然に話はボクシングの話になっていった。色気のない話だ……とサトルは思う。
「君は何で、ボクシングを始めたんだ?」
「何でって……」
つかさは「う~ん」と考えてから、
「ママを守ってあげられるようになりたかったんです」
と言った。
「お母さんを?」
「……いつか、お父さんが戻ってきたら、ぶん殴って、追い返してやれるように……」
「母子家庭だったのか」
DVで離婚したのだろうか。それにしても“戻ってきたら”とは? もしかして単に別れたのではなく、罪を犯して刑務所にいるとか、別れた奥さんを追い回していて、それから逃げ回っているとか? 週刊誌のネタのようなことを想像して、ぞわりと背中が震えた。
「母親を守る」ということと、「父親をぶん殴る」というのがイコールする感覚は理解できなかったが、さすがに、つかさの家庭の事情にまで口を挟む勇気はサトルにはなかった。これ以上この件には触れまいと、話を変えようとしたとき、「もっとも……」とつかさが言葉を続けた。
「今は、そういうのはあまりなくて、何らかの形でボクシングを極めたいと思っています。今の夢は、将来、オリンピックに出て、メダルを取ることですね」
夢――つかさの口からこぼれた言葉に、サトルは心臓をわしづかみにされたような気がした。高校生なら……誰だって、口にしたことのある言葉。しかし、人によって重かったり軽かったりする言葉。気軽に出たように聞こえた単語だったが、つかさが真剣な思いを込めて口にした言葉だとすぐに気付いた。だから、サトルの胸の中に響き渡った。だから、たまらなく苦しかった。
唐突に、昔自分が口にした言葉が脳裏に響いた。
……俺の夢は甲子園に行くことです。
もう5年――いや、6年前に自分の口から発した言葉が、”夢”というキーワードをきっかけに鮮明に思い出されてきた。硬球をバットで捕らえた音が。スタンドの歓声が……耳の中に蘇ってくる。しかし、戻ってくるのは純粋に夢を追いかけたいい思い出ばかりではない。嘲笑。罵声。静寂。そして自分自身への失望。
かつて、自分が夢と呼んだものは、計り知れないほどの挫折をサトルに与えた。そしてサトルは、そこから立ち上がることができなかった。
目の前の少女は、まだ挫折を知らない。自分自身に失望することも知らない。努力が無駄になることも知らない。期待を裏切ることの辛さも知らない。他人に自分の努力を否定される惨めさも知らない。
サトルの胸中に、つかさに対して、言葉にまとめることができない複雑な感情が膨らんだ。突然湧き上がってきた、彼女には何の責任もないささくれた感情が、そのまま言葉になって吐き出された。
「きっと叶うさ。男子ボクシングに比べて女子ボクシングは競技人口が少ないからな」
このあからさまに毒の含まれた言葉に、つかさが腹を立てて、憤っていたなら、どんなにか良かっただろう。しかし、現実にはつかさの顔は、さっと蒼白になった。その愛らしい笑顔が、途端に引きつったものに変わり、表情が砕けていく様が、サトルにもはっきりとわかった。
自分がどれだけの言葉を叩きつけたのか気付いて、自分の胸の中でいまだ渦巻くわけのわからない感情を制御できなかったことと、それをそのままつかさにぶつけてしまった自分の愚かしさを激しく後悔した。
とキリカが釘をさすように言ったとき、入り口の自動扉がウィーンと音を立てて開いた。いつもはジムが開く時間ぴったりにやってくる団塊世代の男性会員が練習に来たようで、キリカは挨拶するために小走りに駆けていった。
* * *
「ダウンとったんだから、責任とって無事に送り届けろよ」
「大丈夫なですけれどねぇ…」
長椅子の上でしばらく横になっていたつかさはすぐにでも練習に戻りたかったようだったが、大事をとって今日の練習を切り上げるように、というのが川内の指示だった。夜の道を女の子ひとりで返すのは危険だと、サトルは付き添いを命じられたのだった。
制服姿のつかさと、夕刻の道を並んで歩く。時間は夕方5時過ぎ。太陽はオレンジの色をだんだん濃くしていた。
「家まで結構遠いのか?」
「歩いて20分もかからないですよ」
「……」
「……」
底辺大学に通う21歳のサトルにとって、高校生だった3年前はついこの間のことのようだ。男友達も多かったが、女友達もそれなりにいた。しかし、3年という時間には隔世の感を覚える。高校生になったばかりの女の子にとっての今時の話題というやつがよくわからない。この間あったばかりで、どんなタレントが好きなのか、スポーツは? 勉強は……といった共通の話題を掴めていなかったので、自然に話はボクシングの話になっていった。色気のない話だ……とサトルは思う。
「君は何で、ボクシングを始めたんだ?」
「何でって……」
つかさは「う~ん」と考えてから、
「ママを守ってあげられるようになりたかったんです」
と言った。
「お母さんを?」
「……いつか、お父さんが戻ってきたら、ぶん殴って、追い返してやれるように……」
「母子家庭だったのか」
DVで離婚したのだろうか。それにしても“戻ってきたら”とは? もしかして単に別れたのではなく、罪を犯して刑務所にいるとか、別れた奥さんを追い回していて、それから逃げ回っているとか? 週刊誌のネタのようなことを想像して、ぞわりと背中が震えた。
「母親を守る」ということと、「父親をぶん殴る」というのがイコールする感覚は理解できなかったが、さすがに、つかさの家庭の事情にまで口を挟む勇気はサトルにはなかった。これ以上この件には触れまいと、話を変えようとしたとき、「もっとも……」とつかさが言葉を続けた。
「今は、そういうのはあまりなくて、何らかの形でボクシングを極めたいと思っています。今の夢は、将来、オリンピックに出て、メダルを取ることですね」
夢――つかさの口からこぼれた言葉に、サトルは心臓をわしづかみにされたような気がした。高校生なら……誰だって、口にしたことのある言葉。しかし、人によって重かったり軽かったりする言葉。気軽に出たように聞こえた単語だったが、つかさが真剣な思いを込めて口にした言葉だとすぐに気付いた。だから、サトルの胸の中に響き渡った。だから、たまらなく苦しかった。
唐突に、昔自分が口にした言葉が脳裏に響いた。
……俺の夢は甲子園に行くことです。
もう5年――いや、6年前に自分の口から発した言葉が、”夢”というキーワードをきっかけに鮮明に思い出されてきた。硬球をバットで捕らえた音が。スタンドの歓声が……耳の中に蘇ってくる。しかし、戻ってくるのは純粋に夢を追いかけたいい思い出ばかりではない。嘲笑。罵声。静寂。そして自分自身への失望。
かつて、自分が夢と呼んだものは、計り知れないほどの挫折をサトルに与えた。そしてサトルは、そこから立ち上がることができなかった。
目の前の少女は、まだ挫折を知らない。自分自身に失望することも知らない。努力が無駄になることも知らない。期待を裏切ることの辛さも知らない。他人に自分の努力を否定される惨めさも知らない。
サトルの胸中に、つかさに対して、言葉にまとめることができない複雑な感情が膨らんだ。突然湧き上がってきた、彼女には何の責任もないささくれた感情が、そのまま言葉になって吐き出された。
「きっと叶うさ。男子ボクシングに比べて女子ボクシングは競技人口が少ないからな」
このあからさまに毒の含まれた言葉に、つかさが腹を立てて、憤っていたなら、どんなにか良かっただろう。しかし、現実にはつかさの顔は、さっと蒼白になった。その愛らしい笑顔が、途端に引きつったものに変わり、表情が砕けていく様が、サトルにもはっきりとわかった。
自分がどれだけの言葉を叩きつけたのか気付いて、自分の胸の中でいまだ渦巻くわけのわからない感情を制御できなかったことと、それをそのままつかさにぶつけてしまった自分の愚かしさを激しく後悔した。
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