なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め

イニシ原

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一章 虹の種と孤独な手

6話 出会う一人

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背を向いたままだが、若い男のようだ。
 そうか――地面に置いてある荷物を見れば、一目でわかる。
 大きな背嚢には、雑貨や食料など葉や根がはみ出ている。
 つまり――彼は、行商人だ。

 もちろん危険はないだろうが、どこか気になる。
 無意識に足音を消し、少しだけ距離を詰めた。
 彼は休んでいるのか、空を見上げている。
 いくら待っても、こちらに気づく様子はない。

 ……このままでは、気が重い。
 まさか寝てるんじゃないだろうな……いや、立ったまま寝る奴は戦士くらいだろ。

 仕方なく、俺は声をかけた。
「なにか、用かな?」

 若者は、ゆっくりと振り向いた。
「あ、どうも初めまして。アーサーさんから言伝を預かっています。トリスといいます」
 名前を告げる声は、どうやら緊張しているようだ。

(ま、まさか……あいつの……)

「アーサーさんは、もうしばらく仕事で、こちらには来られないそうです。ですから、私が代わりに伺う予定です」
「そう……」
「あ、アセルさんは無口な方だと聞いているので、この辺りにしておきます」

(そんな理由じゃない……)

 トリスは力を込め、大きな荷物を背負った。
 それだけで、姿がほとんど隠れてしまうほどだ。

「今日は帰り道でしたので、すぐ失礼します。次は近いうちに食料をお届けしますね」

 じっと見ているだけの俺に、頭を垂れると、トリスは道なき道を歩き出した。

「あ、そうだ」
 突然、足を止めて振り向く。

「アセルさんって、妖精なんですか?」

 俺は、ほんのり笑って首を横にふった。

「……俺に羽は生えてないよ」

「ですよね……すいません。では、また」

 トリスの背が、木々の間に消えていく。
 ……あの時の背中を思い出す。

「こんな偶然、あるかよ……」
 声にならない声で、必死に訴えていた。
 今さら、あの時の真実を見つけろと言うのか?
 それは――無理だろ。

 あの若者は、盗賊の血筋で間違いない。
 きっと、息子だ。
 勇者にひかれし者か……
 まだ、俺にそんな力が残っているのか。

 ……無意味だな。

 翌日、朝の霧がまだ残る頃だった。
 それでも、もう一時間は経っているだろうか。
 昨日、「また来ます」と言っていたトリスが、どうやら本当に来ている。
 まだ挨拶はしていない。
 それでも、家の中にいてもわかる。
 美味しそうな朝飯を作っている音と匂いがした。

 外に出ると、すぐに声が飛んできた。
「おはようございます!」
 俺は軽くうなずくだけだった。

 種に水をやろうと思ったが、すでにバケツに水が汲んである。
 ……気が利く、というより、落ち着かない。
 必要はなかったのに。
 仕方なく、顔を洗いに川へ向かった。

「近いうちに」と言うのが、まさか次の日のことだとは思っていなかった。
 胃が痛むとは、こういうことか。
 ……まさか、毎日来るわけじゃないよな?
 俺はほとんど食べなくても平気なのに。
 いったい、なんと言えばいいんだ。
 まったく、顔を洗った気がしなかった。

「なぁ、アーサーさんからはなんて言われているんだ?」
 川から戻った俺がいきなり聞いたのか、トリスは思わず固まった。

「あ、その……えっと、本当に、歳を取らないんですか……?」
「ん?」
 トリスは俺の顔をじっと見つめ、目を瞬かせる。

「見かけとは違うって……アーサーさんが言っていたので」
 そのことか……。
 確かに年は取らないようだが、こんな若い容姿でなくてもよかったのにな。

「あとは?」
「あと……えっと、食べる物を運べ、と言われたのですが」
「週に一度でいい。俺はそんなに食べない」
「え? もう買い込んでしまいました」

 もしかして……そこの大きな背嚢の中身、全部食料か。
「お前が食べたらいい」
 トリスは嬉しそうに荷物を抱えなおした。
 そんなトリスを、俺はほっといて虹の種に水をまいた。

 種の世話をしていると、いい香りが漂ってきた。
 肉もスープも、たき火を使った料理は久しぶりだ。
 気が付けば、いつもの十倍は食べたかもしれない。

 トリスの作った、そこいらの草ではないお茶を啜り、一息つく。
 アーサーがどこまで俺のことを話したのかはわからないが、さて……お金はどうするんだ?
 俺は思い切って、トリスに聞いてみた。

「それは……」
 トリスは、どこか困ったように言葉を詰まらせる。
「アーサーさんは“あとで”払うと言っていたんですが、どうやら帰ってくるのが遅れるらしくて……実は困っています」

 俺は財布もお金も持っていない。
 それに、アーサーはいったいどこへ行ってしまったのだろうか。
 トリスに尋ねてみた。

「母なら、詳しいことがわかるかもしれません」
 それなら、次に来るまでに他の人にも聞いておいてほしかった。
「はい、わかりました」
 トリスはそう言うと、帰り支度を始めた。
 やっと帰るのか。まだ朝だというのに、ひどく疲れた気がする。

 帰り際、俺は黄色い宝石をトリスに投げて渡した。
「これは?」
 そう声をかけられる前に、俺は背を向けた。
 鍵すらない家の扉を開けて、中へ入る。

 家の中に入ると、少し落ち着いて考えられる。
 背中に感じていたトリスの視線はもうない。
 宝石を渡したことで、一応のやり取りは終わった。

 ……だけど、知ってしまったあいつの存在が、心の奥に残る。
「いったい、どう付き合えばいいんだ?」
 呟いたところで何もわからない。

 できれば、ずっと一人でいたい。

 虹の種を育てるだけが理想だったのに。
 それが間違いだったのか?
 でも、どうしても育った芽を見てみたい。
 他のことを多少犠牲にしても――だ。

 俺だけのもの。
 今は、これだけでいい。
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