ピアノはまだ悲しみを弾いている

夢窓(ゆめまど)

文字の大きさ
8 / 22
第2章:音と魔法の出会い

第7話 演奏旅行へ――見送りの朝と、胸の痛み

しおりを挟む

 朝靄の立ち込める中庭で、リゼルは小さなトランクを手にしていた。
 演奏旅行の行き先は、王都から馬車で半日ほどの地方都市。
 名のある音楽ホールでの小規模なコンサートに、三曲だけ演奏の機会をもらった。

 一泊だけとはいえ、初めての外泊だった。
 それも、演奏者として。

 淡い緊張と高揚を胸に抱きながらも、どこか心の一部が置き去りにされているような、妙な寂しさがあった。

 それは、ノアの姿が見えないせいだった。

「お嬢様、お時間ですわ」

 アデルの手配した馬車が、ゆっくりと門の前に停まる。
 侍女のアンナが声をかけたそのとき――

「……リゼル」

 低く、聞き慣れた声が背中から届いた。

 振り返ると、ノアが静かにそこに立っていた。
 騎士団の試合用の黒い制服に身を包み、いつものように表情は硬い。
 けれどその瞳には、いつもよりずっと多くの感情が宿っていた。

「どうして……試合の準備は?」

「行く前に、君の顔を見ておきたかった」

 たったそれだけの言葉に、リゼルの胸が強く鳴った。

「……私、がんばります」

「当然だ。君の演奏は、誰よりも美しい。……だから」

 ノアは言葉を切って、すっとリゼルの前に歩み寄る。
 そして、懐から小さな布包みを取り出し、彼女の手にそっと握らせた。

「これは……?」

「演奏前に開けてくれ」

 ノアは、それだけを言ってから、ひとつ深く息を吐いた。

「……君が、どこにいても、僕は君を信じている。だから、行ってこい」

 それは、祝福の言葉だった。
 けれど、どこか寂しさのにじむ声色だった。

「ノア……ありがとうございます。試合、がんばってくださいね」

「……もちろん。君が、見てなくても」

 それは不器用な冗談。
 けれどリゼルは笑って、手を振った。

 ノアは、その姿をしばらく見送ってから、ゆっくりと背を向けた。
 彼の胸の内には、誰にも言えぬ痛みが小さく棘のように刺さっていた。

(……あいつは、誰の隣で、あのピアノを弾くんだ)

◇ ◇ ◇

 馬車が出発し、ゆっくりと公爵邸の門を離れていく。

 窓の外には、もうノアの姿は見えなかった。

 リゼルは、そっとノアにもらった布包みを開く。

 中には、小さなハーブのサシェが入っていた。
 優しい香り――カモミールだった。

(……お守り、ですね)

 彼は不器用なまま、でも確かに見送ってくれた。

 胸の奥で、何かが静かに灯る。

 遠ざかる公爵邸を見ながら、リゼルはつぶやいた。

「……私、もっと強くなります。
 あなたが安心して、隣にいられるくらいに」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛

三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。 ​「……ここは?」 ​か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。 ​顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。 ​私は一体、誰なのだろう?

蔑ろにされていた令嬢が粗野な言葉遣いの男性に溺愛される

rifa
恋愛
幼い頃から家で一番立場が低かったミレーが、下町でグランと名乗る青年に出会ったことで、自分を大切にしてもらえる愛と、自分を大切にする愛を知っていく話。

【完結】白馬の王子はお呼びじゃない!

白雨 音
恋愛
令嬢たちの人気を集めるのは、いつだって《白馬の王子様》だが、 伯爵令嬢オリーヴの理想は、断然!《黒騎士》だった。 そもそも、オリーヴは華奢で可憐な姫ではない、飛び抜けて背が高く、意志も強い。 理想の逞しい男性を探し、パーティに出向くも、未だ出会えていない。 そんなある日、オリーヴに縁談の打診が来た。 お相手は、フェリクス=フォーレ伯爵子息、彼は巷でも有名な、キラキラ令息!《白馬の王子様》だ! 見目麗しく、物腰も柔らかい、それに細身!全然、好みじゃないわ! オリーヴは当然、断ろうとしたが、父の泣き落としに、元来姉御肌な彼女は屈してしまう。 どうしたら破談に出来るか…頭を悩ませるオリーヴだが、フェリクスの母に嫌われている事に気付き…??  異世界恋愛:短めの長編(全22話) ※魔法要素はありません。  《完結しました》 お読み下さり、お気に入り、エール、いいね、ありがとうございます☆

オネェ系公爵子息はたからものを見つけた

有川カナデ
恋愛
レオンツィオ・アルバーニは可愛いものと美しいものを愛する公爵子息である。ある日仲の良い令嬢たちから、第三王子とその婚約者の話を聞く。瓶底眼鏡にぎちぎちに固く結ばれた三編み、めいっぱい地味な公爵令嬢ニナ・ミネルヴィーノ。分厚い眼鏡の奥を見たレオンツィオは、全力のお節介を開始する。 いつも通りのご都合主義。ゆるゆる楽しんでいただければと思います。

【完結】オネェ伯爵令息に狙われています

ふじの
恋愛
うまくいかない。 なんでこんなにうまくいかないのだろうか。 セレスティアは考えた。 ルノアール子爵家の第一子である私、御歳21歳。 自分で言うのもなんだけど、金色の柔らかな髪に黒色のつぶらな目。結構可愛いはずなのに、残念ながら行き遅れ。 せっかく婚約にこぎつけそうな恋人を妹に奪われ、幼馴染でオネェ口調のフランにやけ酒と愚痴に付き合わせていたら、目が覚めたのは、なぜか彼の部屋。 しかも彼は昔から私を想い続けていたらしく、あれよあれよという間に…!? うまくいかないはずの人生が、彼と一緒ならもしかして変わるのかもしれない― 【全四話完結】

好きじゃない人と結婚した「愛がなくても幸せになれると知った」プロポーズは「君は家にいるだけで何もしなくてもいい」

ぱんだ
恋愛
好きじゃない人と結婚した。子爵令嬢アイラは公爵家の令息ロバートと結婚した。そんなに好きじゃないけど両親に言われて会って見合いして結婚した。 「結婚してほしい。君は家にいるだけで何もしなくてもいいから」と言われてアイラは結婚を決めた。義母と義父も優しく満たされていた。アイラの生活の日常。 公爵家に嫁いだアイラに、親友の男爵令嬢クレアは羨ましがった。 そんな平穏な日常が、一変するような出来事が起こった。ロバートの幼馴染のレイラという伯爵令嬢が、家族を連れて公爵家に怒鳴り込んできたのだ。

地味令嬢、婚約者(偽)をレンタルする

志熊みゅう
恋愛
 伯爵令嬢ルチアには、最悪な婚約者がいる。親同士の都合で決められたその相手は、幼なじみのファウスト。子どもの頃は仲良しだったのに、今では顔を合わせれば喧嘩ばかり。しかも初顔合わせで「学園では話しかけるな」と言い放たれる始末。  貴族令嬢として意地とプライドを守るため、ルチアは“婚約者”をレンタルすることに。白羽の矢を立てたのは、真面目で優秀なはとこのバルド。すると喧嘩ばっかりだったファウストの様子がおかしい!?  すれ違いから始まる逆転ラブコメ。

「悪女」だそうなので、婚約破棄されましたが、ありがとう!第二の人生をはじめたいと思います!

ワイちゃん
恋愛
 なんでも、わがままな伯爵令息の婚約者に合わせて過ごしていた男爵令嬢、ティア。ある日、学園で公衆の面前で、した覚えのない悪行を糾弾されて、婚約破棄を叫ばれる。しかし、なんでも、婚約者に合わせていたティアはこれからは、好きにしたい!と、思うが、両親から言われたことは、ただ、次の婚約を取り付けるということだけだった。  学校では、醜聞が広まり、ひとけのないところにいたティアの前に現れた、この国の第一王子は、なぜか自分のことを知っていて……?  婚約破棄から始まるシンデレラストーリー!

処理中です...