壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)

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優しさの檻 茂と花梨

始まり、茂サイド

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茂サイド

部屋が片付けられていた。
ありがたいと思った。

冷蔵庫には、惣菜の入ったパックがいくつも並んでいる。
母が来てくれたのだろう。
忙しい俺達の代わりに、いろいろ気を回してくれている。

ありがたい。
たた、それだけ、思っていた。

だけど、妻は不機嫌だった。
何が不満なのか、わからない。
忙しくしているなら、仕方ないだろう。


最近、妻は外に出ることが多くなった。
仕事が忙しいのかと思っていた。

けれど、母が来る日を避けるように、
予定が入るようになった。

何も言わない。
文句も言わない。
ただ、いない。

冷蔵庫に並ぶ惣菜を、
妻はほとんど食べなかった。
「ありがとう」とも言わなかった。




ある日、帰ると寝室の匂いが変わっていた。
ベッドの香りが違う。
カーテンの結び方も、見慣れない形になっていた。

母が掃除してくれたのだろう。
いつも、ありがたいと思った。

部屋が明るくなった気がした。
けれど、その夜、妻は寝なかった。
灯りを消しても、目を閉じていなかった。

片づける時間がないなら、
母がしてくれて、何が不満なんだろう。

その分、映画にも行けるし、
友達にも会える。
悪いことなんて、ひとつもない。

なのに、妻はいつも静かだった。
笑わなくなった。
帰ってきても、何も言わなかった。


母が置いていった惣菜を、妻が黙ってゴミ箱に捨てた。
何も言わない。ただ、袋を結んで、ゴミ捨てにいった。

無添加の食事って、贅沢なのに、なぜ食べないんだろう。
母は、体にいいものしか作らない。
それを、どうして。

俺はわからなかった。
ほんとうに、わからなかった。
俺が愛しているのは、妻だけなのに、

妻が初めて外泊した。
連絡はあったが、「今日は帰りたくない」とだけ書かれていた。

冷蔵庫には、母の惣菜がある。
食事に困ることはなかった。

でも、どうして帰ってこないんだろう。
わがままだと思った。
もう、わがまますぎる妻にもてあましている。

俺のどこが悪いのか、わからない。
母に話すと、笑っていた。
「若い子は、仕方ないよ」

「おかえり、先に食べてたら?」

母が笑顔で言った。
台所には、湯気の立つ味噌汁と、焼き魚の匂い。
妻の席にも、箸と茶碗が並べられている。

帰ってこない妻の分を、誰が食べるのか。
考えもしなかった。
母は、「食べたら片づけとくね」と言い、
何もなかったように皿を重ねた。

その手際を見ながら、
俺はなんだか、少し安心していた。


「もう、無理。」
そう言って、妻が出ていった。

お母さんが、どうしたんだろうね――と、心配そうに言う。
俺はまだ、わからなかった。

まさか、離婚を突きつけられるまで。

湯気の消えた味噌汁を見つめながら、
俺は、何が冷めたのかも気づかなかった。


「若い子って、ほんと何もできないのに、態度だけは大きいわよねぇ」
母は味噌汁をすくいながら、ため息まじりに言った。
「可哀想な茂。離婚してもいいと思うよ」

その声は、やさしかった。
まるで、俺が長い戦から帰ってきた兵士みたいに。


「嫁の荷物、まとめておいたから」
母の声は、やけに明るかった。

「悪いね、母さん」
「いいのよ。どうせ父さんも、もう家に帰ってこないしね」

そう言って笑った母の背中が、
なぜか少し小さく見えた。

嫁だった花梨が、家を出ていった。
離婚届も、弁護士事務所でハンコを押して、終わりだった。

家に帰れば、母がいる。
いつも通り、テレビの音がして、湯気の立つ味噌汁の匂いがする。

――あれ? 父はどうしたんだ?
離婚したなんて、聞いてないが。

あれ?

俺がマザコンだって噂が、会社に流れていた。

昼休みの食堂で、誰かが笑って言った。
「お前、まだお母さんと一緒に暮らしてんの?」

笑ってごまかしたけど、
その日から、女たちの態度が少し変わった気がした。

――そして、離婚して、半年後、花梨の再婚を知った。
相手は、総務課の出世頭の柴崎さん

いつから付き合ってたんだ?
しかもすでに、妊娠? 早すぎないか……。




「やっぱり、あの子はあなたに合わなかったのよ」
母は、味噌汁をすくいながら、淡々と言った。

「すぐ妊娠して再婚だなんて、アバズレね。
そんな女、忘れなさい」

俺は黙ってうなずいた。
けれど、ニュースのように流れてきた噂では、
花梨達は、子供ができて家族で、喜んでいるらしい。

母の声が遠くなった。
味噌汁の湯気が、やけに胸にしみた。




会社で、出産祝いの祝い金の封筒が回ってきた。
封筒の表には「柴崎さん 第1子男子誕生」

人事の女が俺の机に立って、
「川上さんはどっちでもいいけど、出す?」
と、気まずそうに笑った。

どっちでもいいけど――
その言葉が、胸の奥に刺さった。

昼休み、ふと外に出た。
通りの向こうで、ベビーカーを押す花梨が見えた。
隣には、柴崎先輩。
二人とも笑っていた。


あの笑顔を、昔の俺も知っている。
一緒に笑っていた日が、確かにあった。
それを、手放したのは――俺の方だった。

息が詰まり、足が止まった。
人混みの中で、声も出なかった。

夜、家に帰ると、母が台所で煮物を作っていた。
出汁の匂いが、いつも通りに漂う。
テレビの音も、変わらない。
まるで何も起きていないみたいだった。

「おかえり、茂」
母は振り返りもせずに言った。

「また、お嫁さんもらったらいいわ。
今度は、ちゃんとした子を選ばなきゃね」

その声は、優しかった。
けれど、俺の中で、何かが音を立てて崩れた。

――“ちゃんとした子”。
あの人は、ちゃんとしてた。
ただ、俺が、守れなかっただけだ。

母の鍋がコトコトと鳴る音だけが、
やけに遠くに聞こえた。

母さんは、当たり前のように俺の部屋にいる。
洗濯して、掃除して、夕飯を作る。
何も言わなくても、俺の暮らしは回っていく。

けれど、ふと考えた。
――父さんは、どうしているんだろう。

離婚したとも聞いていない。
母の口から、もう何年も名前が出てこない。
まるで、最初からいなかったみたいに。

テレビの音と、鍋の煮える音。
その中で、母が言う。

「茂、明日お味噌買っといてね」

その声を聞きながら、
俺は、知らない誰かの家にいるような気がした。

「父さん、どうしてる?」
夕飯の皿を並べながら、なんとなく聞いた。

母は少しだけ手を止めて、言った。
「あの人ね、浮気してるの。だから、もういいの」

それだけだった。
何年ぶりかの話題が、まるで天気の話みたいに軽く流された。

――ああ、何かが違う。

部屋の空気が、急に冷たくなった気がした。
母はいつも通り、味噌汁をよそいながら微笑んでいる。
その笑顔の奥にあるものを、
俺は、ようやく怖いと思った。


会社からの海外赴任の話に、ようやく「行きます」と答えた。
以前から打診されていた案件だ。
花梨と別れて、誰の都合にも縛られない。
そう思っていた。

報告すると、母は一瞬黙り、すぐに言った。

「えぇ、海外に? いいじゃない。私も、ついていくわ」

……耳を疑った。

「ありえないだろ」
思わず口に出た。

妻ならわかる。
でも、母親帯同って、どうなんだ。

同僚に笑われる光景が、ありありと浮かんだ。
けれど母は、真剣な顔で言った。

「だって、あなたをひとりにできないじゃない」

その瞬間、息が詰まった。
逃げ場のない檻のような優しさが、
また俺を包み込んでいた。

転勤先の場所は、誰にも言わなかった。
母にも。

「海外ベトナム」とだけ伝えた。
本当の都市名を言えば、きっと探しに来る。
ひとりで来れない距離。
会社の寮生活だ。
遊びじゃない。

準備を進めながら、心のどこかで震えていた。
“これでやっと、自由になれるのかもしれない”――そう思った。

けれど出発の一週間前、会社からの帰り道に電話が鳴った。
出ると、姉の声だった。

「母さんが倒れたの。病院……来れる?」

街の灯りが、にじんで見えた。
遠くで、救急車のサイレンが響いている。

俺は立ち尽くしたまま、
何を悲しんでいるのか、
自分でもわからなかった。

病室の窓から、冬の光が斜めに差していた。
母は点滴につながれ、静かに眠っていた。

ベッドの脇で、父と姉が小声で話していた。

「母さん、お前に執着してたからな。海外赴任、いいと思う」
父は淡々とした声で言った。

「お前が出て行ったあとも、毎日お前のご飯作ってたよ。
でも、私が帰っても何もなかった。
ゴミも出てなくて、部屋はそのまま。
帰ってきたら、疲れたって寝てた」

姉が苦笑する。
「いい機会よ。海外行きなさい。
ベトナムって、観光地以外はおいそれと行けないし、工場勤務なら母さんも無理だし」

小さく息を吐く。
母はまだ眠っている。

「当分入院だって。生活習慣病。
あんたが海外行くって言ってから、やけ食いしてたみたい。
高血圧だってさ」

――やけ食い。
らしいと言えば、らしい。

俺は母の横顔を見つめた。
今も、眉間に皺を寄せたまま、何かを責めているような顔をしている。

この人の中では、
たぶん俺は、まだ少年のままなのだろう。

白いカーテンの向こうで、風が揺れた。
その音を聞きながら、
俺は静かに決めた。

――もう、帰らない。



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