壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)

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優しさの檻 茂と花梨

ベトナムにて、

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茂 ― ベトナムへ

関西空港のロビーは、
人と機械と、いろんな匂いが混ざっていた。
香水、コーヒー、揚げ物、アルコール消毒。
全部が一度に押し寄せてきて、
もう、何の匂いか分からなかった。

それが、少し安心だった。
どれも“母の匂いじゃない”からだ。

スマホの通知が点滅している。
母からのLINEだと分かっていたが、開けなかった。
電源を切る。

アナウンスが流れる。
いよいよだ。

手荷物を肩にかけながら、
茂は小さく息を吐いた。
機械の風と、混ざった空気の中で、
やっと、何の匂いもしない場所に立てた気がした。


姉鈴子との、回想

「あんたもアホよ。新婚の家に母親呼んで掃除やご飯、ましてや洗濯までしてもらうって、どういう神経?」


「だって、母さんがしてくれたら楽だったし……。」


「花梨ちゃん、やめてって言わなかった?」


「母さんが、“あの子ちょっと神経質だから”って言ってたから……。」


「……あんた、ほんとに結婚わかってないね。」





「花梨ちゃん、かわいそうに……。」


「もう再婚して、子どももできたらしい。」


「あら、そう。……よかったじゃない。幸せなのね。」

茂は黙ってうなずいた。
けれど胸の奥が、少しだけ痛んだ。




「あんたもしっかりしなよ。
母親の依存にケリつけたいから海外行く――それなら、それでいいじゃない。」

姉は、少し笑って、
「ちゃんと、やり直しておいで。」
「こっちは、こっちで頑張るから。」


 ― ベトナム・街の朝

朝の市場は、光が眩しい。
果物の赤と、香草の緑。
乾いた路面の向こうで、バイクが波のように走っていく。

もう、匂いは気にならなかった。
鼻の奥で何かを確かめる癖も、いつのまにか消えていた。

母のことも、花梨のことも、
どこか遠くの出来事のように思えた。

屋台で出されたフォーの湯気が顔にかかる。
レモンを搾ると、酸味が立った。
スープをひと口すすると、
ただ、熱い。
ただ、うまい。

それだけでよかった。
誰の匂いもしない、
ただの、朝の味。


茂 ― 観光バスの中で

観光バスに乗った。
ツアーだから、何も考えなくていい。
流れる風景を、ただ見ていればいい。

ヤシの木の間を抜けると、
屋台の匂いと、土の匂いが混ざった。
遠くで子どもが笑っている。

昼食のレストランで、
隣の席の夫婦に話しかけられた。

「おひとりですか?」

「ええ。明日から、うちの会社の工場に赴任なんです。
だから、手っ取り早く一日観光を」

「まあ、大変ですね。暑い国ですよ」

笑いながら返す。
たしかに、暑い。
けれど、どこか気持ちが軽かった。
誰の世話も焼かれない場所。
誰の香りもしない食卓。

フォークを持つ指先に、
ようやく自分の体温だけを感じた。



観光ツアーの昼下がり

昼食後、ツアー客全員で写真撮影があった。
湖のほとり、金色の寺院を背景に並ぶ。

前の席の親子が、ずっと寄り添っていた。
母親が帽子を直し、息子がその手を握る。

同じツアーの若い女性たちが、
小声で話している。

「ねぇ、あの人たち親子だよね?」
「うん。ゴンドラのときも3人乗り離れなかったじゃん、結局若いカップルが、離れたよね。」

「マザコンかな? なんか、ちょっと重くない?」

笑い混じりの声。

茂は、
胸の奥がざらついた。
まるで鏡を見せられたようだった。

絵皿を買う列に並ぶ母と息子。
手をつないで、同じ絵柄を二枚抱えていた。
まるで、あの日の自分と母のように。

“あれも、普通のことだと思ってたんだ。”

口の中でつぶやいた言葉は、
風にまぎれて消えた。

俺も同じだったんだな」

ベトナムのお土産屋には、無添加の石鹸が並んでいた。
どれも素朴で、やさしい香りがする。

ひとつ、手に取ってみる。
ココナッツの石鹸。
指先に残る、やさしい匂い。

――ああ、これが花梨の香りだった。


▪️ホテルの夜

ホテルのバイキング。
生春巻きにフォー、魚の煮込み。
少し冷えたビールが、喉に気持ちいい。

いろいろあったけど、
ようやく新しい生活が始まる。
誰にも干渉されない、
ただの“俺”としての時間。

スマホが震えた。
母からのラインが、またいくつも届いていた。
泣き顔と笑顔の絵文字が交互に並んでいる。

無言で画面を伏せた。

窓の外では、
街のネオンが水面ににじんでいる。
異国の夜は、湿っているのに、
なぜか息がしやすかった。

――ベトナムまでは、来ないさ。

そう呟いて、
もう一度、ビールを口にした。
泡が弾けて、音もなく消えた。

ベトナムの乾いた大地。
赤い土の匂いと、遠くで鳴るバイクの音。
陽射しが強い。
でも不思議と、胸の奥は静かだった。

――ここでやり直したい。

もう、誰の影も映らない場所で。



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