壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)

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優しさの檻 茂と花梨

川上茂の母

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川上茂の母です。

息子はベトナムに行ってしまいました。
私はずっと思っています――あの子の幸せには、私が必要だって。

行こうとしたんです。
でもお父さんに、パスポートを取り上げられました。
「英語もできないのに、どこにいるかもわからないだろ」と言われて。
そんなの、関係ないのに。

息子からはラインも来ません。
私が「会いに行く」と送ったら、
「仕事が忙しいから、会えない」とだけ返ってきました。

……あの子には、私が必要なのに。

しばらく、高血圧の治療ということで入院しました。
早く治して、ちゃんと元気にならないと。
また、あの子に会いに行けるように。



岩人(父) 娘との会話

「若い頃、浮気したんだ。
家庭を壊そうなんて思ってなかった。
……ついな。魔が差したってやつだ。」

「それから母さんは、茂の世話を焼くことが生きがいになったんだろう。
俺の世話はしなくなって、茂ばっかり。」



鈴子、(姉)
「父、最低だなぁ。
母さんが、ここまでになるとは思わなかったよ。
若年性の認知症も、まじってるんだろうね、たぶん。

今は、うちの病院に頼み込んで、隔離入院させてるけど、
ベトナムに行かれたら大変なことになるからなぁ。」



岩人
「それは同意だ。……でも、お前、言い方きついぞ。」



鈴子
「父の自業自得でしょ。最低だよ。」


病室。
白いカーテンの向こうで、点滴の滴る音が静かに響いている。
鈴子が椅子を引き寄せて、母の枕元に座る。



鈴子
「お母さん、英語でも勉強したら?
旅行の本とか、見るだけでも気分変わるよ。」




「一人では無理よ。
海外なんて、いつもあなたと岩人さんが連れて行ってくれたじゃない。
ひとりでなんて……無理よ。

(少し間をおいて)

ベトナムだって、行けたら良かったのにね。
でも、今は体も思うように動かないし……。」



鈴子
(ため息)
「行かなくていいの。お母さんが元気でいてくれたら、それで。」




「元気でいたって、何になるのかしらね。
誰も会いに来ないのに。」



カーテンの隙間から差し込む光が、母の横顔を照らす。
その瞳には、もう“未来”よりも“過去”の景色が映っている。



母・独白

行けるわけがない。
でも、心だけはもう何度も行っているのよ。
ベトナムの街を歩いて、あの子を探す夢を、何度も見た。

どんな服を着ているんだろう。
ちゃんと食べているのかしら。
洗濯はしてる? 風邪はひいてない?
……そんなことばかり考えて、夜が明ける。

「お母さんは、もうゆっくりして」って夢で言われたけど、
どうしても、心が止まらないの。

息子の幸せには、私が必要なの。
それだけは、まだ信じている。


病室の夜。
消灯のあと、静かな機械音だけが響いている。
母の枕元には、飲み残しの睡眠薬のコップ。
点滴の落ちる音が、ゆっくりと時間を刻む。

やがてまぶたが重くなり、母は静かに眠りに落ちていく。



夢の中。
湿った空気。遠くで聞こえるバイクの音。
そこは、見たこともない南の国の街。
どこか懐かしい匂いがした。

母は通りを歩く。
果物を売る屋台の人たちが陽気に声をかけるが、
言葉はわからない。
ただひとりの名前だけが、頭の中で響いている。

「茂……どこにいるの?」

すると、向こうのカフェの前で、見慣れた背中が動いた。
白いシャツ。少し猫背。
息子だ――間違いない。

「茂!」

声をかけるが、彼は振り返らない。
人の流れに混じって、遠ざかっていく。
母は追いかけようと足を踏み出す。
でも、足が思うように動かない。
まるで地面に根が張っているみたいに。

「待って、茂……お母さん、来たのよ……」

病室。
点滴の落ちる音。
母の口元が、かすかに動いた。

「夢だったのね。」

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