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9章 俺の居ないこの町で

87 俺はこんな弟を知らない

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「どちら様ですか?」

 速水宗助はやみそうすけの第一声は、兄である俺の予想通りの言葉だった。
 やっぱり俺のことなど覚えていないらしい。

「うちに用があったんですよね? 生憎家族は留守ですが、何か?」
「あっ、ええと、君に話があって」
「君、って。俺のことですか? そういえばさっき、俺の名前呼んでましたよね? 俺は初対面だと思うんですけど」
「それは……」

 きっぱりと初対面宣言されてしまった。
 生き別れの兄だとでも言ってみたかったが、話がこじれてしまいそうなのでやめておく。
 こんなことなら綿密に設定を考えてくればよかった。

 宗助は警戒するように俺たちを見据えてきた。
 こうやって弟の顔を正面から見るなんて久しぶりな気がする。目元は母親譲りのタレ目だが、スカした感じがどことなくクラウに似ている気がした。
 それなのに、半歩後ろからメルが「ユースケに似てるわね」なんて言ってくる。

「名乗ることができないのって、怪しいってことですよね?」

 宗助はとげのある言い方で俺を睨むが、視線が背後のメルを捉えた途端、表情を一変させる。

「その子は外国人?」

 宗助は驚きを隠せないようだった。薄い茶色の髪に赤色の瞳は、確かに日本人とかけ離れている。異世界補正で日本語を話しているように聞こえるのが不自然なくらいだ。

「か、可愛い」

 宗助は、ただでさえ垂れている目尻を更に下げて、ほおを赤らめた。

「こんにちは」

 予想外の展開に戸惑いながら、メルは俺の横に並んでぺこりと頭を下げる。

「この暑いのにそんな上着着て暑くないの? それ一高の制服でしょ。お兄さん一高の人なんですか?」
「ま、まぁな」

 ヤシム渾身こんしんの学生服は、ジャケットにエンブレムがないだけで、本物と殆ど差はなかった。

「暑いけど、ちょっと日差しが痛くて」

 メルは愛想笑いを浮かべながら、ジャケットの前をぎゅうと閉じる。

「あぁ、日焼けしたくないんだ。確かに今日は暑すぎるもんね。君、ほんと日本語うまいんだね」

 苦し紛れのメルの返しも、可愛い子補正であまり気にはならないらしい。しかし、バタバタと手を振って暑さを強調するメルの動きに、大きすぎるジャケットがズルリと傾いてしまう。
 カーボ印のワンピースが顔を出して、もれなくセルティオの血があらわになった。
 青色の生地のせいで、はっきりとした赤色ではないが、黒ずんだシミは、誰が見ても血液だろう。

 「えっ」と宗助は委縮して、口元を引きつらせる。
 どう見ても事件にしか見えない。俺だって逆の立場なら即通報だ。
 後ずさりして家へ駆けこもうとする宗助に、俺は咄嗟に嘘をついた。

「コ、コスプレなんだよ」
「えっ? コスプレ?」

 血糊ちのりまみれのコスプレは多い。なぜそんな恰好でここに居るのかということは置いておいて、俺は血液の匂いに気付かないことだけを俺は祈った。

 宗助はいぶかしげな眼でメルを足元から見上げていくが、目が合った瞬間にっこりと微笑んだメルに、強張こわばった顔をにやりと崩した。
 鈍感というか、単純だ。

「そ、そうか。コスプレって……あっ、もしかして【痴漢ごっこ】のライヤかな? 序盤に襲われてゾンビになる娘だよね」
「ち、ちかん?」
「ワンピースの色が青で気付かなかったよ。アニメだと緑だからね。あっでも、原作だと水色だったかな。そうか、そっちだね」

 一人で納得してしまう宗助。
 ちょっと待て。なんだ、その怪しいタイトルのアニメは。

 (それって中一男子が見るやつじゃないだろう?)

 いやらしい目つきになる宗助に、俺は再びメルを背後へと庇った。
 そもそも宗助はこんな奴じゃなかったはずだ。

「本当に宗助なのか?」

 まるで別人だ。
 俺の知ってる宗助は、俺の読むラノベの表紙絵にイチイチ過剰反応して、親にチクるような奴だったのに。

 そういえば友人の木田が、美緒の居ない世界で生きる俺のことを別人のように語ったことがある。『可愛い幼馴染』が存在しない世界に生きる俺は、登下校も一人の寂しい男だということだ。
 つまり、『ラノベ好きの兄』が存在しない世界の宗助は、こんなオタクになってしまうということで。
 
「だから。一方的に俺のこと知られてるのは、気分が悪いんですけど」
「一方的って。お前が忘れてるだけだろ」

 ボソボソっと愚痴って、俺は仕方なく名乗った。

「俺は、佑助ゆうすけだ。こっちは、えい……」

 クラウも日本での名前がいいかと思ったが、俺は出しかけた言葉を慌てて飲み込んだ。
 状況が読めない。この世界に俺が居なくてもクラウの仏壇は残っているかもしれないと思った。
 困惑する俺を見かねて、クラウは自分でその名前を口にした。

「僕は、アルドュリヒ=ジル=クラウザーだよ。クラウって呼んでもらえばいいからね」
「貴方も外国人なんですか? ちょっと日本人ぽいかなと思ったけど。クラウさんは、それってシーサーのコスですよね? ポニーテールもそうだし、かっこいいから女子の人気が凄そう。ライヤと合わせだったんですね」

 『合わせ』とは、同じ作品のコスプレを一緒にする、みたいな意味だ。俺には専門外なのに、目を輝かせて語る弟に頭が痛くなる。
 クラウも「そうだね」と全く理解してないだろう内容に適当な笑顔で合わせて、俺に「彼、面白いね」と耳打ちしてきた。
 「いや、お前だって血が繋がってるんだからな?」とコソコソ言ってやると、「そっか」と苦笑が返ってくる。

 それにしてもコスプレという概念がいねんを組み込ませただけで、血液や長髪男子がうまい具合に補正がかかるのは、ありがたいことだ。

「君の名前も教えてほしいな」
「こっちはメルだよ」
 
 俺はメルの返事を待たずに、脱力しながら教えてやった。

「へぇ、メルちゃん。名前も可愛いね」

 奴の関心がメルに向いている好機を狙って、俺は話を切り出した。

「なぁ、家に誰もいないなら、中に入れてくれないか?」

 背後で車が通り過ぎるごとに、俺の心臓はバクバクとうるさく鳴っていた。
 こんな所にずっといるわけにはいかない。家族が帰ってきたらアウトだし、メルの身体についた血の匂いもシャワーで流してやりたかった。

「えっ何で? 僕今から本屋に行くとこなんだけど」
「本屋って。お前、本なんか読まないだろ」

 小説どころか漫画すら読まないゲーマーだったはずだ。

「初対面の人にそう言うこと言います?」

 メルに一目惚れしたようだが、それとこれは話が別らしい。
 コイツを家族と考えれば優等生の答えだと褒めてやりたいが、今は欲望のままに「じゃあちょっとだけだよ」と危ない橋を渡って欲しい。

 そして。
 俺の焦りと宗助の不信感が比例していく中で、クラウが平然とこんなことを言ったのだ。

「じゃあ、異世界から来たって言ったら信じてくれる?」

 俺は口から心臓が飛び出そうになった。
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