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Episode1 京子

【番外編】4 大晦日の白雪-3

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 そして大晦日が訪れる。
 家族全員で夕飯に年越し蕎麦を食べ、のんびりとテレビを見始めたところで、母の美里みさとが「あああっ」とリビングに声を響かせた。

「回覧板回すの忘れてたわ! お母さん、ちょっと行ってくるから」
「ええっ、今から? 雪凄いよ」
「だって、三日も置いておいたんだもの。こういうのって年越させたくないじゃない?」

 黄色いファイルを手にエプロンを外す美里に、桃也は「いいから」と立ち上がった。

「全く、何やってんだよ。町内会長の宍戸ししどさんトコだろ? 俺行ってくるよ」

 夕方から降り出した雪が、数時間で辺りを白く染めてしまった。テレビがちょうど天気予報を流していて、東京ではまれに見る積雪になりそうだと警戒を促している。

 もう時刻は八時を過ぎていて、足元の悪い夜道を母一人で行かせるわけにはいかなかった。父も風呂に入った所だ。

「ごめんね、ありがとう。でも本当に大丈夫?」
「ヘーキ。すぐそこだって」

 部屋に戻って支度し、桃也は「気を付けね」と母に見送られて家を出た。
 長靴の方が良かったかなと思える程の雪が積もっていたが、桃也はショートブーツのまま外へ駆け出す。

 もう空は真っ暗なのに、人通りのない夜道は雪のせいで大分明るく感じた。こんなに雪が積もるのはどれくらいぶりだろうか。

 小さい子供のようにはしゃいで、新雪に足跡を付けていく。遠くに頭の先だけ見える東京タワーは、白くくすんだ空にオレンジの暖かい色をにじませていた。

 高峰家は住宅地を離れた一軒家だ。
 隣接する公園と公民館の間を抜けると、潰れたタバコ屋の自動販売機が煌々と光っている。その裏の二軒隣りが宍戸家だ。

 宍戸のおばさんとは何度も顔を合わせていて、雪まみれの桃也を見ると「こんな日にいいのよぉ」と、昨日ついたばかりだという餅をビニール袋に入れて持たせてくれた。
 しんしんと降る雪が、付けたばかりの足跡を消していく。

 家に着いたところで、自分とは別の足跡が宍戸家とは反対側の道路から一方通行に玄関へ続いている事に気付いた。

「来客か? こんな日に誰だよ」

 雪の積もり具合から見ても、桃也が出たより後に付いたものだ。
 あれ、とは思ったものの深くは考えず、桃也は「ただいま」とドアを開ける。

 けれどそこにあったのは、尋常ではない光景だった。
 「待てよ」と囁いた声が震える。
 玄関に並べられた靴は、桃也が出て行った時のままだった。来客の靴はなく、外からの足跡がそのままリビングの方と跡を付けていく。

 ビショビショに濡れた廊下の向こうで、靴を履いたままの誰が何をしているというのか。
 それ以上踏み込んではならないと指示してくる思考をあらがって、桃也もまた息を殺して靴のまま中へと足を踏み入れた。

 誰の声も聞こえては来ない。ただリビングから漏れるテレビの音が雑音のように鳴っている。
 家族の誰も外には出ていない筈だ。
 宍戸家を往復する十分と少々、その間に何かが起きた。

 桃也は足音を忍ばせ、リビングの入口に差し迫った所で一度立ち止まり耳を澄ます。
 人の気配は全くなかったが、そんな筈はなかった。濡れた足跡はリビングの中へ入り込んでいる。
 それでも桃也は悪い予感を杞憂きゆうだと信じて、ドアノブに掛けた手を一気に引いた。

 しかし、それがくつがえることはなかった。
 赤色に染まったリビングの中央に、黒いジャンパーを着た見知らぬ男が立っている。

「誰だよ、アンタ……」

 恐怖に委縮して声がかすれた。
 男の濡れたジャンパーから滴る水滴を目で追うと、真っ赤に染まった包丁が腰の位置で握られている。

「ガキが居たのか」

 厄介やっかいそうに男が吐く。動揺も見せず、覇気のない瞳が桃也を捉えた。
 団らんの場であった筈のリビングに横たわるのは、ついさっきまで一緒だった父や母や姉だ。

 うつ伏せに倒れた湯上りの父がタオルを巻き付けた状態で横を向いている。
 開きっぱなしの瞳孔に半開きの唇が何か言いたげに見えるのに、意識の途絶えた身体はそれ以上動くことはなかった。
 腕をソファに引っ掛けたまま、ずり落ちるように崩れた姉と、うずくまったまま転がる母。

 全員が血だまりの中で絶命している。
 沸き上がる血の匂いに口をつぐんで、桃也はガタガタ震え出す身体を自分の両手で抱え込んだ。

 次は自分か──叫ぶことすらできず、自分の死さえ受け入れてしまいそうになる。いや、生きる事を諦めて、そうなる覚悟をした。

 戦おう、抵抗しようなんて気持ちはさっぱり起きなかった。逃げ出す事すら選択肢には入らない。背を向けた途端全てが終わる。

 ──『人の寿命なんてのは運命だからな』

 父の言葉が蘇る。

「これが運命だっていうのか?」

 男の目が『お前で終わりだ』と言っている。そこから視線を外した時が最後だと思った。

「お前も一緒に行くんだよ」
「何で……」

 どうして、自分の家族がこんな目に遭わねばならないのか。

「可哀そうだなぁ? あと五分早く帰ってきたら、一番最初に殺してやったのにな」

 狂気きょうき沙汰さただ。男の顔には恐怖も後悔もない。
 目尻がニヤリと垂れ、下がった口角がゆっくりと上を向いた。

「お前もあっという間にあの世へ送ってやる」

 刃に付いた血を指で拭い、男はナイフを振り上げる。
 一歩後ろに引いた桃也の足が、血でズルリと滑った。乾ききらない大量の血が自分の家族の物だと理解した途端、桃也の頭上でバチリと激しい音を立てて光が瞬いた。
 
 男が「何だ?」と不審がるが、桃也には何が起きたのかわからなかった。
 丸腰で刃を受け入れようとする気持ちを逆らって、桃也の中の何かが現実に歯向かおうとする。
 再び強い電流を当てたような音がして桃也が顔を上げると、それは徐々に強さを増していった。

「何やった? ふざけるなよ?」

 恐怖を怒りに変えて逆上する男に、ドクンドクンと心臓が高鳴る。

 抑えろ、抑えろ――。

 アルガスの男に興奮するなと言われたはずだ。
 頭上で炸裂さくれつする無数のハレーション――それを起こしているのが自分だと悟って、けれど桃也は止める術など知らなかった。制御することも押さえつけることもできない。

 もう家族は誰も元に戻らないのだと思うと、じわりと沸いた悲しみが怒りへと変わった。

「何で殺したんだよっ!!」

 頭のてっぺんまで上り詰めた感情が、風船のように音を立てて弾けた。
 グラリと地面が揺れて、足元から一気に光が沸き上がる。
 男の叫びも、視界も、辺り一面を白い光が飲み込んでいく。

 鼓膜に突き刺さるバンという鋭い轟音が耳をつんざき、一瞬で意識が遠退いた。


 あのまま宍戸家に母を行かせていたら、未来は変わっていただろうか。
 父と二人で男に立ち向かうか、もっと有効な方法をとってこの現実を回避することが出来ただろうか。あるいは――?
 けれど結局、いくら強く願ったところで時間を巻き戻す事なんて一秒たりともできないのだ。

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