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第一部 噂
第六章 観察の罪
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夜。
止栄町の宿に戻ると、部屋の中はどんよりとした光で満たされていた。
蛍光灯の白が湿気を帯び、天井の木目がかすかに浮いている。
障子の向こうには街灯の明かりがぼんやり滲み、
霧がその光をゆっくり撫でていた。
音がない。
ただ時計の針が、少し遅れて進むのが聞こえる。
私は机の上にノートを開き、
神楽殿での出来事を反芻した。
あの無音の舞。
少女の視線。
そして、床下の紙片。
どれも記録すべき事象ではある。
だが、書こうとするたびに、
言葉が何かを壊してしまう気がした。
《フィールドメモ》
・記録行為=信仰の剥離。
・「書く」とは、現象から魂を抜くこと。
・それでも、書かなければ忘れる。
・忘れることは、研究者としての死。
筆を止めると、外の風が鳴った。
海のほうからではなく、山のほうから。
この町では夜になると、風向きが変わる。
山が息をしているようだった。
障子の隙間から流れ込む空気が、畳の匂いを変える。
潮と土が混ざったような匂い。
私はその匂いの中で、
自分の手の震えを感じていた。
電話が鳴ったのは、そのときだった。
液晶に“見目”の名が浮かぶ。
「先生、まだ起きてたんですか?」
彼女の声は明るい。
外の湿気とは無縁の、乾いた声。
「少し整理をしているだけです。昼間、ありがとうございました」
「ああ、あれですか。こっちも片付け終わりました。
でも、やっぱりあの神社、変わってますよね」
「変わっている?」
「だって、あれ神様どこにいるんですか? 建物ないし。
あんなの、うちの県じゃただの舞台ですよ」
「……舞台、ですか」
「はい。踊りが上手でしたね、あの子。
でも、あれ練習なんですか? 本番でもあんなに静かなんですか?」
「おそらく、どちらでも同じでしょう」
「ふうん。なんか、怖いですね」
彼女はそれだけ言って、軽く笑った。
その笑いが、音だけで部屋を冷やした。
通話が終わると、再び静寂が戻った。
私はノートに、見目の言葉を写した。
——“舞台”
この町では、信仰を支えるものがすでに物質化している。
形だけが残り、意味が抜け落ちている。
それでも人々は舞い続ける。
誰のためでもなく、
ただ続けることそのものが目的になっている。
《記録》
・信仰の目的=継続。
・継続の理由=空白の恐怖。
・信仰が空白を覆う膜として機能。
→ 記録もまた同じ構造を持つ。
私はふと、手元のノートを見た。
紙の白が妙に眩しい。
インクがまだ乾ききっておらず、
照明の光を反射している。
——この光もどんよりとしている。
まるで書かれた言葉が、
光を濁らせているようだった。
筆を持つ手が、少し重くなる。
書けば書くほど、
自分の中の“現場”が薄れていく。
観察とは、距離を置くことだ。
だが、距離を置きすぎれば、
信仰の温度が死ぬ。
そして、死んだ信仰を記録することに、
いったい何の意味があるのだろう。
《個人的覚書》
・観察とは罪である。
・見ることは奪うこと。
・書くことは切り離すこと。
・私が見ているのではなく、
私もまた“見られている”のではないか。
障子の向こうで、
かすかに太鼓のような音がした。
——錯覚かもしれない。
だが、音は確かに続いた。
低く、途切れ途切れに。
風の音ではない。
私の心臓の鼓動でもない。
それはまるで、
誰かが遠くで“間”を刻んでいるようだった。
私はペンを置き、耳を澄ませた。
音は止んだ。
その代わり、風が一段強くなった。
障子が震える。
光が揺れ、
部屋の影が少し伸びた。
その影の中に、
昼間見た少女の姿が浮かんだ。
あの視線。
焦点のない目。
私は思わず、
ノートを閉じた。
《フィールドノート/2015-0525・夜》
・神楽殿の舞を反芻。
・“見ること”の倫理的境界について思考。
・記録=祈りの模倣。
・模倣=信仰の死。
・観察の罪。
筆を置いたあとも、手の感覚が残っている。
インクの匂いが強く、
それが昨日嗅いだ太鼓の皮の匂いと似ていた。
私はその匂いを嗅ぎながら、
窓の外の光を見た。
街灯の輪が、湿気の中で滲んでいる。
その滲みが、まるで血の跡のように思えた。
——私は、見すぎているのかもしれない。
ノートを閉じた瞬間、
部屋の電気が、ふっと一瞬だけ暗くなった。
止栄町の宿に戻ると、部屋の中はどんよりとした光で満たされていた。
蛍光灯の白が湿気を帯び、天井の木目がかすかに浮いている。
障子の向こうには街灯の明かりがぼんやり滲み、
霧がその光をゆっくり撫でていた。
音がない。
ただ時計の針が、少し遅れて進むのが聞こえる。
私は机の上にノートを開き、
神楽殿での出来事を反芻した。
あの無音の舞。
少女の視線。
そして、床下の紙片。
どれも記録すべき事象ではある。
だが、書こうとするたびに、
言葉が何かを壊してしまう気がした。
《フィールドメモ》
・記録行為=信仰の剥離。
・「書く」とは、現象から魂を抜くこと。
・それでも、書かなければ忘れる。
・忘れることは、研究者としての死。
筆を止めると、外の風が鳴った。
海のほうからではなく、山のほうから。
この町では夜になると、風向きが変わる。
山が息をしているようだった。
障子の隙間から流れ込む空気が、畳の匂いを変える。
潮と土が混ざったような匂い。
私はその匂いの中で、
自分の手の震えを感じていた。
電話が鳴ったのは、そのときだった。
液晶に“見目”の名が浮かぶ。
「先生、まだ起きてたんですか?」
彼女の声は明るい。
外の湿気とは無縁の、乾いた声。
「少し整理をしているだけです。昼間、ありがとうございました」
「ああ、あれですか。こっちも片付け終わりました。
でも、やっぱりあの神社、変わってますよね」
「変わっている?」
「だって、あれ神様どこにいるんですか? 建物ないし。
あんなの、うちの県じゃただの舞台ですよ」
「……舞台、ですか」
「はい。踊りが上手でしたね、あの子。
でも、あれ練習なんですか? 本番でもあんなに静かなんですか?」
「おそらく、どちらでも同じでしょう」
「ふうん。なんか、怖いですね」
彼女はそれだけ言って、軽く笑った。
その笑いが、音だけで部屋を冷やした。
通話が終わると、再び静寂が戻った。
私はノートに、見目の言葉を写した。
——“舞台”
この町では、信仰を支えるものがすでに物質化している。
形だけが残り、意味が抜け落ちている。
それでも人々は舞い続ける。
誰のためでもなく、
ただ続けることそのものが目的になっている。
《記録》
・信仰の目的=継続。
・継続の理由=空白の恐怖。
・信仰が空白を覆う膜として機能。
→ 記録もまた同じ構造を持つ。
私はふと、手元のノートを見た。
紙の白が妙に眩しい。
インクがまだ乾ききっておらず、
照明の光を反射している。
——この光もどんよりとしている。
まるで書かれた言葉が、
光を濁らせているようだった。
筆を持つ手が、少し重くなる。
書けば書くほど、
自分の中の“現場”が薄れていく。
観察とは、距離を置くことだ。
だが、距離を置きすぎれば、
信仰の温度が死ぬ。
そして、死んだ信仰を記録することに、
いったい何の意味があるのだろう。
《個人的覚書》
・観察とは罪である。
・見ることは奪うこと。
・書くことは切り離すこと。
・私が見ているのではなく、
私もまた“見られている”のではないか。
障子の向こうで、
かすかに太鼓のような音がした。
——錯覚かもしれない。
だが、音は確かに続いた。
低く、途切れ途切れに。
風の音ではない。
私の心臓の鼓動でもない。
それはまるで、
誰かが遠くで“間”を刻んでいるようだった。
私はペンを置き、耳を澄ませた。
音は止んだ。
その代わり、風が一段強くなった。
障子が震える。
光が揺れ、
部屋の影が少し伸びた。
その影の中に、
昼間見た少女の姿が浮かんだ。
あの視線。
焦点のない目。
私は思わず、
ノートを閉じた。
《フィールドノート/2015-0525・夜》
・神楽殿の舞を反芻。
・“見ること”の倫理的境界について思考。
・記録=祈りの模倣。
・模倣=信仰の死。
・観察の罪。
筆を置いたあとも、手の感覚が残っている。
インクの匂いが強く、
それが昨日嗅いだ太鼓の皮の匂いと似ていた。
私はその匂いを嗅ぎながら、
窓の外の光を見た。
街灯の輪が、湿気の中で滲んでいる。
その滲みが、まるで血の跡のように思えた。
——私は、見すぎているのかもしれない。
ノートを閉じた瞬間、
部屋の電気が、ふっと一瞬だけ暗くなった。
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