22 / 25
第四部 「返礼」
第二章 沈む声
しおりを挟む
──三度哲夫・現地記録
止栄町での調査は、当初の予定を越えて長引いている。
私の体内時計はとうに狂い、昼夜の区別も曖昧になった。
ノートを開くたび、指の跡が黒く残る。墨ではなく、埃と汗の混じった汚れだ。
朝の光はどんよりしている。
海から上がる風に、細かい塩の粒が混じって、空気全体が霞んで見える。
——まるで、世界がゆっくり腐っていくような光だった。
1 海宮家旧宅
海宮家の屋敷は、町の北端にある。
漆喰塗りの二階建てで、かつては舞の稽古場を兼ねていたという。
だが今は、外壁の半分が崩れ、梁がむき出しになっている。
土台は歪み、床板の間から雑草が伸びていた。
風が吹くと、天井裏で何かが擦れる。
たぶん鼠だろう。
見目が言った。
「危ないですよ。床が抜けます」
彼女は玄関の外で立ち止まり、懐中電灯を掲げた。
私は首を振った。
「中を見ないと分からないことがある」
「……ほんと、好きですね、そういうの」
その声には呆れよりも、どこか諦めの響きがあった。
彼女がどんな立場でここに同行しているのか、私はまだ知らない。
それでも、私のやっていることを黙認している。
それだけで十分だった。
2 床下
玄関脇の畳を剥がすと、薄い埃の層の下から木板が現れた。
四隅に釘が打たれているが、錆びてほとんど意味をなしていない。
私はマイナスドライバーを差し込み、ゆっくりと板を持ち上げた。
湿った土の匂いが立ち上る。
懐中電灯の光を向けると、そこには古びた木箱が埋まっていた。
木箱は思ったより小さい。
手のひらほどの鍵穴があり、蓋には墨で「舞」とだけ書かれていた。
鍵はなかった。
蓋を外すと、内部には二つのものが入っていた。
一つは布で包まれた古い面。
もう一つは、巻物のような紙束だった。
面は女の顔をしている。
白漆はひび割れ、片目のあたりが欠けていた。
表面に、淡い紅が残っている。
まるで、誰かが泣きながら触れたようだった。
巻物を開くと、紙は水に濡れた跡があった。
筆跡は異なるが、いくつかの文言が繰り返されている。
「願ひ返す」
「死して豊けく」
「市亮の式に従ふこと」
市亮――あの名が再び現れた。
3 異人「市亮」
翌日、私は資料館に戻り、町の戸籍簿を調べた。
「市亮」という姓はどこにもない。
ただ、明治初期の記録に「市領(いちりょう)」という地名が一度だけ出てくる。
漁民の集落で、現在は海に沈んでいる区域だ。
その地区出身の男が、明治八年に「外来伝習者」として神事舞の指導にあたった、という記載があった。
彼の素性は不明。だが、出自の欄には小さくこう書かれている。
「元・非人」
その瞬間、私は息を呑んだ。
舞を伝えた“異人”とは、
外から来た異国人ではなく、この国の中で排除された者だったのだ。
祝詞に書かれた「異人イチリョウより教へ賜る」とは、
つまり“穢れの側から教えを受けた”という意味を持っていた。
この舞は、天に祈るものではなく、
地の底に祈る者のための儀式だったのだ。
4 祈りと呪いの継承
海宮家は代々、神事舞を奉じてきた。
しかし、その本義を知る者はいなかった。
“返す祈り”を繰り返すうち、
祈りそのものが形式化し、意味が削ぎ落とされていった。
残ったのは形骸だけ。
だが、形骸こそが最も強い。
呪いとは、信じることではなく、繰り返すことだ。
信仰が薄れても、動作は残る。
動作は呼吸となり、呼吸は脈動に変わる。
それが何代にもわたって身体に刻まれれば、
もはやそれは祈りではなく、遺伝と呼ぶべきものになる。
夜、宿に戻った。
天井を見上げると、板の継ぎ目に小さな黒点が並んでいる。
あれはシミなのか、虫なのか。
どちらでもいい。
私はただ、ゆっくりと息を吐いた。
それが返る音を、確かに耳で感じた。
5 見目の記録
翌朝、見目が宿を訪ねてきた。
「先生、あの家、封鎖されるみたいです。危険物があるって」
「危険物?」
「床下に、戦時中の爆薬が残ってたらしいですよ」
彼女はそう言って笑った。
その笑い方が、どこか“報告口調”に聞こえた。
——まるで、誰かに伝えるための言葉のように。
私は言葉を濁した。
「そうか……」
「先生は、まだ残るんですか?」
「もう少しだけ」
「やめたほうがいいですよ」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。
残されたカセットレコーダーの再生ボタンを押すと、
昨夜録った風の音が流れた。
だが途中から、微かに別の音が混じっていた。
——声のような、唄のような。
私は一時停止を押し、ヘッドホンを外した。
外の光は、やはりどんよりとしていた。
雲は海の色と同じで、境界がわからない。
世界そのものが沈んでいくようだった。
《フィールドノート/2015-0617》
・海宮家旧宅、床下より面と巻物発見。
・市亮=市領出身の元非人(推定)。
・祈りの構文=被差別信仰の転写。
・神事舞=祈りではなく自己返納の儀。
・祈りと呪いの差異、動作の反復により崩壊。
・音声記録に異音(解析予定)。
——祈りは沈む。
沈むことこそが、祈りの完成なのだろう。
止栄町での調査は、当初の予定を越えて長引いている。
私の体内時計はとうに狂い、昼夜の区別も曖昧になった。
ノートを開くたび、指の跡が黒く残る。墨ではなく、埃と汗の混じった汚れだ。
朝の光はどんよりしている。
海から上がる風に、細かい塩の粒が混じって、空気全体が霞んで見える。
——まるで、世界がゆっくり腐っていくような光だった。
1 海宮家旧宅
海宮家の屋敷は、町の北端にある。
漆喰塗りの二階建てで、かつては舞の稽古場を兼ねていたという。
だが今は、外壁の半分が崩れ、梁がむき出しになっている。
土台は歪み、床板の間から雑草が伸びていた。
風が吹くと、天井裏で何かが擦れる。
たぶん鼠だろう。
見目が言った。
「危ないですよ。床が抜けます」
彼女は玄関の外で立ち止まり、懐中電灯を掲げた。
私は首を振った。
「中を見ないと分からないことがある」
「……ほんと、好きですね、そういうの」
その声には呆れよりも、どこか諦めの響きがあった。
彼女がどんな立場でここに同行しているのか、私はまだ知らない。
それでも、私のやっていることを黙認している。
それだけで十分だった。
2 床下
玄関脇の畳を剥がすと、薄い埃の層の下から木板が現れた。
四隅に釘が打たれているが、錆びてほとんど意味をなしていない。
私はマイナスドライバーを差し込み、ゆっくりと板を持ち上げた。
湿った土の匂いが立ち上る。
懐中電灯の光を向けると、そこには古びた木箱が埋まっていた。
木箱は思ったより小さい。
手のひらほどの鍵穴があり、蓋には墨で「舞」とだけ書かれていた。
鍵はなかった。
蓋を外すと、内部には二つのものが入っていた。
一つは布で包まれた古い面。
もう一つは、巻物のような紙束だった。
面は女の顔をしている。
白漆はひび割れ、片目のあたりが欠けていた。
表面に、淡い紅が残っている。
まるで、誰かが泣きながら触れたようだった。
巻物を開くと、紙は水に濡れた跡があった。
筆跡は異なるが、いくつかの文言が繰り返されている。
「願ひ返す」
「死して豊けく」
「市亮の式に従ふこと」
市亮――あの名が再び現れた。
3 異人「市亮」
翌日、私は資料館に戻り、町の戸籍簿を調べた。
「市亮」という姓はどこにもない。
ただ、明治初期の記録に「市領(いちりょう)」という地名が一度だけ出てくる。
漁民の集落で、現在は海に沈んでいる区域だ。
その地区出身の男が、明治八年に「外来伝習者」として神事舞の指導にあたった、という記載があった。
彼の素性は不明。だが、出自の欄には小さくこう書かれている。
「元・非人」
その瞬間、私は息を呑んだ。
舞を伝えた“異人”とは、
外から来た異国人ではなく、この国の中で排除された者だったのだ。
祝詞に書かれた「異人イチリョウより教へ賜る」とは、
つまり“穢れの側から教えを受けた”という意味を持っていた。
この舞は、天に祈るものではなく、
地の底に祈る者のための儀式だったのだ。
4 祈りと呪いの継承
海宮家は代々、神事舞を奉じてきた。
しかし、その本義を知る者はいなかった。
“返す祈り”を繰り返すうち、
祈りそのものが形式化し、意味が削ぎ落とされていった。
残ったのは形骸だけ。
だが、形骸こそが最も強い。
呪いとは、信じることではなく、繰り返すことだ。
信仰が薄れても、動作は残る。
動作は呼吸となり、呼吸は脈動に変わる。
それが何代にもわたって身体に刻まれれば、
もはやそれは祈りではなく、遺伝と呼ぶべきものになる。
夜、宿に戻った。
天井を見上げると、板の継ぎ目に小さな黒点が並んでいる。
あれはシミなのか、虫なのか。
どちらでもいい。
私はただ、ゆっくりと息を吐いた。
それが返る音を、確かに耳で感じた。
5 見目の記録
翌朝、見目が宿を訪ねてきた。
「先生、あの家、封鎖されるみたいです。危険物があるって」
「危険物?」
「床下に、戦時中の爆薬が残ってたらしいですよ」
彼女はそう言って笑った。
その笑い方が、どこか“報告口調”に聞こえた。
——まるで、誰かに伝えるための言葉のように。
私は言葉を濁した。
「そうか……」
「先生は、まだ残るんですか?」
「もう少しだけ」
「やめたほうがいいですよ」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。
残されたカセットレコーダーの再生ボタンを押すと、
昨夜録った風の音が流れた。
だが途中から、微かに別の音が混じっていた。
——声のような、唄のような。
私は一時停止を押し、ヘッドホンを外した。
外の光は、やはりどんよりとしていた。
雲は海の色と同じで、境界がわからない。
世界そのものが沈んでいくようだった。
《フィールドノート/2015-0617》
・海宮家旧宅、床下より面と巻物発見。
・市亮=市領出身の元非人(推定)。
・祈りの構文=被差別信仰の転写。
・神事舞=祈りではなく自己返納の儀。
・祈りと呪いの差異、動作の反復により崩壊。
・音声記録に異音(解析予定)。
——祈りは沈む。
沈むことこそが、祈りの完成なのだろう。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
視える僕らのシェアハウス
橘しづき
ホラー
安藤花音は、ごく普通のOLだった。だが25歳の誕生日を境に、急におかしなものが見え始める。
電車に飛び込んでバラバラになる男性、やせ細った子供の姿、どれもこの世のものではない者たち。家の中にまで入ってくるそれらに、花音は仕事にも行けず追い詰められていた。
ある日、駅のホームで電車を待っていると、霊に引き込まれそうになってしまう。そこを、見知らぬ男性が間一髪で救ってくれる。彼は花音の話を聞いて名刺を一枚手渡す。
『月乃庭 管理人 竜崎奏多』
不思議なルームシェアが、始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる