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ナズナ ――「天使の梯子」「ブレスレット」「駆ける」
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テーマは「天使の梯子」「ブレスレット」「駆ける」
虐げられて自己肯定感の低い黒猫の少女と、素直になれない意地っ張りな青年のお話です。
**********
獣憑き。それは半妖――人と妖のはざまの存在とされるものの一種で、獣の耳と尾を持つ人とされている。通常の人間は持ち合わせない獣の特徴を有した彼らは、その姿に反することなく、その特性をも持ち合わせていた。共通した特徴といえば、鋭敏な聴覚や嗅覚であろうか。例えば犬系の獣付きであれば、更に鋭い嗅覚を持ち、圧倒的な体力を持つ。熊であれば、圧倒的な体格と強靭な力を。鳥であれば耳の代わりに空を飛ぶ羽を――。
そして、その少女は、頭の黒い三角耳としなやかで細長い尾を持って生まれ。猫の敏捷でしなやかな肉体と暗闇を見通す夜目の効く瞳を有していた。
バシャ。頭の上かから掛けられた水に、本能的に身がすくむ。ただでさえ低い体温が、更に下がっていくことがわかる。猫としての水を嫌う本能と、物理的に下がる体温で震えの止まらぬ体を、彼女は必死になって縮めていた。ここで反抗的な行動を見せれば更に折檻される。いつもの様に、頭上から降り注ぐ悪意と嫌悪に染められた罵声を受け止めて、「ごめんなさい」と譫言の様に謝り続ける。
「なんでこんなものが生まれたのか」
「獣憑きなだけで汚らわしいのに、よりによって黒猫とは。全く、不吉もいいところだよ」
「あんな嫁をもらうから悪いんだ。あの家の先祖のせいに違いない。とんだ疫病神を引いたもんだ」
人と人の間に生まれたはずの子が半妖となる事はごくまれに存在し、その場合は先祖返りとされている。先祖の誰かが妖と交わり、その血が隔世遺伝で発現するのだと。その為、半妖が生まれると人々はお互いの家系にその罪をなしつけ合う。彼らにとって妖とは、忌むべき存在で汚らわしく、怖ろしい存在だったのだ。少女が生まれた際にもその騒動は発生し、嫁は離縁されて追放され、嫁の実家とは縁が切れた。少女の押し付け合いは、子供は嫁入り先の家のものだ、知らぬ存ぜぬで通した嫁の実家が勝利し、それ以来、少女は父方の家の片隅、家とも部屋ともつかない場所に追いやられて生きていた。
今日の折檻とて、特に意味もないのであろう。ただ、何か気に食わない事があって、その鬱憤を彼女の存在にかこつけて発散しただけ。それが分かっていてなお、彼女にはどうしようも無かった。栄養不足で瘦せ細った手足を丸め、小さな頭を被って、謝り続ける事しか出来ない。ややあって満足したように出て行った家の者達の気配がなくなるのを待って、少女はその小さなこぶしを握った。頭の上で、大きな三角耳が力なく垂れている。
「たすけて」
その声なき声は、どこにも届かずに霧散した。
それは、冷たい雨の降りしきる日の事だった。
彼女はいつもの様に雑用を押し付けられ、いつもの様に小さな体で精いっぱい雑用をし、いつもの様に難癖をつけられ、いつもの様に折檻を受けていた。いつもと違ったのは、その日祖父の機嫌が悪く、苛立ち混じりに屋敷の外へと追い出されたことであろうか。世間体を気にする祖父母は滅多に彼女を外に出すことはないのだが、その日はあまりにも強い雨の所為で外の様子を伺うものなど居ないだろうという打算と、収まり切らない苛立ちにかられたのだろう。
「この役立たずの穀潰しめ。頭を冷やして反省するがいい」
吐き捨てるようなことばと共に蹴りだされた少女は、大きな水たまりに飛び込んだ。泥の混じった水が全身を濡らし、体が強張る。大きな音を立てて閉じた扉の音を背後に聞きつつ、のろのろと体を起こす。最早なみだも出ない。ただ茫洋とした虚ろな瞳で、濁った水たまりを見つめていた。元々体温の低かった小さな体は、たちまちのうちに熱を奪われていく。どうにか体を支えていた枯木のような細腕がフルフルと震え、限界を訴えていた。
ああ、もういいかな。何とはなしに、そして誰とはなしにそう思った少女は、霞んで狭まっていく視界に引きずられるように腕の力を抜いて――。
熱く、大きい何かに受け止められた。
動きの鈍い頭で異変を感じ、なんとかもがいて見上げた先で。少女は凍り付いた。視線の先にあったのは、鋭い眼光を宿した切れ目の青年で、鼻筋はすっきりと通り、その白皙の美貌は人の美醜に疎い少女にも美しく整っている事が分かった。しかし、少女はそれゆえに凍り付いたのではなかった。少女が凍り付いた理由、それは――。
「ほぉ。黒猫の獣憑きか。珍しい」
青年は祓い師であった。妖を祓う事で、人々をその脅威から救う者達。ミスをするたびに、祖父母からは「祓い師に引き渡して祓ってもらおうか。その方が世のため人の為だ」と散々脅されてきた。それだけではなく、彼女の身に流れる妖の血が、天敵を前にして本能的な恐怖を示していた。少女は美しい青年を前に、全身が震える程の恐怖に支配され、凍り付いていた。
しかし、興味深げな顔をした青年が、その白い指先を彼女に近づけた事で、恐怖が限界点を突破し、もつれるようにして飛び退った。先程まで体を起こすのすら精一杯だったのに、根源的な恐怖を前にして逃げる事しか考えられなかった。ない力を振り絞って彼女はよろよろと無様に駆け出して。
「おっと」
いくばくも行けぬ間にガクリと足の力が抜けた瞬間を狙って、再度その力強い腕に掬い上げられる羽目になる。そのままひょい、と逞しい肩に担ぎ上げられ。恐慌状態に陥った少女は、処理が追い付かずに意識が遠のいていく。
「いい拾い物をしたかもしれん。役に立てよ?」
青年の呟きを耳にすること無く、クタリと意識を失ったままの少女と、少女を肩に担いだ青年を、いつの間にか降りやんだ雲の隙間から零れ出た光が照らし出す。眩しさについと目を細めた青年は、次々に雲の隙間から差し込む光の神々しさをしばし堪能すると、ちらと肩口の黒猫を一瞥し笑みを零した。
「幸運の黒猫に、天使の梯子か。幸先いいな」
青年はクルリと踵を返し、次の瞬間、その場から掻き消えるように姿を消した。
少女はつと伏せていた目を開けた。ゆるりと風が頬を撫で、その心地よさに目を細める。視界の隅をよぎる艶やかな細い尻尾は、よく手入れされて密かな自慢となっている。ついと頭の上の黒い三角耳が後ろを向いた。
「どうした」
「いえ、なんでもありません」
後ろから色気を纏った低い愛おしい声が聞こえ、彼女はそっと微笑んで振り返った。もの言いたげな祓い師に笑みを深めてかぶりをふる。
「本当に大したことでは御座いません。ただ」
「ただ?」
「貴方様に初めてお会いした日のことを思い返しておりました」
ああ、と呟いた青年が彼女の隣に腰を下ろす。その様を穏やかな笑みを湛えて見守り、再度彼女は前に視線をもどした。
青年に拾われたあの日。意識を取り戻した彼女がいたのは、青年の屋敷であった。恐慌状態に陥る彼女を宥め、身ぎれいにし、食事を与えた青年は、彼女に取引を持ちかけたのだ。青年は家督争いをしていた。有利ではあるが、確実ではない。青年の家では、半妖との契約は力の増大が出来るとして歓迎され、婚姻による血の取り込みは優秀な子孫を残すとして認められるのだと語った。これまでとは正反対な己の価値に戸惑った彼女は、本当に獣憑きの自分で良いのか尋ねた。
「福を招く猫ならなおさらいいだろう?」
「わたしは、くろねこです。ふきつの、しょうちょうです」
「生憎だが、祓い師にとっては黒猫は魔除けや幸運の象徴なのさ」
黒猫を拾うとは、俺はそうとうツイてるな。そう言ってニヤリと笑った青年は、確かに彼女のことを真っすぐに見つめていた。俺の手を取れと差し出してきたては大きくて暖かくて。彼女がその手を取ると決めるのに、十分な理由となった。
そして今。彼女は青年とともにその祓い師の仕事をこなし、ついに来月祝言をあげる。ここに至るまでの年月、彼の向上心に満ちた野心と、相反するような不器用な優しさ、彼女を虐げるでも愛玩するだけでもなく対等な相棒として扱ってくれる態度――それらすべてを間近で見守り続けてきた。愛情を知らない彼女が、彼に惹かれるのは当然の流れだった。
理性は叫ぶ。利用されているだけだ。思わせぶりな態度も、言動も、来月の祝言だって、家督争いに興じる祓い師によって行われている茶番であると。
それでも彼女は、それを解った上で彼を愛すると決めた。彼に愛されていなくとも、彼の力になると誓ったのだ。
「例え利用されていたとしても、そのためだけだったとしても。それでも私は構わない。私には、貴方しかいないのだから。その代わり――夢を見る事だけは許してください。貴方に愛されていると夢をみて、そうふるまうおままごとだけは、見逃してください。貴方邪魔にはならないようにするから」
口の中で転がすように、小さく小さく呟いた彼女は、訝し気な視線を向けてきた青年に小さく微笑む。その儚げな美しい笑みに目を奪われた青年は、誤魔化すように咳払いをして勢いよく立ち上がった。そのまま今夜の獲物へと駆け出していった青年の背を追って、少女もまた軽やかに音もなく駆け出す。
そして、知らず知らずのうちに少女に引かれているものの素直になれない青年と、自己肯定感の低い少女の両片思いは、婚姻から始まるのであった。
虐げられて自己肯定感の低い黒猫の少女と、素直になれない意地っ張りな青年のお話です。
**********
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「たすけて」
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吐き捨てるようなことばと共に蹴りだされた少女は、大きな水たまりに飛び込んだ。泥の混じった水が全身を濡らし、体が強張る。大きな音を立てて閉じた扉の音を背後に聞きつつ、のろのろと体を起こす。最早なみだも出ない。ただ茫洋とした虚ろな瞳で、濁った水たまりを見つめていた。元々体温の低かった小さな体は、たちまちのうちに熱を奪われていく。どうにか体を支えていた枯木のような細腕がフルフルと震え、限界を訴えていた。
ああ、もういいかな。何とはなしに、そして誰とはなしにそう思った少女は、霞んで狭まっていく視界に引きずられるように腕の力を抜いて――。
熱く、大きい何かに受け止められた。
動きの鈍い頭で異変を感じ、なんとかもがいて見上げた先で。少女は凍り付いた。視線の先にあったのは、鋭い眼光を宿した切れ目の青年で、鼻筋はすっきりと通り、その白皙の美貌は人の美醜に疎い少女にも美しく整っている事が分かった。しかし、少女はそれゆえに凍り付いたのではなかった。少女が凍り付いた理由、それは――。
「ほぉ。黒猫の獣憑きか。珍しい」
青年は祓い師であった。妖を祓う事で、人々をその脅威から救う者達。ミスをするたびに、祖父母からは「祓い師に引き渡して祓ってもらおうか。その方が世のため人の為だ」と散々脅されてきた。それだけではなく、彼女の身に流れる妖の血が、天敵を前にして本能的な恐怖を示していた。少女は美しい青年を前に、全身が震える程の恐怖に支配され、凍り付いていた。
しかし、興味深げな顔をした青年が、その白い指先を彼女に近づけた事で、恐怖が限界点を突破し、もつれるようにして飛び退った。先程まで体を起こすのすら精一杯だったのに、根源的な恐怖を前にして逃げる事しか考えられなかった。ない力を振り絞って彼女はよろよろと無様に駆け出して。
「おっと」
いくばくも行けぬ間にガクリと足の力が抜けた瞬間を狙って、再度その力強い腕に掬い上げられる羽目になる。そのままひょい、と逞しい肩に担ぎ上げられ。恐慌状態に陥った少女は、処理が追い付かずに意識が遠のいていく。
「いい拾い物をしたかもしれん。役に立てよ?」
青年の呟きを耳にすること無く、クタリと意識を失ったままの少女と、少女を肩に担いだ青年を、いつの間にか降りやんだ雲の隙間から零れ出た光が照らし出す。眩しさについと目を細めた青年は、次々に雲の隙間から差し込む光の神々しさをしばし堪能すると、ちらと肩口の黒猫を一瞥し笑みを零した。
「幸運の黒猫に、天使の梯子か。幸先いいな」
青年はクルリと踵を返し、次の瞬間、その場から掻き消えるように姿を消した。
少女はつと伏せていた目を開けた。ゆるりと風が頬を撫で、その心地よさに目を細める。視界の隅をよぎる艶やかな細い尻尾は、よく手入れされて密かな自慢となっている。ついと頭の上の黒い三角耳が後ろを向いた。
「どうした」
「いえ、なんでもありません」
後ろから色気を纏った低い愛おしい声が聞こえ、彼女はそっと微笑んで振り返った。もの言いたげな祓い師に笑みを深めてかぶりをふる。
「本当に大したことでは御座いません。ただ」
「ただ?」
「貴方様に初めてお会いした日のことを思い返しておりました」
ああ、と呟いた青年が彼女の隣に腰を下ろす。その様を穏やかな笑みを湛えて見守り、再度彼女は前に視線をもどした。
青年に拾われたあの日。意識を取り戻した彼女がいたのは、青年の屋敷であった。恐慌状態に陥る彼女を宥め、身ぎれいにし、食事を与えた青年は、彼女に取引を持ちかけたのだ。青年は家督争いをしていた。有利ではあるが、確実ではない。青年の家では、半妖との契約は力の増大が出来るとして歓迎され、婚姻による血の取り込みは優秀な子孫を残すとして認められるのだと語った。これまでとは正反対な己の価値に戸惑った彼女は、本当に獣憑きの自分で良いのか尋ねた。
「福を招く猫ならなおさらいいだろう?」
「わたしは、くろねこです。ふきつの、しょうちょうです」
「生憎だが、祓い師にとっては黒猫は魔除けや幸運の象徴なのさ」
黒猫を拾うとは、俺はそうとうツイてるな。そう言ってニヤリと笑った青年は、確かに彼女のことを真っすぐに見つめていた。俺の手を取れと差し出してきたては大きくて暖かくて。彼女がその手を取ると決めるのに、十分な理由となった。
そして今。彼女は青年とともにその祓い師の仕事をこなし、ついに来月祝言をあげる。ここに至るまでの年月、彼の向上心に満ちた野心と、相反するような不器用な優しさ、彼女を虐げるでも愛玩するだけでもなく対等な相棒として扱ってくれる態度――それらすべてを間近で見守り続けてきた。愛情を知らない彼女が、彼に惹かれるのは当然の流れだった。
理性は叫ぶ。利用されているだけだ。思わせぶりな態度も、言動も、来月の祝言だって、家督争いに興じる祓い師によって行われている茶番であると。
それでも彼女は、それを解った上で彼を愛すると決めた。彼に愛されていなくとも、彼の力になると誓ったのだ。
「例え利用されていたとしても、そのためだけだったとしても。それでも私は構わない。私には、貴方しかいないのだから。その代わり――夢を見る事だけは許してください。貴方に愛されていると夢をみて、そうふるまうおままごとだけは、見逃してください。貴方邪魔にはならないようにするから」
口の中で転がすように、小さく小さく呟いた彼女は、訝し気な視線を向けてきた青年に小さく微笑む。その儚げな美しい笑みに目を奪われた青年は、誤魔化すように咳払いをして勢いよく立ち上がった。そのまま今夜の獲物へと駆け出していった青年の背を追って、少女もまた軽やかに音もなく駆け出す。
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