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第三章
しおりを挟む『獣の王』を王城から『闇の森』に運ぶためだけに使われるという黒い馬車は、最後に使ったのが三十年前で、ろくに手入れもされておらず、走るたびにあちこちが軋んだ。
猿は姦しく、熊となったサリナの毛皮や爪を褒めたたえ、あまりにうるさいので、サリナは命令した。
「黙りなさい。私から話しかけるまで、口を開くのではない」
猿は不機嫌そうに黙ったが、サリナは気にしない。サリナの家には使用人がたくさんいたから、命令することには慣れていたし、抵抗もなかった。ただ、あの義弟は使用人にいつも優しく接し、使用人からも慕われていたな、と思い出す。
とうとう馬車が『闇の森』に着いた。御者はサリナと猿が降りると、二匹を『闇の森』の入り口に放り出して、逃げるように立ち去った。
「案内しなさい」
とサリナが命じると、猿は嫌味ったらしく黙ったまま、身振りでサリナを森の奥に案内した。
幾重にも重なった梢と葉が、陽光を遮って、森は薄暗かった。
サリナは興味深く森を見回した。新たに得た鋭い鼻は、森の土の匂いの下に潜む虫たち、川の流れとその下を泳ぐ魚たち、木の実や果実の匂いを嗅ぎ分けた。それらの芳しい匂いの他に、いくつかの『捻れた』匂いがある。それが呪われて獣になったという人間たちなのだろうと予想がついた。
やがて、開けた場所に出た。そこには、森の奥にあるとは思えないほど豪奢な白亜の宮殿があった。踏むのを躊躇われるほどの真白さを保った大理石の玄関から中に入れば、足の裏に石の冷たさが伝わる。
猿が不機嫌そうに辺りを見回した。
「おい、女! 彫像の掃除が終わっていないではないか、どういうことだ!」
猿が呼ばわると、廊下の角から女が出てきて、石の床の上にひれ伏した。黒く艷やかな長い髪が、床に広がる。
「申し訳ございません。時間がなく、床を拭き清めるのが精一杯でございました」
玲瓏たる声だった。
その女からは、『捻れた』匂いがしなかった。正真正銘の人間なのだと、サリナの鼻には分かる。
「役立たずめ!」
と猿は女の頭を蹴ろうとしたが、サリナが止める。
「やめなさい!」
猿はぴたりと動きを止め、さも不機嫌そうにサリナを見た。サリナはそれに構わず、女に向かって言った。
「そこの娘、顔を上げなさい」
女はそれに従い、顔を上げた。サリナは息を呑んだ。長いまつげが縁取る、黒曜石の瞳。クリーム色の滑らかな肌。艷やかな赤い唇。整った鼻梁。まるで宝石のように美しい女だった。女はまっすぐにサリナを見つめる。その瞳に恐れの色はなく、まったくの無表情だった。
「猿よ、この娘は何者なの?」
「はっ、この女は、古の契約によって、モリブ村から献上された『獣の王』の妻です。獣がモリブ村を外敵から守る代わりに、『獣の王』の代替わりに際しては、村で一番美しい処女(おとめ)を妻として献上する決まり。ですが今回は、モリブ村が契約に反して抵抗したため、村人を幾人か殺すことになりました」
猿は笑い、サリナはモリブ村が襲われた理由を知って顔をしかめる。女は表情を変えなかった。
「私は女で、妻など必要ありません。帰してやりなさい」
サリナがそう言うと、女はハッとした顔をした。猿は首を横に振る。
「それはできませぬ。古の契約は絶対。この女はあなたの妻、それは『獣の王』であるあなたにも変えられぬことです」
サリナは猿に向き直った。古の契約についてもっと聞いておかねばならぬことが分かったのだ。
「古の契約とは、他に何があるの。全て説明せよ。そして、それを破るとどうなるのかも」
奇妙な確信で、猿は『獣の王』の命令には正直に答えるだろうと分かっていた。
猿は果たして、嫌そうな顔をしたが、語りだした。
「『獣の王』は、『闇の森』から一歩たりとも出ることは叶いません。その代わり、『闇の森』において、『獣の王』にはあらゆる暴虐が許されております。ただし、定められた義務が三つ。一つは、モリブ村から献上された女を妻とし、そばに置くこと。一つは、王となったその晩、獣達を集め、即位の儀式を滞りなく行うこと。一つは、決して獣を喰わぬことです」
即位の儀式については王城でも侍従から繰り返し説明を受け、「頼みますよ」と念を押されていた。元は人間だったという獣など、最初から喰おうとは思わない。
サリナは目線で、猿に先を促す。
「古の契約を破れば、『獣の王』はただの獣に成り下がります。そしてその時、王は他の獣達に喰われる定めです」
それを聞いても、サリナに特に感慨はなかった。ただ、サリナが説明を求めなければ、猿はその中の幾つかを黙っていたに違いないと思った。
「人間の側には、どのような義務がある?」
「モリブ村の者は、先に申し上げたとおり、『獣の王』に妻を差し出すこと。また、王国のあらゆる人間は、『闇の森』に炎を放つこと、『闇の森』の獣に剣と矢で持って攻撃することが禁じられております」
そうか、とそれだけ言って、サリナは女に向き直った。
「名はなんという?」
聞けば、女は玲瓏たる声で応えた。
「アニスと申します」
「アニス。悪いが、帰してはやれません。ですが、あなたは私の妻。できるだけ良くしてやりたいと思います。危害は加えないから、安心して過ごしなさい」
熊となったサリナの声は、元が少女だったとは思えぬほど低く、しわがれている。とても安心できる声音ではないな、と自分でも思うが、アニスは再び床にひれ伏して、
「ありがたきお言葉です」
と言った。サリナは猿に向き直り、
「彼女への侮辱や暴力は許しません。王妃に相応しい扱いをするように」
と告げ、猿は不承不承頷いた。
「分かったら、今晩の儀式の準備をしなさい。すべて滞りなく行われるように」
「かしこまりました」
猿は頭を下げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら森へと去っていった。
サリナはアニスを見下ろす。その手は荒れて、傷だらけだった。美しい顔には疲れが滲んでいた。妻とは名ばかりの使用人として立ち働かされていたことは明らかだ。この広い宮殿を、一人で掃除しようなどと、そもそもが無茶なのだ。
「もう休みなさい。──私はもう獣です。彫像に埃が溜まっていようが、今更気にすることはないのです」
アニスは頭を下げる。
「それではお言葉に甘えさせていただきますが、その前に、お部屋にご案内をさせていただきます」
アニスに案内された部屋は、華やかなアラベスク模様の布が壁に飾られ、大きな寝台にも手の込んだ刺繍の布がかけてあった。あちこちに飾られた、青磁の花瓶や、彫像の数々。
これが熊の部屋か、と苦笑する。
アニスはすぐに下がらせ、サリナは寝台に上がった。巨大な寝台は、熊の巨体を乗せてもまだ余裕があり、軋むこともなかった。
サリナは目を閉じる。即位の儀式は夜だ。まだ時間があった。
長いこと馬車に揺られた疲れが出たのだろうか。サリナはすぐに眠りに落ちた。
人間だった頃の夢を見た。
パドレディン家の庭園。日の当たるその場所で、ハルマが駆け回り、こちらに手を振っている。その背後には両親もいて、ハルマを微笑ましげに見守っている。
サリナは、自分もそこへ歩み寄ろうと思い──どうしても近づくことができなかった。
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