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本編1
01.不幸せな結婚02
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「ち……ちか……いま……す」
小さな小さな声すらも、静寂を纏った教会では大きく響いた。
(言ってしまった……)
絶望が樟を真綿のように緩く締め付け始める。
もう逃げ場なんてないんだ。いや、最初から逃げ場なんて存在しなかった。オメガだと診断されたあの日から――。
ギュッと唇を噛み締めて、さらに頭を垂らした。その様を耀一郞がどんな目で見ているかすら気にする余裕がないまま、二人からの誓いの言葉を受け取った神父は、祭壇に一枚の紙を乗せた。
――婚姻届だ。
配偶者となるための二人の名前こそ記載されていなかったが、他はすべて埋め尽くされている。耀一郞が当たり前のように祭壇に置かれたペンを取り、自分の名を記入していった。達筆な文字は彼がとても有能である証のようで、その隣に名を記すのが本当に自分で良いのかと再び疑念が湧きあがった。けれど、書かないという選択肢はもう、ない。後ろに座る家族が、僅かな失敗を決して許しはしない。
最後の一角を記入しペンが置かれるまでを凝視して、左肘を掴んでいた手を放してそれに伸ばした。
一瞬一瞬がスローモーションのように動き、映像の向こうの出来事のように思えても、硬いペンの感触にこれは現実だと引き戻された。
ゴクリと唾を飲み込み、震えを止められないままに、ミミズが這ったような字で「菊池樟」と記載していく。
子供が書くよりもずっと汚い字だというのに、神父はにこやかにそれを見つめ、何度も頷いた。
「死が分かつまで二人が夫夫となったことを宣言します。指輪の交換を」
トレーを抱えた教会のスタッフが近づき、二人に差し出す。床に敷かれたのと同色のベルベットトレーの上にはシンプルなプラチナリングが二つ乗っている。
耀一郞は小さいリングを手に取ると乱暴に樟の左手を掴んだ。
(痛っ……でも絶対声を出しちゃダメだ……こんなのは慣れてる。うん、慣れてるから大丈夫……)
痛みに顔を顰めながらも、樟は奥歯を噛み締め悲鳴を堪えた。うっすらと浮かんだ涙の散らし方も知っている。深呼吸を何度もして痛みを逃す間に、それは薬指に押し込まれた。用は済んだと手を放した耀一郞は、無造作にもう一つを手にし、自分の指に嵌める。
参列席からざわめきが起きたが、樟は聞き取るだけの余裕はない。
同じ指に同じ指輪をするその瞬間、なのに感動も感慨も生まれず、ひたすら恐怖だけが樟を包み込み締め上げようとする。
(この人も……怖い人だ)
嫌でも感じ取れる、参列席から上がったように見初めたのではないことを。
(きっと僕と同じように言われて従ってるんだ。結婚しろって)
僅かな申し訳なさが沸き起こったが、それ以上に耀一郞に対する恐怖が募っていく。
見てしまったから。彼の眉間に深く刻まれた皺を。そして怜悧で男らしく切れ上がった眦が恐ろしいほどに吊り上がっている。
もしここが厳粛な教会でなければ何度も謝罪を口にしたことだろう。自分のなにが悪かったのかもわからないまま。
「結婚指輪とは、二人の愛が途切ることのない証です。同じ指にあるということで常に互いを意識できることでしょう。おめでとうございます、誓いの口付けをどうぞ」
「なん……だと」
初めて耀一郞から感情のこもった言葉が発せられた。苦々しく禍々しい言葉は、ワッと沸き立つ声に掻き消され、樟に届くのがやっとだった。
また細い肩がビクリと跳ね上がった。
恐怖から逃げるために硬く目を閉じ、両手で拳を握った。こうしていれば嫌な事を堪えることができる。こうして堪えていればそのうちすべてが終わる。
耀一郞の気配が近づいてくるのがわかった。「くそっ」と息だけの悪態が顔にかかる。どれほど怖くても、逃げることは許されない。このままただ時間が過ぎるのを待つだけだ。
どれほど待とうが、触れることはなかった。頬の傍まで近づいたのは感じ取れたが、唇が鳴らす「チュッ」という音の後に離れていったのだ。
沸き起こった拍手に慌てて瞼を上げれば、先程と同じように厳めしい顔のまま、耀一郞が祭壇へと向き直っている。樟も慌てて倣った。
(おわ……たんだ……良かった)
もうこれで解放されるのか。
再びオルガンの音が鳴り響き、賛美歌の美しい歌声が流れ始める。
「それでは皆様、二人の新たな門出を祝うために出口へと移動してください」
神父の言葉に背後がざわめき、布の擦れる音と共に足音が聞こえ始め、あれほどあった人々の気配がなくなっていく。
ものすごく長く感じられた時間の終わりに、一瞬だけ肩の力を抜いた。ほんの一瞬なのは、隣から怒りのオーラが放たれているからだ。これほど如実に感じられるのは、彼が人類で最も優れているアルファだからだ。
オメガがフェロモンを放出するように、アルファは相手を威嚇するオーラを放つことができるという。きっとこれは彼がここにいる誰よりも優れているという証に違いない。
ゴクリと唾を飲み込み、自然とまた肩に力が入る。
神父が二人の様子を見つめ、あの穏やかな笑みを浮かべたまま、何度も頷いた。
「緊張することはありません。神はあなた方の幸せをいつも見守っています。これから二人には辛いことも多いでしょう、けれどそれ以上の幸せが必ず訪れます。胸を張って新たな門出を迎えてください」
優しい言葉に樟の心は動き、すぐに「それは嘘だ」と諦め始めた。
決して神様はオメガを幸せなんかにしない。もし本当にこの先、幸せがあるのだとしても、樟に訪れはしないだろう。
ただ優しく声をかけてくれた神父に、小さく頭を下げた。ほんの僅かな希望を与えてくれたことに感謝して。
「準備が整ったようですね。幸せを皆様に分け与えてください。お二人に幸多からんことを」
退場を促され、深紅のカーペットに沿って歩き出す耀一郞の後を追いかけた。長身の彼に追いつくのは一苦労だ。後ろから見れば、逞しい背中が飛び込んでくる。厚い胸板にがっちりとした肩幅。手足は長く、均等の取れた体躯だ。その上姿勢も良い。樟が今までに見た誰よりも逞しい。
(この人は本当にアルファなんだ……それに比べて僕は本当にちっぽけだな)
同じ白いタキシードを身につけているというのに、耀一郞は身体の一部のように着こなしているが、樟は着せられていると言わんばかりに不格好だ。恥ずかしくて小さくなり、耀一郞の後ろに隠れるようにして歩き続けたら、教会のスタッフが駆け寄ってきた。
「皆様が外でお待ちしております。エスコートをされてはいかがですか? 腕を組まれる方も多くございます」
歪曲に現状はふさわしくないと囁かれた耀一郞は、再び眉間に皺を寄せ、怖い顔を作って立ち止まった。ちらりと樟を振り返し、舌打ちしそうな顔へと変わった。本当に樟が……いやきっとオメガと一緒に居るのが苦痛なのだろう。
小さな小さな声すらも、静寂を纏った教会では大きく響いた。
(言ってしまった……)
絶望が樟を真綿のように緩く締め付け始める。
もう逃げ場なんてないんだ。いや、最初から逃げ場なんて存在しなかった。オメガだと診断されたあの日から――。
ギュッと唇を噛み締めて、さらに頭を垂らした。その様を耀一郞がどんな目で見ているかすら気にする余裕がないまま、二人からの誓いの言葉を受け取った神父は、祭壇に一枚の紙を乗せた。
――婚姻届だ。
配偶者となるための二人の名前こそ記載されていなかったが、他はすべて埋め尽くされている。耀一郞が当たり前のように祭壇に置かれたペンを取り、自分の名を記入していった。達筆な文字は彼がとても有能である証のようで、その隣に名を記すのが本当に自分で良いのかと再び疑念が湧きあがった。けれど、書かないという選択肢はもう、ない。後ろに座る家族が、僅かな失敗を決して許しはしない。
最後の一角を記入しペンが置かれるまでを凝視して、左肘を掴んでいた手を放してそれに伸ばした。
一瞬一瞬がスローモーションのように動き、映像の向こうの出来事のように思えても、硬いペンの感触にこれは現実だと引き戻された。
ゴクリと唾を飲み込み、震えを止められないままに、ミミズが這ったような字で「菊池樟」と記載していく。
子供が書くよりもずっと汚い字だというのに、神父はにこやかにそれを見つめ、何度も頷いた。
「死が分かつまで二人が夫夫となったことを宣言します。指輪の交換を」
トレーを抱えた教会のスタッフが近づき、二人に差し出す。床に敷かれたのと同色のベルベットトレーの上にはシンプルなプラチナリングが二つ乗っている。
耀一郞は小さいリングを手に取ると乱暴に樟の左手を掴んだ。
(痛っ……でも絶対声を出しちゃダメだ……こんなのは慣れてる。うん、慣れてるから大丈夫……)
痛みに顔を顰めながらも、樟は奥歯を噛み締め悲鳴を堪えた。うっすらと浮かんだ涙の散らし方も知っている。深呼吸を何度もして痛みを逃す間に、それは薬指に押し込まれた。用は済んだと手を放した耀一郞は、無造作にもう一つを手にし、自分の指に嵌める。
参列席からざわめきが起きたが、樟は聞き取るだけの余裕はない。
同じ指に同じ指輪をするその瞬間、なのに感動も感慨も生まれず、ひたすら恐怖だけが樟を包み込み締め上げようとする。
(この人も……怖い人だ)
嫌でも感じ取れる、参列席から上がったように見初めたのではないことを。
(きっと僕と同じように言われて従ってるんだ。結婚しろって)
僅かな申し訳なさが沸き起こったが、それ以上に耀一郞に対する恐怖が募っていく。
見てしまったから。彼の眉間に深く刻まれた皺を。そして怜悧で男らしく切れ上がった眦が恐ろしいほどに吊り上がっている。
もしここが厳粛な教会でなければ何度も謝罪を口にしたことだろう。自分のなにが悪かったのかもわからないまま。
「結婚指輪とは、二人の愛が途切ることのない証です。同じ指にあるということで常に互いを意識できることでしょう。おめでとうございます、誓いの口付けをどうぞ」
「なん……だと」
初めて耀一郞から感情のこもった言葉が発せられた。苦々しく禍々しい言葉は、ワッと沸き立つ声に掻き消され、樟に届くのがやっとだった。
また細い肩がビクリと跳ね上がった。
恐怖から逃げるために硬く目を閉じ、両手で拳を握った。こうしていれば嫌な事を堪えることができる。こうして堪えていればそのうちすべてが終わる。
耀一郞の気配が近づいてくるのがわかった。「くそっ」と息だけの悪態が顔にかかる。どれほど怖くても、逃げることは許されない。このままただ時間が過ぎるのを待つだけだ。
どれほど待とうが、触れることはなかった。頬の傍まで近づいたのは感じ取れたが、唇が鳴らす「チュッ」という音の後に離れていったのだ。
沸き起こった拍手に慌てて瞼を上げれば、先程と同じように厳めしい顔のまま、耀一郞が祭壇へと向き直っている。樟も慌てて倣った。
(おわ……たんだ……良かった)
もうこれで解放されるのか。
再びオルガンの音が鳴り響き、賛美歌の美しい歌声が流れ始める。
「それでは皆様、二人の新たな門出を祝うために出口へと移動してください」
神父の言葉に背後がざわめき、布の擦れる音と共に足音が聞こえ始め、あれほどあった人々の気配がなくなっていく。
ものすごく長く感じられた時間の終わりに、一瞬だけ肩の力を抜いた。ほんの一瞬なのは、隣から怒りのオーラが放たれているからだ。これほど如実に感じられるのは、彼が人類で最も優れているアルファだからだ。
オメガがフェロモンを放出するように、アルファは相手を威嚇するオーラを放つことができるという。きっとこれは彼がここにいる誰よりも優れているという証に違いない。
ゴクリと唾を飲み込み、自然とまた肩に力が入る。
神父が二人の様子を見つめ、あの穏やかな笑みを浮かべたまま、何度も頷いた。
「緊張することはありません。神はあなた方の幸せをいつも見守っています。これから二人には辛いことも多いでしょう、けれどそれ以上の幸せが必ず訪れます。胸を張って新たな門出を迎えてください」
優しい言葉に樟の心は動き、すぐに「それは嘘だ」と諦め始めた。
決して神様はオメガを幸せなんかにしない。もし本当にこの先、幸せがあるのだとしても、樟に訪れはしないだろう。
ただ優しく声をかけてくれた神父に、小さく頭を下げた。ほんの僅かな希望を与えてくれたことに感謝して。
「準備が整ったようですね。幸せを皆様に分け与えてください。お二人に幸多からんことを」
退場を促され、深紅のカーペットに沿って歩き出す耀一郞の後を追いかけた。長身の彼に追いつくのは一苦労だ。後ろから見れば、逞しい背中が飛び込んでくる。厚い胸板にがっちりとした肩幅。手足は長く、均等の取れた体躯だ。その上姿勢も良い。樟が今までに見た誰よりも逞しい。
(この人は本当にアルファなんだ……それに比べて僕は本当にちっぽけだな)
同じ白いタキシードを身につけているというのに、耀一郞は身体の一部のように着こなしているが、樟は着せられていると言わんばかりに不格好だ。恥ずかしくて小さくなり、耀一郞の後ろに隠れるようにして歩き続けたら、教会のスタッフが駆け寄ってきた。
「皆様が外でお待ちしております。エスコートをされてはいかがですか? 腕を組まれる方も多くございます」
歪曲に現状はふさわしくないと囁かれた耀一郞は、再び眉間に皺を寄せ、怖い顔を作って立ち止まった。ちらりと樟を振り返し、舌打ちしそうな顔へと変わった。本当に樟が……いやきっとオメガと一緒に居るのが苦痛なのだろう。
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