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本編1
01.不幸せな結婚03
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このままで良いと思っていても、先程の恐ろしい顔を見れば強張った身体は動こうとしない。喉も硬くなり言葉を発せられなくなる。
僅かに首を振るだけの樟に、スタッフは笑顔を向けてくれる。
これもきっと教会のイメージを上げるために決まっている。
スッと耀一郞の肘が差し出された。
驚き、上げようとした顔をまた伏せた。
絶対に見ちゃいけない。
見てしまったらあの恐ろしい表情を目の当たりにし、自分が望まれていないのだと突きつけられる。
樟はそっと目を伏せ、恐る恐る指先だけを白いタキシードに包まれた肘に触れ、遠慮なく歩き出した耀一郞を必死に追いかけた。頭がようやく彼の肩に届くほどの身長差に見合った長さの違う足では、小走りになって不格好だけど構っていられなかった。
重厚な扉をくぐれば、梅雨であるのが信じられないほどの美しい青空が広がっている。薄く棚引いていた春とは異なる綿飴のような雲が遠くに漂い、とても心地よさげだ。
ぼんやりと見ていたら、手首を掴まれ強く引っ張られた。
「あっ……」
「ちゃんとしろ」
「……すみ、ません」
小声の叱責でまたしても耀一郞の怒気が強まった。
(また失敗しちゃった……離婚とか言われちゃうのかな?)
まだ婚姻届にサインしただけで二人は夫夫ではない。だというのに常識があまりない樟は狼狽え、慌てて指先だけ彼の肘に触れたままの体勢で追いかけた。
「おめでとうございます」
「お幸せに」
定番の言葉とともに降ってきたのは米粒だ。ライスシャワーの意味もわからないまま、真っ直ぐに伸びる道の向こうに駐まっている黒塗りのロールスロイスまでその体勢で歩き続けるしかなかった。
到着直前に運転手より扉が開かれ、逃げるように滑り込んだ。広い車内は座席が長く、運転席側に小さくなって座れば、耀一郞が向かいの席の真ん中にドンと腰掛けた。
扉が閉まれば、閉塞感が増していく。何も言わずに走り出した車は目的地がどこかもわからないが、樟が知る必要がないと言われているのだと思い、ただ押し黙っているしかない。
耀一郞が冷たい視線がじっと樟に向き、ビクビク震えてばかりいる姿に「ハッ」と息を吐き捨て、長い足を組み直すとスマートフォンを取り出した。
「私だ。一時間後には出社するから、今から言う資料を用意しておいてくれ」
樟にはわからない仕事の話が始まったので、なるべく内容を頭に残さないようにしようと思ったが、それ以前にあまりにも内容が小難しくて理解ができず、ぼんやりと耀一郞の向こうにある風景を眺めるしかなかった。
スモークが貼られた窓は、内側からはその向こうがよく見える。
どうなっているんだろうと不思議に思うが、高校を卒業してから社会と断絶した生活を送り続けた樟には何一つ理解できずにいる。
(もっと勉強したかったな……)
オメガでなければそれもできただろう。
ベータだったら父や兄の助けになれただろう。
けれど、男であるのと同じように、樟がオメガでない現実はどれほど望んでもやってこない。切望したところで、樟にできることはなにもない。
ただオメガというだけで。
特徴である高いビルがジャングルの大木のようにそびえ立つ東京の景色をただぼんやりと眺めるしかなかった。
車が駐まったのはコンクリートジャングルの中にそびえ立つ巨木の一つ。大きなエントランスを持つマンションの前だった。運転手が扉を開くと耀一郞は樟を見ることなく滑るように下りた。
「これを役所に出してください」
運転手に紙を渡すと当然のようにエントランスに入ろうとして、振り向いた。
「何をしている。来い」
一緒に行っていいのだろうか。運転手に視線を向ければ、無表情な彼から得られる情報は何もなかった。恐る恐る扉に手を付けて樟が下りるのを確かめてからまた耀一郞は歩き出した。
大きな高層マンションは相応のセキュリティが施され、パネルに指紋認証しなければ入れない仕組みになっていた。
耀一郞は自分の手を翳して扉を開いた後、オドオドと近づいてくる樟に苛立って舌打ちをした。
「早くしろ、時間がない。ここに手を置け」
ここ、と指されたのはパネルの指紋認証部分だ。男にしては小さな手をびくつきながら乗せれば、耀一郞が勝手知ったるとばかりにパネルを操作した。電子音が一度高く鳴る。
「登録が済んだ。四二〇一を押してそこに手を乗せれば自由に出入りできる」
「……どうして、ですか?」
素直な疑問を投げかけた。こんな高そうなマンションにどうして自分が出入りしなければいけないのか理解できなかったが、胡乱な眼差しが向けられた。恐ろしさにまたビクリと肩が跳ね上がる。
「その頭に何が詰まってるんだ。なんのために教会に行ったかわかってるのか?」
冷たい言葉は容易に樟の心をナイフで刻む。
(そうだ……この人と『家族』になったんだ……)
なぜ自分なのかもわからないまま、婚姻届に名前を記載した。どんな思惑がそこに存在するのかを考え続けたが、情報を与えられない樟は答えを出せないままだ。
複数基あるエレベータの上層階専用の表示がされているパネルを押せば、すぐにチーンと高い音を立てて扉が開いた。乗り込んだ耀一郞が顎で乗るよう指示をする。怖いが、ここに立ったままにはいけないと樟もわかっていた。恐る恐る乗り込んで、すぐに耀一郞の斜め後ろに立つ。
ちまちまとした動きに耀一郞が鼻白み、目的階に着くと樟のことなど構わずに下りた。後を追いかけ、フロアに三戸ある中で一番奥の扉の前へとやってきた。これも指紋認証で扉が開いた。
「入れ」
「はい……」
想像したよりも中は広かった。広い玄関はL字型に曲がっており、突き当たりの扉はリビングに続いていた。耀一郞が最初に案内したのはそこではなく、折り曲がった途中にある扉の一つだった。
「ここがお前の部屋だ」
八畳はあろう部屋にはなにも置かれていなかった。クローゼットがあり、ベランダに出られる大きな窓からは燦々と陽光が注ぎ込んでいる。
「すごい……」
樟を感嘆させたのは、そこに広がる風景だ。東京湾を抱え込むようにしている両端までが、遮るものなく見渡せる。ふわふわと浮いている雲が近く、手を伸ばせば掴み取れるのではと思うほどだ。部屋の中を覗き込まれる心配もない。
「この部屋の前の扉がトイレと風呂だ。好きに使っていい。だが奥の扉は絶対に開けるな。わかったな」
「はい……」
ここだけで充分だ。
今日初めて目を輝かせ、気付かないままに笑顔が浮かぶ。
(父さんたちと離れて暮らすんだ!)
胸が跳ね、嬉しさを隠すことができなかった。
「ふん。次はこっちだ」
耀一郞はリビングへと促した。樟に宛がわれた部屋が四つも入るだろう広いリビングは、たくさんの本が並んだ大きな棚とダイニングテーブル、それにテレビがある。雑誌から飛び出してきたようにスタイリッシュだが、観葉植物といった無駄なものは何一つない。
すっきりとしているがよそよそしい部屋で何をすれば良いのか分からずに突っ立っていると、クレジットカードがダイニングテーブルの上に置かれた。
「家族カードだ。必要なものはこれで買え」
「……えっ、なんで……」
「私のことは気にするな……関わるな。オメガとこうして話すのですら穢らわしい。好きにしていいが妊娠はするな。絶対にだ。わかったな」
「は……い……」
妊娠と言われ、腹の底から沸き起こる不安に小さく震え始めた。
(この人はどこまで知っているんだろう……)
先程までの浮かれた気持ちが消え、頬が紅潮するほどに上がった血が引いていくのを感じる。
(ちゃんとしなきゃ……迷惑をかけないように……)
瑕疵でしかないオメガの自分を伴侶としたのだ、ならば何一つ迷惑をかけないようにしないと。
樟は手を握り込み、今までで一番深く俯いた。
僅かに首を振るだけの樟に、スタッフは笑顔を向けてくれる。
これもきっと教会のイメージを上げるために決まっている。
スッと耀一郞の肘が差し出された。
驚き、上げようとした顔をまた伏せた。
絶対に見ちゃいけない。
見てしまったらあの恐ろしい表情を目の当たりにし、自分が望まれていないのだと突きつけられる。
樟はそっと目を伏せ、恐る恐る指先だけを白いタキシードに包まれた肘に触れ、遠慮なく歩き出した耀一郞を必死に追いかけた。頭がようやく彼の肩に届くほどの身長差に見合った長さの違う足では、小走りになって不格好だけど構っていられなかった。
重厚な扉をくぐれば、梅雨であるのが信じられないほどの美しい青空が広がっている。薄く棚引いていた春とは異なる綿飴のような雲が遠くに漂い、とても心地よさげだ。
ぼんやりと見ていたら、手首を掴まれ強く引っ張られた。
「あっ……」
「ちゃんとしろ」
「……すみ、ません」
小声の叱責でまたしても耀一郞の怒気が強まった。
(また失敗しちゃった……離婚とか言われちゃうのかな?)
まだ婚姻届にサインしただけで二人は夫夫ではない。だというのに常識があまりない樟は狼狽え、慌てて指先だけ彼の肘に触れたままの体勢で追いかけた。
「おめでとうございます」
「お幸せに」
定番の言葉とともに降ってきたのは米粒だ。ライスシャワーの意味もわからないまま、真っ直ぐに伸びる道の向こうに駐まっている黒塗りのロールスロイスまでその体勢で歩き続けるしかなかった。
到着直前に運転手より扉が開かれ、逃げるように滑り込んだ。広い車内は座席が長く、運転席側に小さくなって座れば、耀一郞が向かいの席の真ん中にドンと腰掛けた。
扉が閉まれば、閉塞感が増していく。何も言わずに走り出した車は目的地がどこかもわからないが、樟が知る必要がないと言われているのだと思い、ただ押し黙っているしかない。
耀一郞が冷たい視線がじっと樟に向き、ビクビク震えてばかりいる姿に「ハッ」と息を吐き捨て、長い足を組み直すとスマートフォンを取り出した。
「私だ。一時間後には出社するから、今から言う資料を用意しておいてくれ」
樟にはわからない仕事の話が始まったので、なるべく内容を頭に残さないようにしようと思ったが、それ以前にあまりにも内容が小難しくて理解ができず、ぼんやりと耀一郞の向こうにある風景を眺めるしかなかった。
スモークが貼られた窓は、内側からはその向こうがよく見える。
どうなっているんだろうと不思議に思うが、高校を卒業してから社会と断絶した生活を送り続けた樟には何一つ理解できずにいる。
(もっと勉強したかったな……)
オメガでなければそれもできただろう。
ベータだったら父や兄の助けになれただろう。
けれど、男であるのと同じように、樟がオメガでない現実はどれほど望んでもやってこない。切望したところで、樟にできることはなにもない。
ただオメガというだけで。
特徴である高いビルがジャングルの大木のようにそびえ立つ東京の景色をただぼんやりと眺めるしかなかった。
車が駐まったのはコンクリートジャングルの中にそびえ立つ巨木の一つ。大きなエントランスを持つマンションの前だった。運転手が扉を開くと耀一郞は樟を見ることなく滑るように下りた。
「これを役所に出してください」
運転手に紙を渡すと当然のようにエントランスに入ろうとして、振り向いた。
「何をしている。来い」
一緒に行っていいのだろうか。運転手に視線を向ければ、無表情な彼から得られる情報は何もなかった。恐る恐る扉に手を付けて樟が下りるのを確かめてからまた耀一郞は歩き出した。
大きな高層マンションは相応のセキュリティが施され、パネルに指紋認証しなければ入れない仕組みになっていた。
耀一郞は自分の手を翳して扉を開いた後、オドオドと近づいてくる樟に苛立って舌打ちをした。
「早くしろ、時間がない。ここに手を置け」
ここ、と指されたのはパネルの指紋認証部分だ。男にしては小さな手をびくつきながら乗せれば、耀一郞が勝手知ったるとばかりにパネルを操作した。電子音が一度高く鳴る。
「登録が済んだ。四二〇一を押してそこに手を乗せれば自由に出入りできる」
「……どうして、ですか?」
素直な疑問を投げかけた。こんな高そうなマンションにどうして自分が出入りしなければいけないのか理解できなかったが、胡乱な眼差しが向けられた。恐ろしさにまたビクリと肩が跳ね上がる。
「その頭に何が詰まってるんだ。なんのために教会に行ったかわかってるのか?」
冷たい言葉は容易に樟の心をナイフで刻む。
(そうだ……この人と『家族』になったんだ……)
なぜ自分なのかもわからないまま、婚姻届に名前を記載した。どんな思惑がそこに存在するのかを考え続けたが、情報を与えられない樟は答えを出せないままだ。
複数基あるエレベータの上層階専用の表示がされているパネルを押せば、すぐにチーンと高い音を立てて扉が開いた。乗り込んだ耀一郞が顎で乗るよう指示をする。怖いが、ここに立ったままにはいけないと樟もわかっていた。恐る恐る乗り込んで、すぐに耀一郞の斜め後ろに立つ。
ちまちまとした動きに耀一郞が鼻白み、目的階に着くと樟のことなど構わずに下りた。後を追いかけ、フロアに三戸ある中で一番奥の扉の前へとやってきた。これも指紋認証で扉が開いた。
「入れ」
「はい……」
想像したよりも中は広かった。広い玄関はL字型に曲がっており、突き当たりの扉はリビングに続いていた。耀一郞が最初に案内したのはそこではなく、折り曲がった途中にある扉の一つだった。
「ここがお前の部屋だ」
八畳はあろう部屋にはなにも置かれていなかった。クローゼットがあり、ベランダに出られる大きな窓からは燦々と陽光が注ぎ込んでいる。
「すごい……」
樟を感嘆させたのは、そこに広がる風景だ。東京湾を抱え込むようにしている両端までが、遮るものなく見渡せる。ふわふわと浮いている雲が近く、手を伸ばせば掴み取れるのではと思うほどだ。部屋の中を覗き込まれる心配もない。
「この部屋の前の扉がトイレと風呂だ。好きに使っていい。だが奥の扉は絶対に開けるな。わかったな」
「はい……」
ここだけで充分だ。
今日初めて目を輝かせ、気付かないままに笑顔が浮かぶ。
(父さんたちと離れて暮らすんだ!)
胸が跳ね、嬉しさを隠すことができなかった。
「ふん。次はこっちだ」
耀一郞はリビングへと促した。樟に宛がわれた部屋が四つも入るだろう広いリビングは、たくさんの本が並んだ大きな棚とダイニングテーブル、それにテレビがある。雑誌から飛び出してきたようにスタイリッシュだが、観葉植物といった無駄なものは何一つない。
すっきりとしているがよそよそしい部屋で何をすれば良いのか分からずに突っ立っていると、クレジットカードがダイニングテーブルの上に置かれた。
「家族カードだ。必要なものはこれで買え」
「……えっ、なんで……」
「私のことは気にするな……関わるな。オメガとこうして話すのですら穢らわしい。好きにしていいが妊娠はするな。絶対にだ。わかったな」
「は……い……」
妊娠と言われ、腹の底から沸き起こる不安に小さく震え始めた。
(この人はどこまで知っているんだろう……)
先程までの浮かれた気持ちが消え、頬が紅潮するほどに上がった血が引いていくのを感じる。
(ちゃんとしなきゃ……迷惑をかけないように……)
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