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本編1
02.冷たい家の中01
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目を瞑れば、じわりと熱が広がり涙が眼球を覆う感覚がやってくる。目が非常に疲れを訴えているのを感じ、耀一郞は目頭に力を入れて涙の分泌を促した。
ここは東京駅にほど近い、小野電機工業本社ビルの最上階だ。無機質な室内にはデスクが二つと書類のラックしかない。広々とした室内は重厚なデスクの後ろに大きな窓があり、東京湾までを一望できるが、夜の帳が垂らされた今、建ち並ぶビルの灯りばかりが宝石箱をぶちまけたように、目映く輝いている。
今の時期、ビルの下ではイルミネーションが瞬いているから尚更宝石と喩えるのが似合うだろう。
だが耀一郞がそれを見下ろすことはない。
あまりにも目が疲れて、見たいと思えないからだ。
「お疲れでございますね、社長。今日は早くに帰ってはいかがでしょうか」
親以上に年の離れた秘書の声が近くから聞こえてくる。
「いや、大丈夫です。師走の今、皆が忙しい。私だけが楽をするのはいかないでしょう」
「何を仰っているんですか。もう一週間も帰りが遅くなっておりますよ。樟様もご心配なさってることでしょう」
(……しょう? 誰だ、それは)
耀一郞は一瞬真顔になり秘書を見た。初めて会ったときよりもずっと薄くなった髪をした彼は笑顔を崩さない。
(関係者……のはずだが思い出せない。しょう……聞いたことがある名だな)
様付けで呼んでいるからには自分に近しいと理解しているが、ピンと来なくて少し困った笑みを浮かべた。そうすれば次のアクションを引き起こせると理解して。
「まだ新婚なのに社長がこれほど忙しくては寂しがっていることでしょうね」
「ああ……そうだな」
合点がいって、耀一郞は苦笑を深めた。
「社長が率先して発情休暇を取らなければ、社員に示しが付きませんよ」
「まだ就任したなので、今はそれどころではないです。年末商戦を勝ち抜くためにやらなければならないことがありますから」
「結婚すぐに社長就任と、この半年でいろいろありましたから」
労う言葉が重圧となって頑強な肩にのしかかる。これを一人で支えなければならないのが今の耀一郞の立場だ。
小野電機工業は家電業界トップ三に入る老舗メーカーである。祖父が立ち上げた会社を父が引き継ぎ、六月から耀一郞が社長に就任している。三代目としてのプレッシャーは大きく、成績を伸ばすのに躍起になっている。
なにせ社長を退いた父は、会長という肩書きで高みの見物をしつつ耀一郞の力量を見ている。この秘書も父の代から仕えており、耀一郞のサポートという名目で残ってくれているが、要はお目付役だ。耀一郞が何をしているのかを逐一父に報告する役割を担っているのだろう。
だからこそ、一瞬たりとも気を抜くことができない。
「発情休暇はもっと会社が落ち着いてからです。あれもそれを理解していますので」
心を通わせているから問題ない、と暗に告げれば、聡い秘書は笑みを深くした。
「さようでございましたか。老婆心でしたね。しかし、会長も夫人もお孫様を今か今かと楽しみにしておられますでしょう」
「そのようですね。私の所にも連絡が来ます……困ったものですよ」
「年寄りの唯一の楽しみでございます。私も孫がおりますが、目に入れても痛くないほど可愛いのですよ」
「そうですか。ですがまだ時期尚早です。まずは今年度の経常利益を黒字に転じさせなければなりません」
年末商戦が終われば、次にやってくるのは年度末。気を抜く暇はないのを秘書も理解しているはずだが、こうもしつこく言ってくるのは随分と急かされているとしか思えない。
耀一郞は身体の芯が一気に冷たくなり、あれほど疲弊していたはずの頭が冴えて動き始めた。
結婚を機に社長に就任した耀一郞の最たる役目は、子を儲けることだ。
父が結婚を条件に出したのは一年前。会社の業績が少しずつ右肩下がりになっているのを受け、苦言を呈した耀一郞を面白そうに見ながら「そんなに力量を発揮したいのなら、結婚くらいはしなければな」と言い放った。
このまま祖父が作り上げた会社が泥船になるのを目の当たりにしたくなかった耀一郞は、すぐに結婚相手の候補を探した。
アルファ女性はすぐに除外した。
アルファ同士では妊娠が難しく、多くが体外受精だ。それも何度も挑戦してやっと儲けるのが一般的だ。優秀な家系に他の血を入れるのを厭うアルファが多いためだろう。
だが耀一郞は自己主張の強いアルファ女性が嫌いだった。仕事にまで平気で口出しをし、己の有能性を見せつけようとするからだ。
そう、耀一郞の母親のように。子供を自己顕示欲の道具に使い、だからといって家庭を顧みることはしない。そんな家庭で育ったため、早々に選択肢から外した。
ベータ女性もまた、耀一郞の候補から漏れた。
理由は簡単だ、彼女らの成功の証になるのが癪だからだ。
人口の大部分を占めるベータは優劣の差が大きく、しかもアルファとの結婚が一種のステイタスとなっているところがある。アルファから求愛される創作物が古今東西に蔓延り、性差別撲滅が流行する現代になっても人気を博している。
ただ父を社長の椅子から下ろすためだけの結婚で選ぶにはリスキーだった。
耀一郞はこの結婚を長続きさせるつもりがないからだ。
圧倒的な力を見せつけ、会長の座からも引きずり下ろした暁には離婚をするつもりでいる。
選択肢は限られ、そして見つけたのが小野電機工業の下請け会社である菊池製作所の次男、樟だった。
オメガの中でも珍しい男性だ。
女よりも後腐れがないと決め、菊池社長に打診をすれば、条件も付けずに手放しで寄越してきた。
小野家と縁続きになり事業を拡大したいとの腹があるのは感じ取れたが、どうでもよかった。最適な結婚相手であるなら、充分だ。
ある一点を堪えれば。
それは、耀一郞のオメガ嫌いだ。
本当は言葉を交わすどころか視界に入れるのでさえ嫌悪している。
(平気で誰にでも足を開く連中に、どうして心を許せと言うんだ)
性的快楽が得られるのであれば容易に足を開くのがオメガ性だ。子種を欲し絶対的存在であるアルファを惑わす唯一の存在が許せず、撲滅しろとすら考えている。
それを配偶者に迎えたのは、離婚がしやすい、ただそれだけの理由だ。
(どうせ今頃、遊び歩いてる。帰らなかったところで、心配もしまい)
耀一郞が相手をしなければ、その身を慰めてくれる誰かと夜を共にしていることだろう。取引先の関係者を選んだのは、手間を掛けたくなかったからに過ぎない。
それを露骨に示さないのは、勘のいい父に悟られないため。耀一郞の計画に気付けば実の息子であっても絶対的権限で排除しようとするだろう。
そういう男だ、父は。
見初めて結婚したが、仕事にかまけている間に浮気をされたので離縁した。
このストーリーを成立させるためには、どれほど毛嫌いしていようともオメガでなければならない。股の緩い奴らであれば、発情期を乗り越えるために男を漁るに決まっている。
ここは東京駅にほど近い、小野電機工業本社ビルの最上階だ。無機質な室内にはデスクが二つと書類のラックしかない。広々とした室内は重厚なデスクの後ろに大きな窓があり、東京湾までを一望できるが、夜の帳が垂らされた今、建ち並ぶビルの灯りばかりが宝石箱をぶちまけたように、目映く輝いている。
今の時期、ビルの下ではイルミネーションが瞬いているから尚更宝石と喩えるのが似合うだろう。
だが耀一郞がそれを見下ろすことはない。
あまりにも目が疲れて、見たいと思えないからだ。
「お疲れでございますね、社長。今日は早くに帰ってはいかがでしょうか」
親以上に年の離れた秘書の声が近くから聞こえてくる。
「いや、大丈夫です。師走の今、皆が忙しい。私だけが楽をするのはいかないでしょう」
「何を仰っているんですか。もう一週間も帰りが遅くなっておりますよ。樟様もご心配なさってることでしょう」
(……しょう? 誰だ、それは)
耀一郞は一瞬真顔になり秘書を見た。初めて会ったときよりもずっと薄くなった髪をした彼は笑顔を崩さない。
(関係者……のはずだが思い出せない。しょう……聞いたことがある名だな)
様付けで呼んでいるからには自分に近しいと理解しているが、ピンと来なくて少し困った笑みを浮かべた。そうすれば次のアクションを引き起こせると理解して。
「まだ新婚なのに社長がこれほど忙しくては寂しがっていることでしょうね」
「ああ……そうだな」
合点がいって、耀一郞は苦笑を深めた。
「社長が率先して発情休暇を取らなければ、社員に示しが付きませんよ」
「まだ就任したなので、今はそれどころではないです。年末商戦を勝ち抜くためにやらなければならないことがありますから」
「結婚すぐに社長就任と、この半年でいろいろありましたから」
労う言葉が重圧となって頑強な肩にのしかかる。これを一人で支えなければならないのが今の耀一郞の立場だ。
小野電機工業は家電業界トップ三に入る老舗メーカーである。祖父が立ち上げた会社を父が引き継ぎ、六月から耀一郞が社長に就任している。三代目としてのプレッシャーは大きく、成績を伸ばすのに躍起になっている。
なにせ社長を退いた父は、会長という肩書きで高みの見物をしつつ耀一郞の力量を見ている。この秘書も父の代から仕えており、耀一郞のサポートという名目で残ってくれているが、要はお目付役だ。耀一郞が何をしているのかを逐一父に報告する役割を担っているのだろう。
だからこそ、一瞬たりとも気を抜くことができない。
「発情休暇はもっと会社が落ち着いてからです。あれもそれを理解していますので」
心を通わせているから問題ない、と暗に告げれば、聡い秘書は笑みを深くした。
「さようでございましたか。老婆心でしたね。しかし、会長も夫人もお孫様を今か今かと楽しみにしておられますでしょう」
「そのようですね。私の所にも連絡が来ます……困ったものですよ」
「年寄りの唯一の楽しみでございます。私も孫がおりますが、目に入れても痛くないほど可愛いのですよ」
「そうですか。ですがまだ時期尚早です。まずは今年度の経常利益を黒字に転じさせなければなりません」
年末商戦が終われば、次にやってくるのは年度末。気を抜く暇はないのを秘書も理解しているはずだが、こうもしつこく言ってくるのは随分と急かされているとしか思えない。
耀一郞は身体の芯が一気に冷たくなり、あれほど疲弊していたはずの頭が冴えて動き始めた。
結婚を機に社長に就任した耀一郞の最たる役目は、子を儲けることだ。
父が結婚を条件に出したのは一年前。会社の業績が少しずつ右肩下がりになっているのを受け、苦言を呈した耀一郞を面白そうに見ながら「そんなに力量を発揮したいのなら、結婚くらいはしなければな」と言い放った。
このまま祖父が作り上げた会社が泥船になるのを目の当たりにしたくなかった耀一郞は、すぐに結婚相手の候補を探した。
アルファ女性はすぐに除外した。
アルファ同士では妊娠が難しく、多くが体外受精だ。それも何度も挑戦してやっと儲けるのが一般的だ。優秀な家系に他の血を入れるのを厭うアルファが多いためだろう。
だが耀一郞は自己主張の強いアルファ女性が嫌いだった。仕事にまで平気で口出しをし、己の有能性を見せつけようとするからだ。
そう、耀一郞の母親のように。子供を自己顕示欲の道具に使い、だからといって家庭を顧みることはしない。そんな家庭で育ったため、早々に選択肢から外した。
ベータ女性もまた、耀一郞の候補から漏れた。
理由は簡単だ、彼女らの成功の証になるのが癪だからだ。
人口の大部分を占めるベータは優劣の差が大きく、しかもアルファとの結婚が一種のステイタスとなっているところがある。アルファから求愛される創作物が古今東西に蔓延り、性差別撲滅が流行する現代になっても人気を博している。
ただ父を社長の椅子から下ろすためだけの結婚で選ぶにはリスキーだった。
耀一郞はこの結婚を長続きさせるつもりがないからだ。
圧倒的な力を見せつけ、会長の座からも引きずり下ろした暁には離婚をするつもりでいる。
選択肢は限られ、そして見つけたのが小野電機工業の下請け会社である菊池製作所の次男、樟だった。
オメガの中でも珍しい男性だ。
女よりも後腐れがないと決め、菊池社長に打診をすれば、条件も付けずに手放しで寄越してきた。
小野家と縁続きになり事業を拡大したいとの腹があるのは感じ取れたが、どうでもよかった。最適な結婚相手であるなら、充分だ。
ある一点を堪えれば。
それは、耀一郞のオメガ嫌いだ。
本当は言葉を交わすどころか視界に入れるのでさえ嫌悪している。
(平気で誰にでも足を開く連中に、どうして心を許せと言うんだ)
性的快楽が得られるのであれば容易に足を開くのがオメガ性だ。子種を欲し絶対的存在であるアルファを惑わす唯一の存在が許せず、撲滅しろとすら考えている。
それを配偶者に迎えたのは、離婚がしやすい、ただそれだけの理由だ。
(どうせ今頃、遊び歩いてる。帰らなかったところで、心配もしまい)
耀一郞が相手をしなければ、その身を慰めてくれる誰かと夜を共にしていることだろう。取引先の関係者を選んだのは、手間を掛けたくなかったからに過ぎない。
それを露骨に示さないのは、勘のいい父に悟られないため。耀一郞の計画に気付けば実の息子であっても絶対的権限で排除しようとするだろう。
そういう男だ、父は。
見初めて結婚したが、仕事にかまけている間に浮気をされたので離縁した。
このストーリーを成立させるためには、どれほど毛嫌いしていようともオメガでなければならない。股の緩い奴らであれば、発情期を乗り越えるために男を漁るに決まっている。
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