【書籍化進行中】不遇オメガと傲慢アルファの強引な結婚

椎名サクラ

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本編1

04.優しい空間01

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 目が覚めたとき、視界は真っ白で自分は天国に来たんだと思ったが、ゆっくりと脳に届く電子音に愕然とした。
 首を巡らして周囲を見て、唇を噛んだ。ギュッと拳を握る。
 真っ白い天井に壁。柔らかい木の質感を残す機能的なラックにシステマチックな昇降式サイドテーブル。自分がいたマンションの一室ではないと知り、点滴が吊されたイルリガートルスタンドでここが病院だと理解した。

(迷惑を……かけちゃった……)

 誰がここに連れてきてくれたかを瞬時に察して、落ち込んだ。耀一郞から嫌われているのに、病気になったのを知られたら怒られてしまうと伏せていたが、結果的には彼の手を煩わせてしまった。

(怒られる……よね)

 病気をすれば殴られる。それが菊池の家だった。
 誰にでもない、樟にだけだ。
 ゆっくりと目を閉じた。じわりと眼球が熱くなり涙が出る前兆に慌てて散らそうとしたが上手くいかない。
 生まれてからずっと虐げられたのではない。小さい頃はそれこそ大事にされていた。将来は兄と一緒に父の会社を支えるんだと張り切る樟に、両親も兄も嬉しそうに笑い、大きな手で頭を撫でてくれた。
 変わったのは、小学校高学年の時に受けた第二性バース診断の結果が出た後だ。

 ――オメガ。

 人類の中で一パーセントいるかないかの劣等性。両親は怒り、父は母を激しく責めた。叱責された母は樟を叩き、兄は汚いものを見るような目を向け始めた。
 その日から食卓には樟の食事は用意されなくなり、椅子で小さく丸まっているしかなく、けれど毎回食事の席に着くことを強要された。空腹に、美味しそうな料理を当たり前に食べる家族が羨ましかった。けれど自分はその中に入れないのだとまざまざと見せつけられる。
 憐れんだ家政婦がこっそりとおにぎりを部屋に用意してくれなかったら、樟は今頃死んでいただろう。

 始めはそれだけだったが次第に家族の態度はひどくなり、苛立つことがあればすべてを樟にぶつけた。罵声を浴びるのが当たり前で、理由を付けては殴られた。服に隠れている部分はいつも痣だらけで、けれどしょうがないと思った。
 樟がオメガでなければ両親も兄もこんな事はしない。樟がオメガだったから……人間の出来損ないだったから怒るんだ。
 いつしか自分を憐れむことに疲れた樟は、ただあるがままを受け入れた。
 だって、オメガだった樟がすべて悪いのだから。

 けれど辛くないわけじゃない。
 毎日死んでしまいたいと思った。外聞を気にする父たちはそれを許さないとわかっていて、ただ静かに生きていくしかない。
 耀一郞から結婚の話が来たとき、正直嬉しかった。この家から解放されるのだと。同時にそこでどんな扱いを受けるのか不安になった。
 案の定、耀一郞は恐ろしいほどに冷たい視線を向けてきたが、あの家はとても心地が良かった。

「帰りたいな……あそこに」

 自由があった。
 なにをしても怒られなかった。
 ご飯を食べて貰えなかったのは悲しいが、自分の好きなことができた。
 けれど、耀一郞は許してくれるだろうか。
 迷惑をかけたらいらないと、家に帰されてしまうだろうか。
 嘆息と共に涙が一粒零れ落ちる。
 それを慌てて拭おうとしてピーッと凄まじい電子音が鳴った。

「あっ……どうしよう!」

 点滴が外れたのをセンサーが感知したのだ。起き上がろうとして、僅かに上がった身体はすぐに硬い病院のベッドに戻される。

「小野さん、どうされましたか? ああ、点滴が外れたんですね、大丈夫ですか?」

 入ってきたのは優しそうな年配の看護師だった。笑みを湛えたままイルリガートルスタンドを近づけ「痛かったでしょう」と点滴の針が刺さった左手を見始める。

「ごめんなさいっ、あの……なにか壊してませんか?」
「心配しないでください。良かった、運ばれてから一週間も意識がなかったんですよ」
「……一週間も!?」

 そんなに寝ていたらどれだけの治療費になるだろう。怖くて震えてる樟に看護師は笑いかけてくれた。

「今は何も考えずにゆっくり休んでください。辛いところはありませんか? 何でも言ってくださいね」
「……すみません…………」

 謝るばかりの樟に、看護師は変わらない笑みを向け続けてくれる。こんな風に笑いかけられたのはいつぶりだろうか。二人きりの時だけ優しかった家政婦のことを思い出す。

「すぐに医師せんせいを呼びますね。辛かったら寝て大丈夫ですから」

 トントンと掌を叩いて、その看護師は病室を出て行った。
 嫌な顔を、されなかった。安堵して今度は反対の手で涙の名残を拭う。入院なんて初めてで、恐怖ばかりに埋め尽くされた心が少しだけ溶ける。
 もしかしたらここは優しい場所なのではないかと、僅かな期待は……すぐに樟本人に打ち消された。

(そんなはずない……だって父さんも母さんも……)

 だから期待しちゃ駄目だ。
 自分に言い聞かせて、医師が来るその瞬間を待った。
 けれど現れた医師は優しかった。

「初めまして、担当医の井ノ瀬いのせです。ご自分の名前はわかりますか?」

 柔和な笑みの奥に蔑む色がなかった。

「はい……き……くち、樟……です」

 井ノ瀬は一瞬驚き、けれどまたあの笑みに戻る。

「はい、ありがとうございます。気分はどうですか? 辛かったり痛かったりする所はないですか?」
「あの……いつ退院できますか?」
「……焦らなくても大丈夫です。菊池さんは肺炎で運ばれました。まだ肺の中に水が残ってますので、それがならないと退院はできないんですよ」
「そ……ですか……」

 肩を落とすと、井ノ瀬が優しく頭を撫でてくれた。

「安心してください。ご家族も完治を望んでいます。今は治療に専念しましょう。しばらくは点滴から栄養を入れるので食事はありませんが、食べられるようになったら流動食から始めましょうね」

 子供にするように、目を見て微笑みかけてくる。手は優しくて、まるで小さい頃に父にして貰ったときのようだ。

「はい……」

 返事をして布団をたくし上げた。
 嬉しい顔をして怒られないか怖いけれど、表情が緩むのを止められない。こんなにも優しくして貰ったのは本当に久しぶりで、心が擽ったい。それがこの人たちの仕事だとわかっていても、疲弊しきった心が柔らかく受け止めてくれるほうへと靡いていく。
 三十分ほど起きていただけなのに、井ノ瀬が病室から出るともう目が開けられなくなった。
 窓から差し込んでくる冬の柔らかい日差しが心地よい。
 夢うつつを行き来しながらゆっくりと深い眠りの縁に足を浸けようとしたとき、誰かが頬を、髪を撫でた――ように思えた。

(昔のこと、思い出したからかな)

 優しかった頃の家族は、末っ子の樟をよく撫でてくれた。生まれてきてくれてありがとうと何度も伝えてくれた。どこにでもある温かい家庭。けれど今は見えない壁の向こうの風景。もう二度と手に入らない温かい家庭の残像は、時折夢に出てきて、残酷な現実に打ち拉がれる樟を嘲笑う。
 けれど、大きくて温かい手の感触は心地よくて、子供の頃のように顔を押しつけた。このまま離れていかないように両手で握り込みたかったけれど、鉛が埋まったかのような重さで動かない。そのうち離れていったのが悲しかった。

(幸せってどうして、いつもどっか行っちゃうんだろう)

 決して樟の傍に留まってはくれない。
 引き留める力がないまま、去って行くのを見送るしかないのが辛くて見ないようにするしかなかった。離れていく体温に縋らず、残った温かい思い出だけを抱き締めて自分の殻に籠もった。
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