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本編1
04.優しい空間02
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「初めまして、医師の安井です。樟さんと色々とお話ができたらと思ってます、よろしくお願いします」
そう声をかけてくれたのは初めて見る医師だ。
目を覚ましてから一週間が経った平日の午後。
主治医の井ノ瀬以外の医師が来るのは初めてだった。ひょろりとした背の高い医師はだぶだぶの白衣を身につけ、病室にある丸いパイプ椅子に窮屈そうに腰を下ろす。
「ぁ……こちらこそ、よろしくお願いします」
ネックホルダーには「第二性医療内科医」と記載されているが、どんな病気の治療なのか樟にはわからず、戸惑いながら頭を下げた。安井は井ノ瀬と同じように穏やかな笑みを湛えたまま、静かに樟を見るばかりだ。
意図が掴めず、挨拶の次に何を話せばいいかわからなくて口を噤む。静かにしていれば怒られないから。
安井は、分厚い眼鏡の向こうから樟を見つめ、僅かに目が合うとふわりと笑った。
「樟さん、とお呼びをしてもいいですか?」
「はい……あの、僕は何を話せばいいんでしょうか」
「小学校で僕は体育が好きでよく鉄棒をやってたんですよ」
安井は鉄棒から落ちて骨折した話を始めた。突然のことで唖然として、けれど話し方が面白くてどんどんとのめり込んでいく。そして少しずつ……まだ幸せだった小学校の頃の自分が好きだった教科、あった出来事を樟も話し始める。交互に話すのではなく会話で、誰かと長時間話すのが久しぶりで楽しくて、気がつけば二時間も話してしまった。
「すみません、体調が辛い所を長い時間お邪魔してしまって」
「いえ。僕も長く話し込んでしまって……忙しいのにごめんなさい」
医師が多忙なのはわかる。井ノ瀬は凄く優しくしてくれるが、それでも病室にいられるのは僅かな時間のようだ。すぐに電話が鳴り、忙しなく病室を出る。それは看護師も同じで、総合病院のスタッフはこんなにも忙しいんだと驚いた。病気をしても病院に来ることがなかったので本当にビックリした。オメガだとわかってから、こんなに長い時間を誰かと話したことはない。
笑顔で安井が病室を出た後、楽しい気持ちだけが残った。
「病院っていいな……ずっとここにいられないかな」
無理とわかっていて独り言が飛び出す。
患者用のバンドにしっかりと『オメガ』と記載されているのに、蔑む人は誰もいない。こんな天国のような場所を一度でも知ってしまったら、家に帰るのが怖くなる。
樟は布団に潜り込んでアッパーシーツを引き上げた。
(怖い……耀一郞さんはきっと怒ってる……、井ノ瀬医師は『家族が望んでる』って言ってたけど、きっと嘘だ。だって……)
怒っていないのなら見舞いに来るだろうが、耀一郞は一度として樟の病室に来ない。
呆れたに決まっている。
耀一郞の、精悍だが恐ろしい顔を思い出すだけで背筋が凍りそうになる。見下ろされると、怖くてなにも言えなくなるのだ。結婚式の時に向けられた冷たい眼差しが頭から離れない。
血を轟かすような声まで思い出しそうになって慌てて首を振った。
格好いいが誰よりも恐ろしいあの人が、樟の配偶者だ。彼の機嫌を損ねたらきっと、父も兄も容赦なく樟を折檻するだろう。
「……帰りたくないな」
ずっとここにいたい。
けれど叶わない、どんなに願っても。
それから毎日、安井は樟の病室にやってきては色んな話をした。樟が話し出すと嬉しそうに笑い、相づちを打った。なに一つ否定しないので次第に辛かった日々の哀しみまで吐露した。
「そう。よく頑張りましたね。オメガに生まれたことはなにも悪くないんです。だって、オメガは愛されるためにある性なんですから」
オメガと診断されてからの日々を口にすると、安井はそう言った。
「愛される……性?」
「そう。僕の配偶者も、オメガなんです。彼を見ていると、たまらない気持ちになります。発情期だって、ただ一人に愛されるためにあるんだと思うんです。それが僕のためだと思うと愛おしさが募ります」
そう……なのだろうか。
「安井医師はオメガを配偶者にしたことを後悔しませんか? だって僕たちは……人類の恥だって言われてます。産まれたことすら否定されているような気になるんです」
ずっと浴びせられる罵倒。人間扱いしてやってるだけでも有り難く思えと言われ続ければ、どんなに頑強な心の持ち主だって疲弊する。元から気概の薄い樟はあっという間に壊れてしまった。
期待しないことが当たり前で、期待して余計に心をすり減らすならば、石のように何も感じず何も思わない方がずっといい。
「愛される性」なんて言われてもピンとこない。
「僕は無神論者ですけど、オメガに関してだけは神様が特別に作った存在だと思うんですよ。でなければ君たちの特性の説明が付きません」
樟にはオメガの特性がよくわからなかった。
もしかしたら、他のオメガは安井の言うように愛されるためにあるのかもしれない。
(でも、オメガにも意味があるなら、それは良かった)
それに、樟は当てはまらないだろう。
無理に笑みを浮かべて、泣きそうになるのを誤魔化す。両手をギュッと握り込み、手の甲に爪を立てる。
「本当にオメガに意味があるなら……僕たちにも生きる意味があるなら……いいな。皆がそう思ってくれたら……」
どんなに幸せだろう。
「ありがとうございます、安井医師。そう言って貰っただけで、心が少し軽くなりました」
笑顔を向ければ、安井はいつもの笑みを浮かべたままだが何も言わない。
「樟さんは……なにが辛いんですか?」
初めて安井が質問をしてきた。今まで樟が喋るのをただ聞いてきただけなのに。
「なんだろう。悲しいって思うことはたくさんありますけど、辛いことってどんなことだろう……」
上手く言えなくて落ち込む。俯いて顔を隠して、自分の感情もこっそりと隠す。
安井がその仕草をじっと見つめているとも知らずに。
「辛いことでも話せば心が楽になったりするんですよ。誰かに話したくなったら溜め込まないで吐き出してしまいましょう。その相手が僕だと嬉しいです」
「……安井医師は優しいです……ううん、この病院の皆さんはとても優しくて……辛いことがあるなら、優しくされた後に失望されることです。僕が本当のオメガだったらこんな気持ちにならないのかもしれないけど、中途半端だから……」
安井は目を見開き、今までとは違う視点で樟を見つめるが、医師の僅かな違いに気付くはずもない。
「僕は樟さんと話すのがとても楽しいですよ。また明日も話を聞かせてくれると嬉しいです」
「はい……」
きっとこれで安井は樟に呆れただろう。希望を持たせようと思って伝えた言葉が響かなければ、誰も失望する。
ぺこりと頭を下げれば、いつものように安井の骨張った手が頭を撫でてくれた。この瞬間だけ自分が子供の頃に戻ったような気持ちになる。
扉が閉まって、いつものようにベッドに潜り込む。
(本当にオメガは愛される性なのかな……誰か僕のことも愛してくれるのかな……)
そうだったらどんなにいいだろう。
けれど無理だ。
例え愛して貰ったところで、離婚されない限りは樟は耀一郞の配偶者で、その間は相手の気持ちに応えることはできない。
離婚になったら……実家に返されて会うことができないだろう。
どんなに気持ちを寄せられたところで、相手の想いに樟は報いることはできないのだ。
ならば、最初からなければいい。
今までと同じように諦めればいいだけの話だ。
期待するなと自分に言い聞かせて、会話で疲れた身体を眠りに委ねた。
そう声をかけてくれたのは初めて見る医師だ。
目を覚ましてから一週間が経った平日の午後。
主治医の井ノ瀬以外の医師が来るのは初めてだった。ひょろりとした背の高い医師はだぶだぶの白衣を身につけ、病室にある丸いパイプ椅子に窮屈そうに腰を下ろす。
「ぁ……こちらこそ、よろしくお願いします」
ネックホルダーには「第二性医療内科医」と記載されているが、どんな病気の治療なのか樟にはわからず、戸惑いながら頭を下げた。安井は井ノ瀬と同じように穏やかな笑みを湛えたまま、静かに樟を見るばかりだ。
意図が掴めず、挨拶の次に何を話せばいいかわからなくて口を噤む。静かにしていれば怒られないから。
安井は、分厚い眼鏡の向こうから樟を見つめ、僅かに目が合うとふわりと笑った。
「樟さん、とお呼びをしてもいいですか?」
「はい……あの、僕は何を話せばいいんでしょうか」
「小学校で僕は体育が好きでよく鉄棒をやってたんですよ」
安井は鉄棒から落ちて骨折した話を始めた。突然のことで唖然として、けれど話し方が面白くてどんどんとのめり込んでいく。そして少しずつ……まだ幸せだった小学校の頃の自分が好きだった教科、あった出来事を樟も話し始める。交互に話すのではなく会話で、誰かと長時間話すのが久しぶりで楽しくて、気がつけば二時間も話してしまった。
「すみません、体調が辛い所を長い時間お邪魔してしまって」
「いえ。僕も長く話し込んでしまって……忙しいのにごめんなさい」
医師が多忙なのはわかる。井ノ瀬は凄く優しくしてくれるが、それでも病室にいられるのは僅かな時間のようだ。すぐに電話が鳴り、忙しなく病室を出る。それは看護師も同じで、総合病院のスタッフはこんなにも忙しいんだと驚いた。病気をしても病院に来ることがなかったので本当にビックリした。オメガだとわかってから、こんなに長い時間を誰かと話したことはない。
笑顔で安井が病室を出た後、楽しい気持ちだけが残った。
「病院っていいな……ずっとここにいられないかな」
無理とわかっていて独り言が飛び出す。
患者用のバンドにしっかりと『オメガ』と記載されているのに、蔑む人は誰もいない。こんな天国のような場所を一度でも知ってしまったら、家に帰るのが怖くなる。
樟は布団に潜り込んでアッパーシーツを引き上げた。
(怖い……耀一郞さんはきっと怒ってる……、井ノ瀬医師は『家族が望んでる』って言ってたけど、きっと嘘だ。だって……)
怒っていないのなら見舞いに来るだろうが、耀一郞は一度として樟の病室に来ない。
呆れたに決まっている。
耀一郞の、精悍だが恐ろしい顔を思い出すだけで背筋が凍りそうになる。見下ろされると、怖くてなにも言えなくなるのだ。結婚式の時に向けられた冷たい眼差しが頭から離れない。
血を轟かすような声まで思い出しそうになって慌てて首を振った。
格好いいが誰よりも恐ろしいあの人が、樟の配偶者だ。彼の機嫌を損ねたらきっと、父も兄も容赦なく樟を折檻するだろう。
「……帰りたくないな」
ずっとここにいたい。
けれど叶わない、どんなに願っても。
それから毎日、安井は樟の病室にやってきては色んな話をした。樟が話し出すと嬉しそうに笑い、相づちを打った。なに一つ否定しないので次第に辛かった日々の哀しみまで吐露した。
「そう。よく頑張りましたね。オメガに生まれたことはなにも悪くないんです。だって、オメガは愛されるためにある性なんですから」
オメガと診断されてからの日々を口にすると、安井はそう言った。
「愛される……性?」
「そう。僕の配偶者も、オメガなんです。彼を見ていると、たまらない気持ちになります。発情期だって、ただ一人に愛されるためにあるんだと思うんです。それが僕のためだと思うと愛おしさが募ります」
そう……なのだろうか。
「安井医師はオメガを配偶者にしたことを後悔しませんか? だって僕たちは……人類の恥だって言われてます。産まれたことすら否定されているような気になるんです」
ずっと浴びせられる罵倒。人間扱いしてやってるだけでも有り難く思えと言われ続ければ、どんなに頑強な心の持ち主だって疲弊する。元から気概の薄い樟はあっという間に壊れてしまった。
期待しないことが当たり前で、期待して余計に心をすり減らすならば、石のように何も感じず何も思わない方がずっといい。
「愛される性」なんて言われてもピンとこない。
「僕は無神論者ですけど、オメガに関してだけは神様が特別に作った存在だと思うんですよ。でなければ君たちの特性の説明が付きません」
樟にはオメガの特性がよくわからなかった。
もしかしたら、他のオメガは安井の言うように愛されるためにあるのかもしれない。
(でも、オメガにも意味があるなら、それは良かった)
それに、樟は当てはまらないだろう。
無理に笑みを浮かべて、泣きそうになるのを誤魔化す。両手をギュッと握り込み、手の甲に爪を立てる。
「本当にオメガに意味があるなら……僕たちにも生きる意味があるなら……いいな。皆がそう思ってくれたら……」
どんなに幸せだろう。
「ありがとうございます、安井医師。そう言って貰っただけで、心が少し軽くなりました」
笑顔を向ければ、安井はいつもの笑みを浮かべたままだが何も言わない。
「樟さんは……なにが辛いんですか?」
初めて安井が質問をしてきた。今まで樟が喋るのをただ聞いてきただけなのに。
「なんだろう。悲しいって思うことはたくさんありますけど、辛いことってどんなことだろう……」
上手く言えなくて落ち込む。俯いて顔を隠して、自分の感情もこっそりと隠す。
安井がその仕草をじっと見つめているとも知らずに。
「辛いことでも話せば心が楽になったりするんですよ。誰かに話したくなったら溜め込まないで吐き出してしまいましょう。その相手が僕だと嬉しいです」
「……安井医師は優しいです……ううん、この病院の皆さんはとても優しくて……辛いことがあるなら、優しくされた後に失望されることです。僕が本当のオメガだったらこんな気持ちにならないのかもしれないけど、中途半端だから……」
安井は目を見開き、今までとは違う視点で樟を見つめるが、医師の僅かな違いに気付くはずもない。
「僕は樟さんと話すのがとても楽しいですよ。また明日も話を聞かせてくれると嬉しいです」
「はい……」
きっとこれで安井は樟に呆れただろう。希望を持たせようと思って伝えた言葉が響かなければ、誰も失望する。
ぺこりと頭を下げれば、いつものように安井の骨張った手が頭を撫でてくれた。この瞬間だけ自分が子供の頃に戻ったような気持ちになる。
扉が閉まって、いつものようにベッドに潜り込む。
(本当にオメガは愛される性なのかな……誰か僕のことも愛してくれるのかな……)
そうだったらどんなにいいだろう。
けれど無理だ。
例え愛して貰ったところで、離婚されない限りは樟は耀一郞の配偶者で、その間は相手の気持ちに応えることはできない。
離婚になったら……実家に返されて会うことができないだろう。
どんなに気持ちを寄せられたところで、相手の想いに樟は報いることはできないのだ。
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今までと同じように諦めればいいだけの話だ。
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