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本編1
05.美味しいご飯01
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心地よい病院での生活は、いつか終わりがやってくる。
目を覚ましてから一ヶ月で井ノ瀬が笑顔で退院を言い渡した。
「えっ……退院……ですか?」
「はい。菊池さんは患者としてとても優等生でしたので、俺の想像よりもずっと早くに完治しましたよ」
最初に会った時と変わらない柔和な笑みで告げる主治医の顔を縋るように見た。
(退院したくないです……って言ったらやっぱり迷惑だよね……だめだよね……)
でも本音は退院をしたくない。
小野の家にも菊池の家にも帰りたくないのだ。
ここでそんなわがままを言ったら、今まで優しくしてくれた井ノ瀬に迷惑をかけてしまう。奥歯をグッと噛み締め、樟は頭を下げた。
「医師のおかげです、ありがとうございます」
通り一辺倒の挨拶をして、井ノ瀬が病室を出るのを待って退院の支度をした。
といっても、荷物なんてほとんどない。
身一つで運ばれたから、病院の小さなクローゼットの中にある服を着たら終了だ。その段になって財布がないことに気付いた。ちょっとした買い物は手首に付けられた患者用のバンドに付いたバーコードをスキャンして購入ができるシステムだったので、自分が財布を持っていないことに気付かなかった。
「どうしよう……えっと貯金っていくらあったっけ」
思い出そうとして、忘れてしまっていた悲しい事実まで一緒に思い出してしまった。
(そうだ。おじいちゃんから貰ったお金……兄さんに取り上げられたんだ)
小野の家の人間になるなら必要ないだろうと、蔑んだ目で祖父から渡された結婚祝いの袋も譲られた土地の権利書も奪い取られたのだ。
銀行に預けている金もきっと、兄が引き出してしまっただろう。
(分割にして貰って、アルバイトで返すってできるのかな?)
恥ずかしいという理由で今まで一度としてアルバイトをしたことはないが、支払い関係だけはちゃんとしておかなければ。
樟は用意を終えると名残惜しいと病室を見つめた。一ヶ月ではあったが幸せな時間をくれた場所は、無機質で殺風景だが暖かな日差しが差し込んで、花一つなかったけれど愛おしさが残った。
ペコリと頭を下げてから手ぶらのままナースステーションへと向かった。
「すみません」
声をかければ顔なじみになった看護師がすぐにやってきた。
「退院おめでとうございます、どうしましたか?」
「入院費なんですけど、いくらになりますか? あのっ、分割で支払うことってできますか?」
「気になりますよね。ちょっと待ってください」
高額だったらどうしよう。心許ないまま訊ねると看護師はすぐに端末の操作を始めた。看護師の笑顔が消えた。その様子に樟はビクリと跳ね、震える手を胸の前で強く握り込んだ。
そんなにも高額になったのだろうか。
どれほどアルバイトをすればいいんだろう。それとも最初に祖父母に借りて、少しずつ返せばいいのだろうか。
ずっと家に閉じ込められて社会のシステムをよく知らない樟は、不安を膨らませて看護師の次の言葉を待った。
「菊池さんの入院費は精算が終わってますよ」
看護師が覗き込むようにして笑った。
「え……、あの、本当ですか?」
「はい。システム上ではお支払いが完了してます」
どういうことなのだろう。
誰が支払ったのかを聞こうとしたその時。
「おい」
血を轟かすような声が背中にぶつかった。
ビクリとまた跳ね上がり、恐る恐る後ろを見て、身体を強張らせた。
「あ……」
耀一郞だった。ビクビクする樟を見て一瞬目を見開いたが、いつものように目を細め、ぶっきらぼうな声を発した。
「帰るぞ」
命令するのに慣れた口調に樟は小さく頷いて、その後ろに従った。まるで結婚式の時のようだ。教会を出るとき、この人が怖くて怖くてしょうがなかった。隣に立つ勇気がなくて少し後ろに続いたが、あの時の恐怖が思い出されて、エレベータでも顔を見ることができず俯き続けた。
到着したのは、病院の車寄せだった。
介護タクシーや高齢者入居施設の名前がデカデカと書かれたワンボックスカーが並んでいる中、異質なほど黒光りした国産車が駐まっていた。
耀一郞の姿を確かめると運転手が出てきて、すぐに後部席の扉が開けられる。
「乗れ」
振り返った耀一郞はまた命令してきた。すべてが怖くて、もっとここにいたかったと強く思い見上げた。自分がどこに入院していたかも知らなかった樟は、デカデカと書かれてある病院名を頭に刻み込んでから、ゆっくりと――なにかに抗うように時間を掛けて――車に乗り込んだ。すぐさま隣に耀一郞が乗り、扉が閉まるとすぐに出発した。
足と腕を組む耀一郞は変わらず威圧感を発して話しかける隙がない。
配偶者の義務として迎えに来ただけだと言わんばかりの高圧的な態度に、樟は身体を縮込ませるしかできなかった。きっと手間と迷惑をかけたことを怒っているに違いない。
入院費の支払いもきっと耀一郞がしてくれたのだろう。
(お礼を言ってお詫びをして……それで怒られないかな……殴られないかな)
入院費用を返すと言えばいいのだろうかと頭を巡らせていると、すぐに車は停まった。あの高層マンションのエントランスだ。
こんなにも近かったんだと驚き、促されてそろそろと、こわごわと車から出てまた耀一郞に付き従った。
あの高層階の部屋のリビングに辿り着くと、耀一郞は「座れ」とダイニングの椅子を指した。
「はい……」
これから説教が始まるのだろうか。高い背もたれに背中を預けるのが怖くて前のめりになりそうな程俯く。
樟の様子を見て耀一郞はアイランドキッチンに立った。
なにかを用意して、それから「うっ」とか「くそっ」と四苦八苦する声が聞こえる。
(どうしたんだろう……)
顔を上げると大きな身体が何か作業をしているようだった。
怒っているような顔で手元を見ては時折睨み付けている。整った面が歪むたびに鬼のような形相になる。
(もしかしたら耀一郞さんってもともと怖い顔をしているのかな?)
僅かに眉間に皺を寄せただけでとても怒っているように見える。彼はとても困っているようで、手を貸した方がいいのだろうかと立ち上がると、すぐに気付かれた。
「お前は座っていろっ」
「はい」
すぐさま腰を下ろし、また前のめりになるくらい俯いた。低い声も怖い顔も樟を怯えさせるに充分だった。
じっとしていると、樟の前でカタンと音がした。
「食え」
顔を上げると、真白い皿が置かれ、そこには歪な形の異様に大きなおにぎりとおぼしきものが鎮座していた。三角にするつもりの苦戦の後が刻まれた歪な形をしており、具材ははみ出して、巻いた海苔はべっとりと水を含んでいる。
目を覚ましてから一ヶ月で井ノ瀬が笑顔で退院を言い渡した。
「えっ……退院……ですか?」
「はい。菊池さんは患者としてとても優等生でしたので、俺の想像よりもずっと早くに完治しましたよ」
最初に会った時と変わらない柔和な笑みで告げる主治医の顔を縋るように見た。
(退院したくないです……って言ったらやっぱり迷惑だよね……だめだよね……)
でも本音は退院をしたくない。
小野の家にも菊池の家にも帰りたくないのだ。
ここでそんなわがままを言ったら、今まで優しくしてくれた井ノ瀬に迷惑をかけてしまう。奥歯をグッと噛み締め、樟は頭を下げた。
「医師のおかげです、ありがとうございます」
通り一辺倒の挨拶をして、井ノ瀬が病室を出るのを待って退院の支度をした。
といっても、荷物なんてほとんどない。
身一つで運ばれたから、病院の小さなクローゼットの中にある服を着たら終了だ。その段になって財布がないことに気付いた。ちょっとした買い物は手首に付けられた患者用のバンドに付いたバーコードをスキャンして購入ができるシステムだったので、自分が財布を持っていないことに気付かなかった。
「どうしよう……えっと貯金っていくらあったっけ」
思い出そうとして、忘れてしまっていた悲しい事実まで一緒に思い出してしまった。
(そうだ。おじいちゃんから貰ったお金……兄さんに取り上げられたんだ)
小野の家の人間になるなら必要ないだろうと、蔑んだ目で祖父から渡された結婚祝いの袋も譲られた土地の権利書も奪い取られたのだ。
銀行に預けている金もきっと、兄が引き出してしまっただろう。
(分割にして貰って、アルバイトで返すってできるのかな?)
恥ずかしいという理由で今まで一度としてアルバイトをしたことはないが、支払い関係だけはちゃんとしておかなければ。
樟は用意を終えると名残惜しいと病室を見つめた。一ヶ月ではあったが幸せな時間をくれた場所は、無機質で殺風景だが暖かな日差しが差し込んで、花一つなかったけれど愛おしさが残った。
ペコリと頭を下げてから手ぶらのままナースステーションへと向かった。
「すみません」
声をかければ顔なじみになった看護師がすぐにやってきた。
「退院おめでとうございます、どうしましたか?」
「入院費なんですけど、いくらになりますか? あのっ、分割で支払うことってできますか?」
「気になりますよね。ちょっと待ってください」
高額だったらどうしよう。心許ないまま訊ねると看護師はすぐに端末の操作を始めた。看護師の笑顔が消えた。その様子に樟はビクリと跳ね、震える手を胸の前で強く握り込んだ。
そんなにも高額になったのだろうか。
どれほどアルバイトをすればいいんだろう。それとも最初に祖父母に借りて、少しずつ返せばいいのだろうか。
ずっと家に閉じ込められて社会のシステムをよく知らない樟は、不安を膨らませて看護師の次の言葉を待った。
「菊池さんの入院費は精算が終わってますよ」
看護師が覗き込むようにして笑った。
「え……、あの、本当ですか?」
「はい。システム上ではお支払いが完了してます」
どういうことなのだろう。
誰が支払ったのかを聞こうとしたその時。
「おい」
血を轟かすような声が背中にぶつかった。
ビクリとまた跳ね上がり、恐る恐る後ろを見て、身体を強張らせた。
「あ……」
耀一郞だった。ビクビクする樟を見て一瞬目を見開いたが、いつものように目を細め、ぶっきらぼうな声を発した。
「帰るぞ」
命令するのに慣れた口調に樟は小さく頷いて、その後ろに従った。まるで結婚式の時のようだ。教会を出るとき、この人が怖くて怖くてしょうがなかった。隣に立つ勇気がなくて少し後ろに続いたが、あの時の恐怖が思い出されて、エレベータでも顔を見ることができず俯き続けた。
到着したのは、病院の車寄せだった。
介護タクシーや高齢者入居施設の名前がデカデカと書かれたワンボックスカーが並んでいる中、異質なほど黒光りした国産車が駐まっていた。
耀一郞の姿を確かめると運転手が出てきて、すぐに後部席の扉が開けられる。
「乗れ」
振り返った耀一郞はまた命令してきた。すべてが怖くて、もっとここにいたかったと強く思い見上げた。自分がどこに入院していたかも知らなかった樟は、デカデカと書かれてある病院名を頭に刻み込んでから、ゆっくりと――なにかに抗うように時間を掛けて――車に乗り込んだ。すぐさま隣に耀一郞が乗り、扉が閉まるとすぐに出発した。
足と腕を組む耀一郞は変わらず威圧感を発して話しかける隙がない。
配偶者の義務として迎えに来ただけだと言わんばかりの高圧的な態度に、樟は身体を縮込ませるしかできなかった。きっと手間と迷惑をかけたことを怒っているに違いない。
入院費の支払いもきっと耀一郞がしてくれたのだろう。
(お礼を言ってお詫びをして……それで怒られないかな……殴られないかな)
入院費用を返すと言えばいいのだろうかと頭を巡らせていると、すぐに車は停まった。あの高層マンションのエントランスだ。
こんなにも近かったんだと驚き、促されてそろそろと、こわごわと車から出てまた耀一郞に付き従った。
あの高層階の部屋のリビングに辿り着くと、耀一郞は「座れ」とダイニングの椅子を指した。
「はい……」
これから説教が始まるのだろうか。高い背もたれに背中を預けるのが怖くて前のめりになりそうな程俯く。
樟の様子を見て耀一郞はアイランドキッチンに立った。
なにかを用意して、それから「うっ」とか「くそっ」と四苦八苦する声が聞こえる。
(どうしたんだろう……)
顔を上げると大きな身体が何か作業をしているようだった。
怒っているような顔で手元を見ては時折睨み付けている。整った面が歪むたびに鬼のような形相になる。
(もしかしたら耀一郞さんってもともと怖い顔をしているのかな?)
僅かに眉間に皺を寄せただけでとても怒っているように見える。彼はとても困っているようで、手を貸した方がいいのだろうかと立ち上がると、すぐに気付かれた。
「お前は座っていろっ」
「はい」
すぐさま腰を下ろし、また前のめりになるくらい俯いた。低い声も怖い顔も樟を怯えさせるに充分だった。
じっとしていると、樟の前でカタンと音がした。
「食え」
顔を上げると、真白い皿が置かれ、そこには歪な形の異様に大きなおにぎりとおぼしきものが鎮座していた。三角にするつもりの苦戦の後が刻まれた歪な形をしており、具材ははみ出して、巻いた海苔はべっとりと水を含んでいる。
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