【書籍化進行中】不遇オメガと傲慢アルファの強引な結婚

椎名サクラ

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本編1

09.醜い傷跡と懺悔01

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GWゴールデンウィークは行きたいところがあるのか?」

 そう耀一郞が問いかけたのは、久しぶりに一緒に夕食を摂ったときだ。年度末を乗り越え、新たな社員を迎え入れての新しい季節はあまりにも忙しないようで、耀一郞が早く帰ってこられるようになったのは四月も下旬になってからだ。
 間もなくGWが始まろうとしていた。

 けれど、二度目の過呼吸を起こしてからというもの、樟は病院以外に出歩くことはなかった。季節は心地よい温かな風へと変わり、美しく咲き乱れる桜も、道ばたに季節を告げるタンポポも姿を消し、光を通す若葉が芽吹いている。あれほど手放したくないと願っていたコートが暑苦しくて脱ぎ捨てたが、樟の心に宿る恐怖は未だに剥ぎ取れずにいる。

 病院へ行き、帰りにスーパーに寄って、他の日はずっとマンションの中で過ごすだけだ。そんな樟に行きたい場所などない。
 付き合いで持った箸を下ろし、小さく首を振った。

「そうか。では私が決めてもいいのだな」

 樟の返事を予想できていたのだろう、耀一郞は手にしたスマートフォンをするりと樟の前に置いた。画面には南房総を見渡せるヴィラが映し出されていた。まるで外国のようで、タイトルに南房総と記載がなければ国内と気付かないくらいに綺麗な写真だ。

「あの……ここ高いんじゃないですか? そんなところに僕が行ってもいいんですか?」

 かつて連れて行ってくれた都内の博物館とは大違いだ。こんな洒落た場所に樟と共に訪れて、耀一郞は退屈ではないだろうか。

「なにを言っている。金のことなど気にするな。しばらく早く帰ってこれなかったんだ、ゆっくり休んでも罰が当たらないだろう」
「そう……ですけど」

 確かに今日になるまで朝早くに家を出て、帰ってくるのは樟が寝た後だ。もしかしたら食事をした後にまた会社に行っていたのかもしれない。樟は把握できないが、忙しい時間を過ごして疲れているのは理解できる。頑健に振る舞っていても、耀一郞の目の下にうっすらとクマができている。そんな彼がゆっくりしたいと願うのも納得だ。
 理解できないのはなぜ樟に訪れることを打診するのかだ。

(ご飯を作れってことなのかな?)

 けれどこんな洒落た場所に似合う料理なんて作れるはずがない。戸惑っていると、すっと耀一郞の目が細くなった。
 怒られるのではないかと肩が僅かにはね身体が強張る。久しぶりに顔を合わせるのが嬉しいはずなのに、後ろ暗い樟はひたすら怯えるばかりだ。その姿が耀一郞の目にどのように映るかもわからないまま。

「飯を食べてないのか? また痩せたように見えるが」
「そんなことは……ちゃんと食べてます」

 しかし食卓に置かれた樟の茶碗は、ダイエットしている女性よりも少量のご飯がお世辞程度によそわれているだけだ。これが今の樟の精一杯だった。
 あの日……二度目の発作を起こしてから味がしないのだ、なにを食べても。咀嚼すれば硬さや舌触りは感じられるが、味覚が全く使い物にならなくなった。井ノ瀬はそれを極度のストレスが原因だと言った。亜鉛を飲んでも改善しなくて、次の診察ではそれを伝える予定だ。親身になってくれる医師たちがいるのは頼もしいが、医療費を払ってくれる耀一郞には報告できないでいた。

「そんなに少なくては倒れるだろう」
「……最近はあまり外に出ないのでお腹が空かないんです」

 本音だ。空腹は全く感じないのでついつい食事を疎かにしてしまう。だが耀一郞は訝しそうにそんな樟を見つめてくる。視線にいたたまれず小さくなるしかなかった。

「ずっと一人で食べさせてすまなかった。これからは早く帰ってこられる。一緒に食事をしよう」
「僕のことは気にしないでください。社長なんですから会社を第一に考えるべきです。無理は……しないでほしいです」

 本心だ。耀一郞に迷惑をかけたくないから、安井にも井ノ瀬にも頼み込んで樟の症状を内緒にして貰っている。これ以上煩わせて嫌われたくない。
 ただそれだけなのに、耀一郞の目元が険しくなった。

「それはどういう意味だ?」

 地を這う声がゆっくりとテーブルを乗り越えて樟の足下を這い上がってくる。樟はびくりと、今度は大きく身体を震わせて慌てて俯いた。
 怒らせたかったわけではない。
 なのに口を開けるといつも耀一郞を怒らせてばかりだ。どうしてこんなにも自分はダメなのだろう。嫌われないための努力をしても怒らせてしまっては意味がない。
 樟は膝の上に拳を置いた。箸を握ったまま。

「ご……めんなさ……」

 怒られるのは怖い。頭が真っ白になって言葉が出てこない。脳の機能が停止してなに一つ言語化できない。それが耀一郞ならば余計だ。

「私が忙しいときにあの医者と一緒に居たのか?」
「え……?」

 誰のことだろうか。安井だろうか、それとも井ノ瀬のことを言っているのか、樟にはわからない。けれど診察が週に二回に増えてからは――いや、その前から長い時間を一緒に居るのは病院の関係者だけだ。
 また、小さく頷いた。
 ダンッ!
 跳ね上がるほどの強くテーブルを叩いた耀一郞は鬼の形相になった。

「そんなにあの医者が好きなのか!」

 怯えたまま、樟はもう一度小さく頷いた。
 安井も井ノ瀬も、昔の兄を思い出させるほどに優しく接してくれるから、嫌いになんてなれるはずがない。あの病院にいる間は自分がどれほどの欠陥を抱いていても誰もが優しく接してくれ、偏見の目で見ない。この上なく心地よい場所で、樟にとってはオアシスであった。
 けれど耀一郞が気に入らないのならば通院を諦めるしかない。

(大丈夫、諦めるのには慣れてるから……)

 行きたかった高校も諦めたし、家から出ることも諦めた。そしてあれも……諦めて受け入れたから、今度も大丈夫だ。
 目を伏せ椅子に座ったまま小さくなっている樟に苛立ったのか、耀一郞は乱暴に立ち上がり、樟の胸ぐらを掴んだ。逞しさに見合った力はひょろひょろの樟を容易に持ち上げた。
 カランと箸が床に落ち転がる。引き起こされたときにテーブルに当たり、食器が滑ってぶつかった嫌な音を鳴らすが、耀一郞はそこに気を向けずただ真っ直ぐに樟を睨めつけた。

「あいつに足を開いたのか?」

 苦しい。喉に力を入れて言葉を飲み込み、首を振った。診察で足を開くことはない。安井とは椅子に座って話すだけだし、井ノ瀬は聴診器を当てるために服を押し上げることはあっても足に関してはなにもしない。どうしてそんなことを訊くのか、樟にはわからなかった。

「忘れるな。結婚している間はお前は私のものだ」

 手が放され、ずるずると椅子を押し倒して地面にしゃがみ込んだ。

「けほっこほっ!」

 乾いた咳が喉を震わせる。

(わかってます、ちゃんと耀一郞さんの評判が落ちないように、会社に不利益を与えないように、大人しくしています)

 でもその言葉は外に出ない。だから潤んだ目で彼を見上げるのでが精一杯だった。
 ぎりっと音が聞こえるほど耀一郞が奥歯を噛み締めた。
 樟の腕を掴み無理矢理に立たせると、厚い胸板に押しつけられた。逞しい腕が樟の身体を抱き込む。
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