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本編1
10.忍び込んだ悪魔02
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「僕が言えるのは、男も女も、オメガもベータもアルファも、遺伝子とは関係ないということです。神様が決めたことに僕たちは逆らえないんです。今だって、どんなに医療が発達しようともアルファ同士の子から必ずしもアルファが生まれるとは限らないんです。確率は出ます。だけど『そうでなかった』事例もたくさんあるんです。樟さんがオメガなのは、神様がそう決めたから。誰も悪くありません」
優しい声はゆっくりと樟の身体に染み渡り、細部にまで広がろうとして頑なな心に阻まれる。
誰も悪くないのなら、なぜ母はあれほど責められなければならなかったんだ。
なぜあれほどまでに思い詰めて樟を殺そうとしたのだ。
「僕が死ねば良かった……」
「そんなことを言わないでください。きっと配偶者さんも同じことを思っているはずですよ」
樟は緩く首を振った。その頭をまた安井が撫でた。
そんなはずがない。耀一郞は優しいから……怖い顔をしていても優しい人だから、樟の背中の傷を見て憐れんでくれているだけだ。誰も好き好んでこんな疫病神を引き受けたくない。
「安井医師……オメガは愛される性だって以前言いましたよね……」
「はい、僕は今でもそう思っています。愛されるために生まれてきたんだって」
「どうして僕は愛されないんでしょうか」
愛されたい。慈しまれたい。けれど方法がわからない。この身に貼り付く不幸を振り払う方法もわからないのに、愛されかたなどどうして知っていようか。
安井はあんな話を聞かされたというのに、変わらず優しい笑みを湛えて樟を見つめる。
「オメガは愛される性だけれど、それが不特定多数なのかただ一人かは僕にはよくわかりません。けれど愛されないということはないんですよ」
「そうだといいな……」
「樟さんは誰に愛されたいですか?」
以前にもされた質問。あの時はなにも思い浮かばなかったのに。
樟の頭が描いたのは、精悍でいつも怒っている耀一郞の顔だった。眉間に深く皺を刻み、意志の強さを示す少し厚めの唇を強く閉じ、怜悧さを醸し出す目元を細める、気難しい人。近づきがたい雰囲気を放ち、けれどその心は温かく、抱き締められると心地よい熱を与えてくれる。優しい人。
そんな人だから、自分の不幸には巻き込みたくないと願ってしまうのだ。
安井が笑みを含んだ吐息を吐き出す。
「今思い浮かんだ人が、樟さんを愛しているといいですね」
「……そんなはずは……ありません。耀一郞さんはとても優しいんです。だからこんな僕でも家に置いてくれるんです」
結婚式ではあんなにも恐く映っていた耀一郞だが、同じ顔を向けられても今なら別の感情が湧きあがるのはなぜだろうか。
「配偶者さんは樟さんにとって優しい人なんですね。どうすれば愛されるかですけど、配偶者さんが樟さんのすべてを受け入れたように、樟さんも自分を受け入れてみてはいかがですか?」
「……は、い?」
「その上で相手を受け入れるんです。それが愛される最初の方法かと僕は考えます」
ぽんぽんと優しく頭を叩かれた。そのたびにふわふわの柔らかい髪が上下する。
「愛されるって難しいんですね」
自分を?
どうやって?
母を殺してしまった自分なのに?
樟にはわからなかった。
「まずは自信を付けましょうか。樟さんのお時間があるときに、NPOの施設の見学に行きませんか? 職業訓練するにもどんな場所でどんな訓練が行われているかを確かめてはどうですか?」
「そう……ですね」
自信を付ければ……耀一郞の役に立てれば、少しは自分を受け入れることができるだろうか。
(少なくても、なにもできない今よりはずっといいのかな?)
小さく頷いてまた膝をギュッと握った。
「次の診察の時に予定を合わせましょう。僕はあのNPOのボランティアをしているんですよ、実は。見学だけでもしてくれると嬉しいんです」
「……わかりました」
頭を下げて提案を受け入れた。
ほんの少しの希望が樟を勇気づけてくれた。
いつものように帰り道にスーパーに寄って旬の食材を買った樟は、帰ろうとマンションに足を向けた。
「おや、樟くんじゃないか」
耳慣れない声が自分の名を呼ぶのを耳にして、樟は立ち止まり周囲を見回した。見知った顔はどこにもない。そんな樟に近づいてくる人がいた。
暑いのにとても上品なスーツを身につけ、お洒落な帽子を被っている。父よりもずっと年配だが年を感じさせない不思議な雰囲気の人だ。
初老の紳士は樟の前まで来ると、帽子を外しニッコリと笑った。
「久しぶりだね、結婚式以来かな」
親しげな口調に、耀一郞の関係者ではと思い至った。
「あの……すみません、どなたかわからなくて……失礼を承知でお名前を教えていただけませんか」
「いやいや、わからなくて当然だ。結婚式の時、君はとても緊張していたからね。私はこういう者だ」
紳士が差し出した名刺には小野電機工業の社名と肩書きと共に名前が記載されていた。
――会長 小野隆一郎、と。
「いつも耀一郞が迷惑をかけているね。可愛い配偶者ができたというのに未だに親に紹介してくれないのでね、心配になって様子を見に来たんだ」
(耀一郞さんのお父さん……どうして今まで挨拶のことを忘れていたんだろう……)
樟は慌てて頭を下げた。
「ご挨拶に伺えず申し訳ありません。あのっ……」
なにを話していいかわからなくてオドオドとしていると、隆一郎はにっこりと微笑みかけた。
「そんなに緊張しないでくれると嬉しいね。二人がどんな生活をしているか見に行こうとしていたんだ。ここで会えて良かったよ」
「そうだったんですね……。あの、いつとか教えていただければ、予定を入れないようにします」
「いやいや、会長とはいえなかなかに忙しくてね。次にいつが空いているか、その日になってみないとわからないのだよ。この後一つ用事があるが、それが終わってからお邪魔をさせて貰ってもいいかな」
優しい笑みだというのに、樟は違和感を覚えていた。なぜかを追求できないまま、隆一郎の問いかけに頷いた。ここで拒む理由はないし、それで耀一郞が樟のことで怒られたら今度こそ面倒だと思われてしまう。
「君とゆっくり話をするのを楽しみにしているよ、樟くん。ではまた」
隆一郎は小さく会釈をすると、来た方向へと戻っていった。向こうには黒光りする車が駐まっていて、運転手が扉を開けて待っている。
「耀一郞さんのお父さんか……」
もらった名刺を鞄にしまって急いで家に帰った。
いつ隆一郎が訪ねてきてもいいように部屋を綺麗にする。
もともと物の多くないリビングは整って見えるが、僅かな瑕疵もあってはいけないと念入りに、でも素早く掃除をする。
コーヒーがいいのかそれとも紅茶が好まれるか。わからないがお歳暮で貰った高級ブランドのロゴが印字されたコーヒー豆と紅茶を手の届く場所に用意しておく。
優しい声はゆっくりと樟の身体に染み渡り、細部にまで広がろうとして頑なな心に阻まれる。
誰も悪くないのなら、なぜ母はあれほど責められなければならなかったんだ。
なぜあれほどまでに思い詰めて樟を殺そうとしたのだ。
「僕が死ねば良かった……」
「そんなことを言わないでください。きっと配偶者さんも同じことを思っているはずですよ」
樟は緩く首を振った。その頭をまた安井が撫でた。
そんなはずがない。耀一郞は優しいから……怖い顔をしていても優しい人だから、樟の背中の傷を見て憐れんでくれているだけだ。誰も好き好んでこんな疫病神を引き受けたくない。
「安井医師……オメガは愛される性だって以前言いましたよね……」
「はい、僕は今でもそう思っています。愛されるために生まれてきたんだって」
「どうして僕は愛されないんでしょうか」
愛されたい。慈しまれたい。けれど方法がわからない。この身に貼り付く不幸を振り払う方法もわからないのに、愛されかたなどどうして知っていようか。
安井はあんな話を聞かされたというのに、変わらず優しい笑みを湛えて樟を見つめる。
「オメガは愛される性だけれど、それが不特定多数なのかただ一人かは僕にはよくわかりません。けれど愛されないということはないんですよ」
「そうだといいな……」
「樟さんは誰に愛されたいですか?」
以前にもされた質問。あの時はなにも思い浮かばなかったのに。
樟の頭が描いたのは、精悍でいつも怒っている耀一郞の顔だった。眉間に深く皺を刻み、意志の強さを示す少し厚めの唇を強く閉じ、怜悧さを醸し出す目元を細める、気難しい人。近づきがたい雰囲気を放ち、けれどその心は温かく、抱き締められると心地よい熱を与えてくれる。優しい人。
そんな人だから、自分の不幸には巻き込みたくないと願ってしまうのだ。
安井が笑みを含んだ吐息を吐き出す。
「今思い浮かんだ人が、樟さんを愛しているといいですね」
「……そんなはずは……ありません。耀一郞さんはとても優しいんです。だからこんな僕でも家に置いてくれるんです」
結婚式ではあんなにも恐く映っていた耀一郞だが、同じ顔を向けられても今なら別の感情が湧きあがるのはなぜだろうか。
「配偶者さんは樟さんにとって優しい人なんですね。どうすれば愛されるかですけど、配偶者さんが樟さんのすべてを受け入れたように、樟さんも自分を受け入れてみてはいかがですか?」
「……は、い?」
「その上で相手を受け入れるんです。それが愛される最初の方法かと僕は考えます」
ぽんぽんと優しく頭を叩かれた。そのたびにふわふわの柔らかい髪が上下する。
「愛されるって難しいんですね」
自分を?
どうやって?
母を殺してしまった自分なのに?
樟にはわからなかった。
「まずは自信を付けましょうか。樟さんのお時間があるときに、NPOの施設の見学に行きませんか? 職業訓練するにもどんな場所でどんな訓練が行われているかを確かめてはどうですか?」
「そう……ですね」
自信を付ければ……耀一郞の役に立てれば、少しは自分を受け入れることができるだろうか。
(少なくても、なにもできない今よりはずっといいのかな?)
小さく頷いてまた膝をギュッと握った。
「次の診察の時に予定を合わせましょう。僕はあのNPOのボランティアをしているんですよ、実は。見学だけでもしてくれると嬉しいんです」
「……わかりました」
頭を下げて提案を受け入れた。
ほんの少しの希望が樟を勇気づけてくれた。
いつものように帰り道にスーパーに寄って旬の食材を買った樟は、帰ろうとマンションに足を向けた。
「おや、樟くんじゃないか」
耳慣れない声が自分の名を呼ぶのを耳にして、樟は立ち止まり周囲を見回した。見知った顔はどこにもない。そんな樟に近づいてくる人がいた。
暑いのにとても上品なスーツを身につけ、お洒落な帽子を被っている。父よりもずっと年配だが年を感じさせない不思議な雰囲気の人だ。
初老の紳士は樟の前まで来ると、帽子を外しニッコリと笑った。
「久しぶりだね、結婚式以来かな」
親しげな口調に、耀一郞の関係者ではと思い至った。
「あの……すみません、どなたかわからなくて……失礼を承知でお名前を教えていただけませんか」
「いやいや、わからなくて当然だ。結婚式の時、君はとても緊張していたからね。私はこういう者だ」
紳士が差し出した名刺には小野電機工業の社名と肩書きと共に名前が記載されていた。
――会長 小野隆一郎、と。
「いつも耀一郞が迷惑をかけているね。可愛い配偶者ができたというのに未だに親に紹介してくれないのでね、心配になって様子を見に来たんだ」
(耀一郞さんのお父さん……どうして今まで挨拶のことを忘れていたんだろう……)
樟は慌てて頭を下げた。
「ご挨拶に伺えず申し訳ありません。あのっ……」
なにを話していいかわからなくてオドオドとしていると、隆一郎はにっこりと微笑みかけた。
「そんなに緊張しないでくれると嬉しいね。二人がどんな生活をしているか見に行こうとしていたんだ。ここで会えて良かったよ」
「そうだったんですね……。あの、いつとか教えていただければ、予定を入れないようにします」
「いやいや、会長とはいえなかなかに忙しくてね。次にいつが空いているか、その日になってみないとわからないのだよ。この後一つ用事があるが、それが終わってからお邪魔をさせて貰ってもいいかな」
優しい笑みだというのに、樟は違和感を覚えていた。なぜかを追求できないまま、隆一郎の問いかけに頷いた。ここで拒む理由はないし、それで耀一郞が樟のことで怒られたら今度こそ面倒だと思われてしまう。
「君とゆっくり話をするのを楽しみにしているよ、樟くん。ではまた」
隆一郎は小さく会釈をすると、来た方向へと戻っていった。向こうには黒光りする車が駐まっていて、運転手が扉を開けて待っている。
「耀一郞さんのお父さんか……」
もらった名刺を鞄にしまって急いで家に帰った。
いつ隆一郎が訪ねてきてもいいように部屋を綺麗にする。
もともと物の多くないリビングは整って見えるが、僅かな瑕疵もあってはいけないと念入りに、でも素早く掃除をする。
コーヒーがいいのかそれとも紅茶が好まれるか。わからないがお歳暮で貰った高級ブランドのロゴが印字されたコーヒー豆と紅茶を手の届く場所に用意しておく。
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