【書籍化進行中】不遇オメガと傲慢アルファの強引な結婚

椎名サクラ

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本編1

10.忍び込んだ悪魔03

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 耀一郞の書斎と寝室は鍵がかかっているので覗かれることはないだろうが、樟の部屋はもしかしたら見られるかもしれないとそこも掃除をしてから、時間を確かめて食事の用意をする。
 三人分の料理は初めてで、どれほどの量を作れば良いのか分からない。品数をいつもよりも多く用意する目処を立ててから米をいつもよりも多めに洗い始める。
 レースカーテンの向こう側が、オレンジと群青色の美しいグラデーションができあがっている。

 間もなく夜だ。
 早くしなければとメインディッシュにと買ったメバルの煮付けを作り始める。
 その時だった。
 初めてこの家のインターホンが鳴った。

(もう来ちゃった……っ!)

 魚で汚れた手を慌てて洗い、急いで玄関に向かう。扉を開けると、そこにいたのは懐かしい顔だった。

「……にぃ……さん?」

 兄のきょうだった。最後に会ったのは結婚式のときだが、樟に似た柔らかい髪はべっだりと束になり、小綺麗にしていた身なりも皺と汚れだらけだ。いつもと変わらない恐ろしい表情は僅かに痩けたせいでもっと恐ろしく映る。それがグッと樟に近づくと、なにも言わずに足を上げた。
 樟よりも長身の彼から繰り出された蹴りを腹に受け、細い身体は廊下に飛んで倒れた。
 息ができない……こんな痛みはいつぶりだろう。樟は乾いた咳を何度もした。

「お前のせいだっ!」

 椋は遠慮なく上がり込むと、倒れている樟の背中めがけ思い切り蹴った。

「ぐっ……いっ!」

 何度も何度も容赦なく床に叩き落とすように振り下ろされた蹴りを受け、樟はどんどんと身体を丸めていく。それが気に食わないのか、身体に乗って上向かせた。

「お前がっ! お前が淫乱なせいで俺たちがどれだけ迷惑を被ったかわかっているのかっ! オメガのっお前が! なんで俺のっ邪魔をっするんだ!」

 言葉の区切れと共に顔めがけて何度も何度も拳を振り下ろす。

(痛いっ……やめてっ!)

 こいねがうが抵抗はしなかった。こうしていればいつだって気が済んで終わるから。
 こんな風に殴られるのは初めてではない。いつだって兄の虫の居所が悪ければ殴られてきた。顔が腫れ上がるほど殴られるのも、血を吐き出すほど蹴られるのも、家に閉じ込められていた間に何度も経験した。
 だから、平気だ。堪えられる。
 樟は奥歯を噛み締めながら椋から受ける痛みに必死に耐えた。

「お前なんかっ死ねよ! お前さえいなけりゃ、母さんは死ななかったんだよっ! お前が母さんをっ、殺したんだ!」

 その通りだ、樟さえいなければ菊池の家に瑕疵など存在はしなかった。家族仲良く笑い合って毎日が幸せな場所だったはずだ。

(ごめんなさい、兄さん……僕のせいで……僕が母さんを殺したせいで……)

 どんなに心で謝罪を繰り返しても、それは椋には届かない。メチャクチャに殴っては、唾を飛ばしながら罵倒を繰り返す。

「死ねっ、お前なんか、本当に死ねっ!」

 呪詛は、小さな幸福を抱き始めた樟の心を殺していく。

(ああ、本当に殺されるのかな……でもしょうがない、僕がオメガだったのが悪いんだから)

 どこもかしこも痛くて、目を開けることもできない。
 頭蓋骨の中の脳が揺れるんじゃないかと思うほどに殴られ続け、鼻血が流れていくのが頬を伝うぬめりを纏った感触で気付いていても、樟はなにもしないでされるままだった。

「死ねっ、母さんを殺したお前なんて、死ねっ!」

 狂ったように吠え続けた兄の身体が退いたのは、母のことを叫んだ後にダンッと強い音がしたときだ。

「ここでなにをしている!」

 低い、地を轟かすあの声が次に響き渡る。
 樟よりも長身な椋の身体が、反対側の壁にぶつかる。

「いっ……なにするんだっ! 弟を躾けてんだから黙ってろよっ!」

 耀一郞の姿を見ても、いや見たからこそ余計に椋は怒りを投げつけた。

「躾け? ただの暴力でしかない、これは!」

 耀一郞の怒号を受けて、一瞬怯んだ椋は、このまま退けないとばかりに吐き捨てた。

「こいつは母さんを殺したんだ、だからこうやって躾けないといけないんだっ!」

 その瞬間、樟の中に絶望が広がった。
 知られたくなかった、耀一郞にだけは。なにも知らないままでいてほしかった。自分の配偶者が人殺しだったなんて知ってほしくない。
 樟は噛み締めていた奥歯から力を抜いた。絶望は意思をも削いで、いつもは流れないように堪えた涙がポロリと一つ肌の上を転がり冷たい床に落ちた。

「なにを言っている。菊池果耶かやの死因は自殺だ。息子を殺そうとした場面を家政婦に見られて咄嗟に窓から飛び降りた。違うか?」
「違うっ! こいつがいなければ……こいつがオメガじゃなければ……母さんは死ななかったんだっ!」
「ずっと夫に罵られてうつ病になったのが原因だろう。菊池社長は自分の親戚にオメガがいるにも拘わらず、妻に責任をなすりつけるために強く言い続けたんだ」
「嘘だ……そんなの……うそだ……」

 あれほど勢いよく吠えていた椋は何度も呟いた。なにを信じればいいのかわからないといった風に。
 それは樟もだった。
 自分が母を殺したと思い続けていた。窓から落としたのは自分だと……。
 信じられず耀一郞に視線を向けた。どこかに電話を架けていたがすぐに気付いて樟の傍で膝を折った。

「大丈夫か? すぐに救急車が来る、安心しろ」

 抱き起こされ、あの心地よい胸に抱き込まれる。

「でもあんたが契約を打ち切ったのはこいつが浮気したからだろ! 今日もアルファと楽しそうに話してた、しかも二人も!」
「…………なんだと」

 一瞬にして耀一郞の顔が剣呑になった。射殺さんばかりの視線が樟に向けられた。

(違う、信じて。浮気なんてしていないって、信じて)

 緩く首を振るが痛みにできたかわからない。

「ベンチじゃ色々撫でられてたよな。その帰りにもう一人に会って……さすが淫乱なオメガだよ。イヤだイヤだって言ったって突っ込まれなきゃ生きていけねーもんな。そんな奴だから躾が必要なんだよっ!」

 違う、本当にイヤだった。痛かった、辛かった。どれほど訴えても、嗤われるだけだった。それを知ってほしいと口を開くが、痛くて呻き声しか出ない。
 耀一郞の視線が一層険しくなる。
 だから――諦めた。
 樟の言葉は思いは、またしても誰にも届かないのだと。そっと心に芽生えた「期待」の花を引っこ抜いた。パチリと茎が歪に折れ、諦めの海へと沈んでいく。

 それからも椋はなにか吠えていたが、もうなにを言われても同じだ。今度こそ、耀一郞は離婚を決意するだろう。こんな面倒な配偶者はいらないと思うはずだ。
 呪いのような椋の言葉は、救急隊員よりも先にやってきた警察によって途切れた。状況を見てすぐに椋を逮捕しようとしたが、暴れてまた呪いの言葉が樟に注がれた。

「オメガなんて、殺す寸前まで殴らないとわかんねーんだから、俺はなにも悪くないっ! 放せ! 逮捕するなら俺を殴ったあいつを逮捕しろよっ!」

 引きずらて椋が出て行くと、救急隊員がすぐに入ってきた。耀一郞に抱えられた樟を見てすぐに担架に乗せて救急車に運ぶ。
 その車の中に、耀一郞の姿はなかった。
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