おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

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 パソコンの前に座りながらもう何日も組み立て続けてきたプログラムがようやく完成した。隆則たかのりは最後のコマンドを打ち込むと、ようやく強ばった肩から力を抜いた。

(やっと終わった……)

 深く息を吐き出しハイバックのパソコンチェアに身体を預けながらゆっくりと首を回す。

 長らく同じ体勢でいたためパキパキと動かす度に色んな場所から音が鳴る。

「んーっ」

 両腕を天へと思い切り上げ背筋を伸ばせば、そこからもパキパキと音がする。

(もう歳だな)

 少し前までは感じなかった老化を如実に意識し始める。当たり前だ、もう今年で40歳になるのだから昔と同じように働けるわけがない。

 隆則は組んだプログラムを一度ざっと見返してコマンドの間違いがないかを確認すると、それを昔勤めていた企業の共有サーバーにアップした。

 すかさず電話をかける。

 もう夜の九時だと言うのに相手がすぐに電話に出る。

「はい五十嵐いがらしさんお疲れ様です!」

 食い気味に電話にでたのは、古い付き合いの元後輩だ。

「出来上がったんですか?」

「お前な、あんなタイトなスケジュールの仕事押し付けてくるなよ」

「本当にすみません! でもあのスケジュールで引き受けてくれるの、五十嵐さんだけじゃないですか。助かりますよ」

 一生懸命媚びを売ってくるのは、今までにないくらい締切がギチギチだからだ。きっと彼と繋がっているプログラマーに悉く断られたのだろう、泣きつくように依頼されて仕方なく引き受けたのだ。なんとか締日の前に渡せて良かった。

「一応コマンドエラーがないかは見たが、デバックはちゃんとやれよ」

「いやー、五十嵐さんバグ少ないじゃないですか。めちゃ助かりますよ! これであとイラストデータ入れればバッチリだーオレ帰れる!!」

 IT系の常としてこの数日帰宅してないのだろう、区切りが着いた喜びに浮かれた声が聞こえてくる。久しぶりに慣れたベッドでじっくり眠れる幸福に心震えてるに違いない。なにせブラックが当たり前の業界だ、締切最優先で携わる人間の労働時間などあってないようなもの。自己裁量性と言えば聞こえはいいが、無茶な量の仕事を与えられては出来ないのは力不足だと言われるだけという、実に厳しい内情なのである。

 それに嫌気をさして雇用という枠から早々と逃げ出してフリーのプログラマーになった隆則としては、未だに底のない沼から逃げ出せずにいる元後輩が憐れで仕事を引き受けてしまうのだ。

「たまには寝袋じゃないところで寝ろよ」

「久しぶりに一人ラブホしてきますよ」

 乾いた笑いで、帰るのすら億劫で会社の近所にある宿泊施設に泊まる宣言に、呆れると共に見事なまでの社畜と成り果てた彼に涙ながら心の中だけでエールを送る。

「頭おかしくなる前に寝ろ。バグ起きたらすぐに言え」

「本当にありがとうございます、またよろしくお願いしますね!」

 嫌だと口にする代わりに言葉の途中で電話を切った。
 こんなタイトな依頼なんて受けたくないと言外に示すが、打たれ強い彼のことだ、絶対にまた無茶な依頼をしてくるに違いない。

 だが、やっと仕事が一段落だ。

 隆則は腰に負担がかからないようにゆっくりと立ち上がり、パソコンが落ちるのを確認する。会社勤めの時に使う時間がなく貯まっていく金で購入したこの都心の2LDKマンションは、在籍中には帰ることがほとんどなかったが、独立してからはむしろ出る時間のほうが圧倒的に少なくなった。だから、この部屋に住人がいると知っている人はあまりいないようで、時折玄関扉の前やベランダにごみが捨てられることがある。しかも一日中パソコンに向かい仕事をしているせいで生活音もあまりないから、誰もいないと思われているらしい。つい数年前までは。

 もう一度立ったまま身体を伸ばすと身体中からパキパキと音が鳴り、あまりにも同じ姿勢でい続けたことを反省する。いつものことだが、終わってから反省してまた同じことを繰り返す。どうしても仕事が始まれば寝食を忘れてパソコンの前に向かい続けてしまう自分の性格に反省しても改善が伴わない。

 首を左右に動かせばまた音がして、嘆息する。ゆっくりと部屋を出れば、真っ暗かと思っていたリビングは煌々と明かりがついていた。

「あれ、もう帰ってるのか?」

 思わず漏れ出た独り言。以前はそのまま空気に溶け込んで反応がないのが当たり前だったのに、その僅かな音を耳にしてすぐに反応が返ってくる。

「隆則さん、仕事が終わったんですか?」

 キッチンから顔を覗かせ嬉しそうに微笑みかけてきたのは、同居人の遥人はるとだ。手にはジャガイモと包丁が握られている。

「あぁ……今から料理か? なんだったらどこかに食べに行こうか」

「何を言ってるんですか、隆則さんずっとまともなもの食べてなかったでしょ。野菜いっぱいのシチューを作ってるからちょっと待ってくださいね」

 それしか食べられないだろうと言外に告げられ、否定できずに口噤む。今回のように締切がタイトな仕事は本当に寝食を忘れてしまうため、仕事開けすぐは流動食しか受け付けられない。それが分かっているから遥人は胃に優しいものを作ってくれようとしているのだろう。

(なんだよ、もう……)

 子供のように口を尖らせながら言えない不満を表情で表す。仕事を早く終わらせて自分がなにか用意してやろうと思っていたのに。

 だがチラリと見た時計は21時を既に回っていて、予定よりも遅くなっていることを知る。

「もう九時回ってるじゃないか、これから作ったらお前寝るのが遅くなるぞ。明日も仕事だろ」

「明日は土曜日ですよぉ。それより隆則さん、お風呂に入ってきてくださいよ。いくら冬で汗かかないからってばっちいですよ」

 台所から飛んできた声にさらに言葉を詰める。

 寝食すら忘れるのだから当然入浴などするはずがなく、仕事に取り掛かり始めた四日前から顔も洗ってないし歯も磨いていない。ばっちいという言葉にふさわしい状況だ。これでは外食に行けるはずもない。

 反論する言葉を飲みこみ胃の奥底に押し付けて、隆則は無言のまま風呂場へと向かった。既に湯が張られておりしかも未使用の状態だ。

「……あいつ帰ってきたの何時だよ」

 風呂が沸いているということは少なくとも30分前には家にいたということだろう。なのにずっと家にいた自分は全く気付かなかった。大好きなプログラミングをしている間は扉の向こうからどんな音がしてこようが全く耳に入らないようだ。

「ちくしょー、俺の方が年上なのに……」

 仕事が終わったから温かいものを取り寄せて帰りを待とうと思っていたのに、逆に世話をしてもらっては本末転倒だ。自分があれやこれやと面倒を見てやろうと思っていたのに。

 この後遥人が湯を使うだろうと考慮して先に身体を清めていく。

「あっ、シャンプー……」

 もう40代、愛用しているシャンプーはオヤジ臭撃退の薬用炭が入ったスカルプケアの優れモノだ。それが切れていることを思い出す。

「買い置きってあったか?」

 だがボトルを手に取ればずっしりと重量感があり、己の記憶を疑う。確かにこの前使おうとして残りを無理矢理水に溶かして出したような記憶が……。

「あーーーーー」

 記憶が確かなら気付いた遥人が詰め替えてくれたに決まってる。まだ二十台の彼が使わないものにまで気付いてくれていることに感心するとともに気落ちする。これでは自分が面倒見ているのではなく、生活全般の面倒を見てもらっている状況だ。金銭面以外は。

「俺ダメダメすぎるだろ」

 洗い場でしゃがみこんで頭を抱える。

 食事も作れないし細かい気遣いができない自分と、色々と目端が行き届いている遥人とでは生活能力に雲泥の差があって当たり前なのに、年上だからか、つい張り合って勝とうとしてしまう。

 今のところ惨敗なのに。

「とりあえず、洗ってしまうか」

 油の滲んだ髪を綺麗に洗い流し同じブランドのボディソープで身体を磨き上げる。風呂場がハッカの匂いに満ちるほど泡だらけにしてから手桶で温かいお湯を頭のてっぺんから流していく。面倒だからトリートメントなどといったお洒落なものは使用しない。

 犬のように頭を振って水気を飛ばしてから湯船に浸かる。

「っんぐー、きもちいい!」

 久々の熱いお湯の中でいっぱいに伸びをして筋肉をほぐしていく。無意識に強張っていた肩から力が抜けていくのを感じた。

「やっぱ風呂はサイコー」

 なら毎日入ればいいのにと心の中で突っ込む。

 汚れも疲れも洗い流した気持ちで風呂から上がると、もう食卓には出来上がったシチューが湯気をあげて自分を待っていた。

「なんだ、もうできたのか?」

「煮込むだけですから。ちゃんと身体洗いました? もしかしてお湯に浸かっただけとかじゃないですよね」

「……ちゃんと洗った」

「どれどれ?」

 遥人が近づいてきて濡れた髪に鼻を近づけてきた。

「あ、ちゃんとシャンプーの匂いしてますね、よしよし」

「ガキ扱いするな」

 頭を撫でてこようとする手を跳ねのけようとするのを避け、遥人の腕が首に回される。

「先ご飯たべててください、風呂に行ってきますね。その後の時間、くれますよね」

 何を意味しているのか解って、隆則は顔を熱くした。そこにチュッと音を立てたキスをして余裕の足取りで遥人が風呂場へと向かっていった。
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