19 / 100
本編1
9-2
しおりを挟む
正直、あの時は勢いで仕事の依頼をしてしまったことを隆則なりに後悔していた。ただ遥人の助けになればと口にしたが、いざ一緒に住むようになって優しくされて、段々と自分の性癖が知られるのが怖くなった。そして「そんな目」で遥人のことを見てると知られるのも。
どうしたらいいのだろうか。考えても答えは出ない。
今更遥人を放り出すこともできないし、彼がいることで助かっている部分のほうが大きい。とてもじゃないが毎日コンビニ弁当という生活には戻れなかった。なんせ遥人の作るご飯は優しい味で胃袋だけでなく隆則の心まで満たしてくれる。そして常に清潔な住環境がこれほどまでに心を豊かにしてくれるのだとも知らなかった。片付けが極端にできない隆則は、足元を気にしなくても歩ける自宅というのを久しぶりに体験し感動し続けている。全自動掃除機があっても床に散乱している物は片づけてくれない。
なによりも仕事に熱中して食事を取らなくなったとわかるとさりげなくテーブルに菓子が置かれてあるのが嬉しい。
けれど、どんなに仕事に集中し続けても、遥人の存在がそこにあると思うと諦めていたはずの恋心がざわめき始める。自然と彼へと向かってしまう気持ちや感情を必死で押し殺しながら、忘れろ諦めろと心に何度も言葉の鞭を撃ち続けても消えようとはしない。むしろ優しくされるたび気遣われるたび笑顔を見せられるたびに大きくなっていく。
「あーでも……」
「いい機会だから洗っちゃいましょう」
笑顔でガンガンに詰め寄られてしまえば強く出られない隆則は頷くしかなかった。同時に周囲を見回した。
(あ……なるほど)
日差しを取り込むためのベランダの窓は磨き抜かれ雨のあと一つないし、網戸も黒く汚れていない。きっとすでに大掃除は終わっていて残すは仕事で籠りきりになっている隆則の部屋だけなのだ。
仕事がひと段落するのを几帳面な彼はずっと待っていたのだろう。
家事ができない隆則に言えるのはただ一言。
「よろしくお願いします」
「任せてください。では早速部屋に入らせてもらってもいいですか?」
きちんと確認を取るあたりが遥人らしいなと思いながら頷く。
遥人はあの太陽のようにまぶしい笑顔を浮かべると掃除道具を手に隆則の部屋へと入っていった。
喫煙癖はないがしっかりと年齢に見合った体臭が充満している部屋のカーテンを開くと窓を全開にして空気の入れ替えを始めた。
そして布団とシーツを剥ぐと何年もそのままにしているマットレスを持ち上げた。
「えっ、なにしてるんだ?」
「ベランダで天日干しします。そのほうが匂いなくなりますから」
「はぁ……」
マットレスというのは壊れるまでそのままベッドの上に置かれるものではないのかと驚きながらも、遥人の指示に従って触られては困るものを収納ケースの中へと片付けていく。
ベランダにマットレスを立てかけると遥人は布団を洗ってくるとそれらを大きな専用カバーに入れ出かけて行った。
「いってらっしゃい……」
見送るために赴いた玄関も、久しぶりにじっくり見れば隅の隅まで埃一つない。それどころか、つやつやとコーティングされたかのように輝いている。
もしやとシューズボックスを開けばそこも綺麗になっており、放置している革靴が磨かれているどころか、履き続けているスニーカーまで新品の頃のように白くなっている。
「プロの家政婦並み?」
一介の大学生のはずなのにこんなことまでできるのかと感心するしかなかった。
遥人はきっと嫌なのだろう、住んでいる家に汚れた個所があるのが。特に全自動掃除機すら締め出されている隆則の部屋は魔窟と呼んでも差し障りないありさまだ。
「……綺麗にしよう」
印刷した仕様書の束が散乱している床を歩きながらどこから手を付けていいのかわからず、とりあえずとばかりにキーボードの隙間掃除をし始めた。帰ってきた遥人に笑われたのは言うまでもない。
その日の夜遅く、ようやく綺麗になった部屋を見て隆則は呆然とした。
そうとしか言いようがない。
引っ越して以来見たことのないような美しさだ。
プリンターにかぶっていて当たり前の埃もなく、ぐちゃぐちゃだったクローゼットの中も一目見ればどこに何があるのかわかるようになっている。しかも床に散乱した書類は綺麗に会社やプロジェクトごとに束ねられパソコンの積み上がっている。さすがに守秘義務を含むものが多いためそのまま紙ごみとして捨てられないので仮置き場だと遥人は言った。
そしてなによりも、あんなに体臭を放出していた寝具一式が購入時よりも馨しくなって定位置に鎮座している。どんな魔法を使ったのか以前よりもずっと白さが目立つのは気のせいだろうか。
「明日にはシュレッダー買ってきますので、それで紙類は処分しましょう」
「それなら今からネットで注文したら明日届くから」
「では届いてからにしましょう。……あと、できればなんですが、お仕事が終わった後でいいので掃除に入らせてもらってもいいですか? 仕事中は絶対に邪魔しませんから」
そう言いたくなる気持ちを今日一日でよくわかった。マンションを購入してから全くと言っていいほど手入れしなかった部屋の掃除に丸一日を要してしまったのだから。これがこまめに手が入ればこれほどの苦労はしなくて済むし、遥人の負担が減るに決まっている。
「ごめん……よろしくお願いします」
頭を下げて頼む。真っ黒になった新品の雑巾やパソコンラックの上から降り続けてくる綿埃を見てしまえば受け入れる以外ない。なんせ埃はパソコンの大敵だ。中にたまった熱気を放出するためのファンの穴がまさかびっしりと埃で詰まっていて、そのまま使い続けていたら丹精込めて作り上げたパソコンから火が立ち上るところだった。
複数台あるパソコンの蓋全てを開けて丁寧に掃除する遥人に、隆則は見入ってしまった。掃除機で大まかな埃を吸い取ったあと、雑巾と綿棒だけで本当に綺麗にしていたのだ。そんなことをする時間があったら資格の試験をすればいいのに「五十嵐さんの大切な仕事道具でしょ」と笑っては大切に扱うのだ。
(バカ……そんなこと言われたらまた変な気持ちになる)
アスファルトで固めたはずの心の僅かな隙間をくぐって恋の若葉が芽吹き始める。花が咲くことも種を落とすこともないのになぜ芽を出そうとする。結果は決まっていて、こんな気持ちを抱いていると知られたら絶対に気持ち悪がられて出ていかれる。ゲイなんかと暮らすよりも野宿のほうがましだと思うに違いない。
隆則はそっと若葉を抜き取ろうとした。なのにしっかりと根が張られているのか、どんなに引っ張っても引き抜くことができない。
(もうやめたはずだろ)
恋してもらえると期待することを。一人で生きると決めて、そのために頑張って仕事だってしている。辛そうにしていた彼に手を差し伸べて感謝されるだけで満足しろ。何度も心に叱責を飛ばしては成長しようとする若葉を抜きにかかる。
出ている部分は小さいはずなのに、張った根は心の奥深くまで届いてしまったように抜け出そうとはしない。
(バカ……変な気は起こすな)
どうせ愛してもらえないなら初めから期待なんかしなければいい。相手は15歳も年下の大学生で、しかもノンケだ。優しくしてくれるのだって衣食住を提供しているからで、隆則が雇用主だからだ。
どんなに自分を落ち着かせるための言葉を心の中で吹き荒らしても、どんどんと遥人へと向かっていく気持ちを止めることができない。
掃除で疲れているだろうにきちんと夕食の準備をして一般人が当たり前だと思う時間に綺麗にテーブルに並べられる。
隆則は気付いていなかった。気持ちだけではない、胃袋までもが遥人を求めていることを。優しい味わいの料理たちに疲弊しきっている胃袋がどれだけ癒され活力を見出しているのかを。
出汁の効いた澄まし汁を啜りながらどれだけほっとしているのかを。
「美味しいですか?」
正面に座りながら同じものを摘まむ遥人は必ず訊ねてくる。
「うん……こういうの好き」
お椀で顔を隠しながら小声を吹きかける。
「良かったです。五十嵐さんの好きなものがあったら教えてください。俺、作りますから」
「あ、うん。特にこれってのなくて……でも、この間作ってくれたおじや、手を付けなくてごめん」
満腹はデスマッチの最大の敵。胃袋が満たされればついにやってくる眠気に抗えなくなるからと、気を使って作ってくれたのに手を付けずにいたことを随分とたった今になって詫びる。
どうしたらいいのだろうか。考えても答えは出ない。
今更遥人を放り出すこともできないし、彼がいることで助かっている部分のほうが大きい。とてもじゃないが毎日コンビニ弁当という生活には戻れなかった。なんせ遥人の作るご飯は優しい味で胃袋だけでなく隆則の心まで満たしてくれる。そして常に清潔な住環境がこれほどまでに心を豊かにしてくれるのだとも知らなかった。片付けが極端にできない隆則は、足元を気にしなくても歩ける自宅というのを久しぶりに体験し感動し続けている。全自動掃除機があっても床に散乱している物は片づけてくれない。
なによりも仕事に熱中して食事を取らなくなったとわかるとさりげなくテーブルに菓子が置かれてあるのが嬉しい。
けれど、どんなに仕事に集中し続けても、遥人の存在がそこにあると思うと諦めていたはずの恋心がざわめき始める。自然と彼へと向かってしまう気持ちや感情を必死で押し殺しながら、忘れろ諦めろと心に何度も言葉の鞭を撃ち続けても消えようとはしない。むしろ優しくされるたび気遣われるたび笑顔を見せられるたびに大きくなっていく。
「あーでも……」
「いい機会だから洗っちゃいましょう」
笑顔でガンガンに詰め寄られてしまえば強く出られない隆則は頷くしかなかった。同時に周囲を見回した。
(あ……なるほど)
日差しを取り込むためのベランダの窓は磨き抜かれ雨のあと一つないし、網戸も黒く汚れていない。きっとすでに大掃除は終わっていて残すは仕事で籠りきりになっている隆則の部屋だけなのだ。
仕事がひと段落するのを几帳面な彼はずっと待っていたのだろう。
家事ができない隆則に言えるのはただ一言。
「よろしくお願いします」
「任せてください。では早速部屋に入らせてもらってもいいですか?」
きちんと確認を取るあたりが遥人らしいなと思いながら頷く。
遥人はあの太陽のようにまぶしい笑顔を浮かべると掃除道具を手に隆則の部屋へと入っていった。
喫煙癖はないがしっかりと年齢に見合った体臭が充満している部屋のカーテンを開くと窓を全開にして空気の入れ替えを始めた。
そして布団とシーツを剥ぐと何年もそのままにしているマットレスを持ち上げた。
「えっ、なにしてるんだ?」
「ベランダで天日干しします。そのほうが匂いなくなりますから」
「はぁ……」
マットレスというのは壊れるまでそのままベッドの上に置かれるものではないのかと驚きながらも、遥人の指示に従って触られては困るものを収納ケースの中へと片付けていく。
ベランダにマットレスを立てかけると遥人は布団を洗ってくるとそれらを大きな専用カバーに入れ出かけて行った。
「いってらっしゃい……」
見送るために赴いた玄関も、久しぶりにじっくり見れば隅の隅まで埃一つない。それどころか、つやつやとコーティングされたかのように輝いている。
もしやとシューズボックスを開けばそこも綺麗になっており、放置している革靴が磨かれているどころか、履き続けているスニーカーまで新品の頃のように白くなっている。
「プロの家政婦並み?」
一介の大学生のはずなのにこんなことまでできるのかと感心するしかなかった。
遥人はきっと嫌なのだろう、住んでいる家に汚れた個所があるのが。特に全自動掃除機すら締め出されている隆則の部屋は魔窟と呼んでも差し障りないありさまだ。
「……綺麗にしよう」
印刷した仕様書の束が散乱している床を歩きながらどこから手を付けていいのかわからず、とりあえずとばかりにキーボードの隙間掃除をし始めた。帰ってきた遥人に笑われたのは言うまでもない。
その日の夜遅く、ようやく綺麗になった部屋を見て隆則は呆然とした。
そうとしか言いようがない。
引っ越して以来見たことのないような美しさだ。
プリンターにかぶっていて当たり前の埃もなく、ぐちゃぐちゃだったクローゼットの中も一目見ればどこに何があるのかわかるようになっている。しかも床に散乱した書類は綺麗に会社やプロジェクトごとに束ねられパソコンの積み上がっている。さすがに守秘義務を含むものが多いためそのまま紙ごみとして捨てられないので仮置き場だと遥人は言った。
そしてなによりも、あんなに体臭を放出していた寝具一式が購入時よりも馨しくなって定位置に鎮座している。どんな魔法を使ったのか以前よりもずっと白さが目立つのは気のせいだろうか。
「明日にはシュレッダー買ってきますので、それで紙類は処分しましょう」
「それなら今からネットで注文したら明日届くから」
「では届いてからにしましょう。……あと、できればなんですが、お仕事が終わった後でいいので掃除に入らせてもらってもいいですか? 仕事中は絶対に邪魔しませんから」
そう言いたくなる気持ちを今日一日でよくわかった。マンションを購入してから全くと言っていいほど手入れしなかった部屋の掃除に丸一日を要してしまったのだから。これがこまめに手が入ればこれほどの苦労はしなくて済むし、遥人の負担が減るに決まっている。
「ごめん……よろしくお願いします」
頭を下げて頼む。真っ黒になった新品の雑巾やパソコンラックの上から降り続けてくる綿埃を見てしまえば受け入れる以外ない。なんせ埃はパソコンの大敵だ。中にたまった熱気を放出するためのファンの穴がまさかびっしりと埃で詰まっていて、そのまま使い続けていたら丹精込めて作り上げたパソコンから火が立ち上るところだった。
複数台あるパソコンの蓋全てを開けて丁寧に掃除する遥人に、隆則は見入ってしまった。掃除機で大まかな埃を吸い取ったあと、雑巾と綿棒だけで本当に綺麗にしていたのだ。そんなことをする時間があったら資格の試験をすればいいのに「五十嵐さんの大切な仕事道具でしょ」と笑っては大切に扱うのだ。
(バカ……そんなこと言われたらまた変な気持ちになる)
アスファルトで固めたはずの心の僅かな隙間をくぐって恋の若葉が芽吹き始める。花が咲くことも種を落とすこともないのになぜ芽を出そうとする。結果は決まっていて、こんな気持ちを抱いていると知られたら絶対に気持ち悪がられて出ていかれる。ゲイなんかと暮らすよりも野宿のほうがましだと思うに違いない。
隆則はそっと若葉を抜き取ろうとした。なのにしっかりと根が張られているのか、どんなに引っ張っても引き抜くことができない。
(もうやめたはずだろ)
恋してもらえると期待することを。一人で生きると決めて、そのために頑張って仕事だってしている。辛そうにしていた彼に手を差し伸べて感謝されるだけで満足しろ。何度も心に叱責を飛ばしては成長しようとする若葉を抜きにかかる。
出ている部分は小さいはずなのに、張った根は心の奥深くまで届いてしまったように抜け出そうとはしない。
(バカ……変な気は起こすな)
どうせ愛してもらえないなら初めから期待なんかしなければいい。相手は15歳も年下の大学生で、しかもノンケだ。優しくしてくれるのだって衣食住を提供しているからで、隆則が雇用主だからだ。
どんなに自分を落ち着かせるための言葉を心の中で吹き荒らしても、どんどんと遥人へと向かっていく気持ちを止めることができない。
掃除で疲れているだろうにきちんと夕食の準備をして一般人が当たり前だと思う時間に綺麗にテーブルに並べられる。
隆則は気付いていなかった。気持ちだけではない、胃袋までもが遥人を求めていることを。優しい味わいの料理たちに疲弊しきっている胃袋がどれだけ癒され活力を見出しているのかを。
出汁の効いた澄まし汁を啜りながらどれだけほっとしているのかを。
「美味しいですか?」
正面に座りながら同じものを摘まむ遥人は必ず訊ねてくる。
「うん……こういうの好き」
お椀で顔を隠しながら小声を吹きかける。
「良かったです。五十嵐さんの好きなものがあったら教えてください。俺、作りますから」
「あ、うん。特にこれってのなくて……でも、この間作ってくれたおじや、手を付けなくてごめん」
満腹はデスマッチの最大の敵。胃袋が満たされればついにやってくる眠気に抗えなくなるからと、気を使って作ってくれたのに手を付けずにいたことを随分とたった今になって詫びる。
応援ありがとうございます!
48
お気に入りに追加
773
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる