⚖️東京湾 ダンジョン都市クライシス〜異世界市長 万の民を背に、固定資産税と斯く戦えり〜

アリス&テレス

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東京湾の一番長い夜

国益と誤認

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【日本政府 / 国益と誤認】

01:45 首相官邸・地下危機管理センター オペレーションルーム

 巨大なオペレーションルームを支配しているのは、静かな狂気だった。

 数百台のサーバーが発する微かな低周波音と、高度に空調管理された乾燥した空気が、居並ぶ官僚たちの肌を刺す。

 壁一面の大型モニターには、暗視モードで青白く映し出された「城塞の島」が浮かんでいた。どこか不吉な幽霊船のように。

 白石総理は、使い古された万年筆を指先で弄んでいた。

 それは彼が難局を乗り越える際の癖だが、今この瞬間、その小さな文房具は数百万人の命運を左右する「決断の天秤」のように重く感じられた。

 白石は、会議室の隅で影のように控えていた一人の男に視線を向けた。

 財務省から内閣官房へ派遣されている、統合連絡官だ。

「……ところで、財務省。君がここに呼ばれた理由はなんだ? 魔法の使い道でも予算化するつもりか?」

 白石の、疲労の混じった皮肉にも、連絡官は眉一つ動かさなかった。

 60代。
 財務省主計局で「修羅場」と呼ばれる予算編成を三十年支え、
 数々の政治家を数字の海に沈めてきた、実務の化身である。

 彼は一歩前に出ると、手元のタブレットに視線を落としたまま、法務省との事前調整を済ませた結論を口にした。

「はい。法務省とも協議いたしましたが、この『島』の法的地位について、現行法に基づく解釈を報告いたします」

「手短に頼む。私は今、お役所の長い前置きを聞くほど気が長くない」

 連絡官は淡々と続けた。

「了解いたしました。突如出現した土地が、他国の領土であるという国際法上の明確な証拠がない限り、国内法においては以下の法理が適用されます」

 その声は、まるで自動音声案内のように平坦だった。

「国有財産法第5条、および民法第239条第2項に基づき——」

 彼は一度、言葉を区切った。

「公有水面において自然作用により生じた新たな土地は、『無主地』として国庫に帰属します」

 会議室の空気が、奇妙な沈黙に包まれた。

「つまり閣下、あの島は出現したその瞬間から、法的には日本の国有財産です」

 東京湾のど真ん中に現れた、物理法則を無視した異界の拠点。

 それを日本政府は「道端に落ちていた財布」と同じ扱いで、事務的に接収しようというのだ。

 連絡官は容赦なく続けた。

「そして、島内に存在する建造物や居住者について——」

 彼はタブレットを一度タップした。

「不動産登記法に基づく登記が存在しない以上、彼らは『国有地への不法占拠者』となります」

「……本気で言っているのか?」

 外務大臣が、呆れたように声を漏らした。だが、連絡官は瞬き一つしない。

「申し訳ありません。私情ではなく、法がそう命じております」

 彼は間を置かず、次の爆弾を投下した。

「続いて、仮に彼らに一定の占有権を認め、住居を認める場合ですが——」

 連絡官がタブレットを操作すると、モニターの端に暫定的な試算表が躍り出た。

「地方税法第343条および第702条に基づき、固定資産税および都市計画税の課税対象となります」

 白石の額に、うっすらと汗が浮かんだ。

「直径約5キロメートル、面積約20平方キロメートル。浦安沖の一等地です」

 数字が、冷酷な現実を突きつける。

「暫定的な路線価を当てはめれば、評価額は数兆円規模。年間で数千億円の納税義務が発生します」

 白石は、こめかみを強く押さえた。

「一つ聞くがね。あの城の住民が、日本円を持っていると思うかね?」

「存じ上げません」

 連絡官の返答は、機械的だった。

「納税が困難な場合は、国税徴収法が適用され、島内の動産・不動産を差し押さえるまでのことです」

 白石は、深く息を吐いた。

「……つまり、日本の法律を厳格に適用すれば、『島は国のもの、住人は不法占拠、認めたとしても納税不可で即・差し押さえ』か」

 彼は苦笑した。

「お役所仕事というのは本当、容赦がないな」

 白石は、モニターの中の『島』を凝視した。

 焚き火を囲み、傷ついた仲間を介抱しているように見えるあの連中が、日本政府のこの「事務的な正論」を聞いたらどうなるか。

(……決まっている。あの謎魔法で武装蜂起するだろうな。私でもそうする)

 事務的な正論は時として、最強の宣戦布告になりえる。

 その時、ルームの防音ドアが勢いよく開き、切迫した足音が響いた。

「総理! 経済産業省より緊急試算が出ました!」

 経済産業省の連絡官。
 サプライチェーンの脆弱性を叩き込まれた、エネルギー安全保障の精鋭だ。

 彼は白石の前に滑り込むようにして、タブレットを突き出した。

「現在、安全確保のために羽田空港の全便欠航、および東京湾への商船入港を禁止していますが——」

 彼は一度、唾を飲み込んだ。

「この状態が続いた場合の経済損失額です」

「いくらだ」

「1日あたり、概算で5,000億円を超えます」

 会議室が、物理的に震えたように感じられた。

「5,000億!? 1日でか!」

 国交大臣が絶句し、背後のパイプ椅子を倒した。

 経産省連絡官は、震える声で続けた。

「川崎、横浜、東京の三港を経由する貨物量は、年間約3億トンに達します」

彼の額には、汗が浮かんでいた。

「これが一秒止まるごとに、日本経済の毛細血管が壊死していくと考えてください。
 京浜工業地帯への原油・LNG供給も間もなく臨界点を迎えます」

 その声は、もはや悲鳴に近い。

「総理。三日です」

 彼は白石を真っ直ぐ見つめた。

「この封鎖状態が三日続けば、日本経済は心肺停止、
 致死性のダメージを負います。
 週明けのマーケットが開けば、日本発の金融パニックが世界を襲うでしょう」

 白石は、万年筆を指が白くなるほど強く握りしめた。

 魔法が怖い。怪物が恐ろしい。

 だが、それ以上に恐ろしいのは、何もせず立ち止まっている間に、国家という名の巨大なキャッシュフローが心不全を起こすことだ。

「……高城危機管理監」

「は」

「海上保安庁を出す。自衛隊は後方で待機だ。警察権の範囲内で、最大限の調査を行わせろ」

「了解いたしました。では、どの船を出しますか?」

 高城が問いかけると、官邸内のモニターに一隻の巡視船のデータが踊った。

 第3管区横浜海上保安部所属、PLH-32『あきつしま』。

「3管に、偶然にも『あきつしま』が帰港しています」

 高城はモニターの船体を指差した。

「長期間、海防の最前線である外洋警備に従事し、先週メンテナンスのために戻ったばかりです。現在『島』の監視任務中」

 彼は言葉に力を込めた。

「あきつしまは世界最大級の巡視船であり、それ自体が動く司令部です。複雑な多機関連携を統括できる指揮通信能力を備えています」

 高城は一度、白石を見た。

「何より、極限の緊張感漂う国境の海で、数々の『グレーゾーン事態』を潜り抜けてきた熟練のクルーが揃っています」

 彼は断言した。

「この不確かな島に対し、冷静な法的判断と、必要最小限の実力行使を両立できるのは、彼ら以外にいません」

 白石は決断した。

「『あきつしま』を出せ」

 彼は、モニターの島を見据えた。

「……彼らが『話の通じる相手』であることに、日本の国運を賭ける」

01:55 羽田沖

 島から5km、島を監視していた、6,500トンの鋼鉄の巨躯が胎動を始めた。

 艦内では、非常招集に応じた乗組員たちが、無言で、しかし電光石火の速さで作戦行動準備を進めている。

 彼らの表情には、長年の外洋勤務で刻まれた、特有の険しさがあった。

「あきつしま」の重厚なエンジン音が、夜の静寂を震わせた。

 船橋に立つ佐藤船長は、双眼鏡を首にかけ、漆黒の海の先に浮かぶ「謎の影」を見据えていた。

「目標へ微速前進。海底地形変化を確認しながらだ」

 彼の声が、静かに響く。

 「Sマーク」を掲げた日本の盾が、東京湾の深淵へと、静かに、そして力強くその艦首を向けた。

 この判断が、救済への第一歩となるか。それとも、東京湾を血で染める宣戦布告となるか。

 歴史の分岐点は、一隻の巡視船のスクリュー音と共に、静かに幕を開けた。​​​​​​​​​​​​​​​​
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