ガングの剣

大秦頼太

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 夜。木々と雲の隙間から星が幾つか見えた。
 森の中には獣の匂いがよどみ溜まっていた。
 硬いむき出しの土くれだった崖の下に一人の男が座り込んでいた。岩の陰に見を潜ませながら小さく燃える焚き火に手をかざしてはその熱を身体に刷り込んでいる。その目は火を見ていない。何かを捜すように森の闇の中に視線を泳がせていた。
 男の名はロワーゼ。大人ではないが子どもでもなかった。背はそれほど高くないがガッシリとしている。身を包む薄手の毛布の下には、色あせた革鎧が見える。
 虫たちの合唱の合間に野犬の遠吠えが聞こえてくる。ロワーゼは岩に背中を押し付ける。
 今にも消えそうな小さな焚き火。そのかすかな光に照らされるロワーゼの油っぽい黒髪。
 ロワーゼが身を捩ると毛布の隙間から一振りの白刃が夜に触れる。眉間にシワが寄るほど強く目を閉じるが寝る気配はなかった。再び目を開けると、剣を右手に握り直し闇の中に開放した。柄にはめられた青い宝石が周囲の光を吸い込み、その刃を輝かせる。
 ロワーゼは深く息を吸った。
「もう、無理かな」
 そう小さく呟いた。
 剣を握る手に力が込められる。別段変化はない。ロワーゼの目は剣に向けられている。
「みんな普通に生きていたのに」
 焚き火の中に剣を刺し入れてかき消す。火は消えたが辺りは星の明かりでぼんやりと明るかった。
 そばにあった革袋を手元に引き寄せると、中にあった鈍く輝く小手を取り出す。それは小手というより金属製の義手だった。
「親方……」
 ロワーゼは義手をしばらく見つめた後、再び革袋の中にしまいこんだ。
「虫の声がやんだ?」
 素早く立ち上がる。右手には剣。毛布と革袋を左手に急いでその場を離れる。木々の間の茂みに伏せて身を隠す。
 森は、風もなく穏やかで不自然なほどの静けさだった。
「気のせいか」
 ロワーゼが剣を杖に身を起こそうとした瞬間、その刃が硬いものを弾いた。驚いて飛び退けば近くにあった木に左肩を強打する。それでも、移動することは止めずにその場を離れて闇の中に目を凝らす。
「勘がいいな。さすが奴の弟子だ」
 太い男の声だった。姿は見えない。まるで森の死霊の声だ。
 ロワーゼは剣を左右に振り回す。
「ちくしょう! よくも! よくも!」
 森の死霊の姿を捉えることは出来なかった。草や木を斬るだけだった。
「すぐに会わせてやる」
 森の死霊の声は真後ろからだった。
 ロワーゼが振り返ると黒い影が闇の中に消えていく。金属のきらめきが襲い掛かってくる。撃ち落とすように剣を振るうと刃同士がぶつかり合い火花を散らす。すると、森の死霊の正体を浮かび上がらせるのだった。
 黒い外套に身を包んだ男。その手には幅広の短剣が握られていた。
「お前が死ねば、済む」
 男は闇に紛れてロワーゼに斬りかかる。ロワーゼも男の刃を撃ち落とそうと剣を繰り出すが、ほとんどはかわされて捉えることが出来ない。ひらめく刃はロワーゼを切り刻んでいく。致命傷こそ無かったが、攻撃を受けるたびにロワーゼの動きはどんどんと鈍くなっていった。
「どうだ? 死が見えるか? もうすぐそこだぞ」
 黒い外套の男が言った。
 ロワーゼの皮の鎧の隙間には小さな切り傷。足元がフラつき態勢を崩したところに黒い外套の男の必殺の一撃が繰り出される。
 強烈な金属のぶつかる音。
 黒い外套の男の短剣がロワーゼの喉を貫こうとした瞬間、転びかけたロワーゼの左手が持っていた剣の柄を打った。剣は軌道を変化させ、それが偶然にも短剣の刃を弾くことになった。
 なんという強運だろう。だが、次の攻撃は防げなかった。鋭い突き攻撃がロワーゼの肩を貫いた。
 絶叫。
 逃れるように身を捩りロワーゼは剣を振るった。だが、空気と草をいくらか切り裂いただけで切っ先は地面に落ちる。男は再び闇の中に消えた。
 倒れこむ身を木に押し付けながらなんとか起き上がる。
「悪運の強いやつだ」
 物音や声が聞こえるたびロワーゼは剣を振るうが、その手にはすでに力が入っていなかった。それでも時折紛れ込んでくる致命の一撃だけは必ずと言っていいほど剣で防いだ。
「素晴らしい」
 男が言った。
 ロワーゼは声に背を向けた。木にぶつかり、下草に足を取られながら、その場から離れようと必死に歩み始めた。その顔は汗と涙と泥、血と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
 追ってくる気配はない。ロワーゼが倒れることを知っているのだろうか。
 不意に森が切れ山道に入り込んだ。その坂道を転げるように下り始める。
「誰か、助けて……。親方……、マビル……、バペル……。僕を助けて……」
 ぶうんという低い唸りを聞こえて、何かがロワーゼの足を地面からさらった。そのまま勢いをつけて坂道を転がる。ロワーゼの足に縄のようなものが巻き付いていた。その先には黒い鉄球が付いている。両足に絡みついた縄を切ろうと振り上げた剣が背中越しに現れた黒い外套の男の短剣を受け止める。
「またか!」
 両足の自由も利かない。左肩も上がらない。今や右手しか使えない。そんなロワーゼに対し黒い外套の男は攻めあぐねている。
 黒い外套の男は懐から尖った棒を取り出しロワーゼに向かって投げつける。ロワーゼの剣がそれを弾くや、その腕を黒い外套の男が蹴り飛ばし、そのまま地面に押しこむようにロワーゼの右手首を踏みつけた。そうして自由を奪うとゆっくりとロワーゼの喉元に短剣の切っ先を当てる。
「やはりこの剣か」
 黒い外套の男は軽く短剣を持った手を振り上げる。振り下ろせば得物の喉を切り裂いてすぐに殺せる。それは簡単な作業のはずだった。
 短剣が振り下ろされた瞬間、ロワーゼは身をよじりながら左腕を上げた。左腕が短剣によって横に切り裂かれる。革鎧の手甲を超えてその皮膚をも。だが、ロワーゼも反撃をすることができた。攻撃を受けると同時に黒い外套の男はロワーゼの両足で蹴り飛ばし黒い外套の男を地面に転がした。
 ロワーゼは黒い外套の男を無視してすぐさま両足の縄を斬る。山道の中央に立てば黒い外套の男が身を隠す場所もなくなる。ロワーゼの目が黒い外套の男を探す。
 横を薙ぐ黒い影の短剣を剣が受け止める。無理な姿勢で受け止めたために姿勢が泳ぐ。その隙を突いて黒い外套の男の蹴りがロワーゼの胴を襲う。ロワーゼの手から剣が離れ互いに離れ離れとなり再び地面の上に転がる。
 必死に身体を起こしあたりを見れば、黒い外套の男は山道の真ん中に立っていた。さっきまで右手の中にあった剣を探す。見つからない。
 剣はどこを見ても見つからない。木々の下草の中に埋もれたのか、それとも枝葉の間に入り込んでしまったのか。剣は見当たらなかった。
「もうダメだ」
 ロワーゼは迫り来る黒い外套の男に……。
 黒い外套の男は先程と変わらぬ位置でロワーゼを見ていた。その体が小刻みに震えているように見えた。必死に何かに抵抗しているようだった。急に両手が突っ張ったように地面を差しその手から幅広の短剣が滑り落ちて地に突き刺さった。
「大丈夫かい?」
 ロワーゼの背中側から声が聞こえた。優しそうで落ち着いた声。ロワーゼは振り返ることが出来なかった。
 隣に司祭服を着た男が現れる。司祭服の男はロワーゼの前を通り黒い外套の男に近付いていく。
「こいつはダメだな」
 司祭服の男は呟いた。ロワーゼに向き直ると笑顔を見せた。年の頃は三十過ぎぐらいで肌は青白い。美醜を言うのなら明らかに前者だった。
「やはりあなたにお願いをするしかないようだ」
 司祭服の男は左手を上げると軽く空気をつかんで手首を返した。瞬間、黒い外套の男の体がミシミシと音を立て始める。
「私はラディオール」
 そう言って司祭服の男ラディオールは笑顔で右手を差し出した。
「よろしくラディオールさん」
 ロワーゼはごく自然にその手を握り返した。ついさっきまでの戦いなど無かったかのようだった。
「アー!」
 黒い外套の男が悲鳴を上げる。
 ロワーゼの目がそれを見る。黒い外套の男は縦に引き伸ばされながら右と左にねじれていく。ボキ。バキ。ミチミチミチ……。森の中ではあまり聞くことのない音があたりに響く。
「荷物を拾い集めましょう」
 ロワーゼはラディオールに付き従いながらあたりに散らばった自分の荷物を集め始める。黒い外套の男の死骸の後ろで飛ばされた剣もすぐに見つかった。

 *

 ロワーゼは一人、硬いむき出しの崖の下で岩の影に身を隠すように焚き火をしている。その目が不意に焚き火の炎に気がつく。
「あ、そうだ。行かなくちゃ」
 立ち上がると革鎧には切り傷が無数に残されていたが、身体には少しの傷はなかった。
 荷物を持って歩き出す。

 残された火が風に揺らぐ。その風に運ばれてやってきたのか真っ黒い団子のような甲虫たちが焚き火の中に飛び込んでいく。炎に身を焼かれながらも甲虫たちは火の底にある燃料にむさぼりつく。甲虫たちが我先にと争うのは黒焦げた人の腕だった。炎に焼かれ死んだ仲間をあとから来た別の甲虫が死骸を噛み砕く。他に食べるものがなくなると共食いを始め最後の1匹になった甲虫はゲップをするとそれとともに空気の中に掻き消えた。
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