ガングの剣

大秦頼太

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 穏やかな風が丘の上を流れる。 
 山と緑に囲まれた静かな道。それらに抱きつくように小さな村落があった。村の中心には崩れかけた井戸があり、村人たちが石の洗い場で洗濯をしているのが見えた。
 村の横を沿うように先へと伸びる道と村の外れから丘へと登っていく道とがあるが、村を行く者はほとんどと言っていいほど丘には近寄らなかった。背の高い穀物畑を行く時でさえどこか避けている素振りを見せるのだった。
 丘の上には石造りの大きな作りの一軒家が建っていた。村の貧しさと比べると似つかわしくない重厚な作りだった。
「魔道士の息子が来たぞ! みんな逃げろ!」
 波立つ緑の立草の中を子どもたちがかけていく。
「捕まったら虫の餌だ!」
 ひときわ高い声が上がると子どもたちは散り散りになって草の中に身を隠してしまう。
 丘の家に向かう道の途中で、デールという栗色の髪の毛をした男の子がぽつんと立ち尽くしていた。水の入った桶を両手でしっかりと抱きかかえ、目には涙をためていた。ぐっと堪えると再び歩き出す。
 そのデールの背中に草の中から罵声が浴びせかけられる。
「捨て子捨て子! お前の母ちゃんどこ行った! お前の父ちゃんどこ行った!」
 その声をデールが無視し、丘へ歩き出すと、バラバラと小石が投げつけられてきた。多くは見当違いの方へ飛んでいったが、そのひとつがデールの背中から肩にかけてぶつかった。桶を手放しうずくまるデール。桶の水はあっという間に地面に吸い込まれてしまう。
「やったな!」
 デールは小石を拾い草むらを見る。
「お前らの大好きな虫だぞ! 食われちまえ!」
 そう言いながら石を草むらに投げると、石が潜り込んでいった先から悲鳴が聞こえた。
 デールは桶を拾い丘の上を目指してかけ出した。後ろから鳴き声と罵声が聞こえた。
 丘の上の家には入り口が2つあり一方は頑丈な古い扉でもう一方は真新しい木戸だった。
 その木戸の前に白髪の老人が立っていた。深いシワのせいか表情は読み取れない。
「ヘンデ、何か用?」
「ロワーゼはいるかい?」
 ヘンデが言った。
「見てたんだろ? 何も言わないの?」
 デールは空になった桶を木戸の傍に置くと古い扉を強く叩いた。
「ロワーゼ、いるんでしょ? 開けるよ」
 デールが全身を使って古い扉を開けると、むせ返るような熱気と金属と金属がぶつかる音が外に押し出されてくる。
 赤く燃える炉の前でロワーゼが一心不乱に鎚を振るっていた。煤けた衣服。鉄をつかむ鋏を握るために分厚い手袋を左手に汗と埃と煤で汚れた顔は熱で焼けていた。
「そこに置いといて」
 振り返らずにロワーゼは仕事を続ける。
「わしだ。ヘンデだ。ちょっといいか?」
 ヘンデがデールを静かに押しやって暗闇の中に入ってくる。
 ロワーゼは手に持った道具を鉄床の上に置いてゆっくりと光の方へ向き直った。
「何か用ですか?」
「元気か? 明日、街まで出るんだが何か会ったらと思ってな。どうする? 具合が悪いなら買い物だけでもしておいてやるぞ?」
「早いですね。もうですか?」
「まぁ、人はあっという間に年老いていくもんだ。この歳にもなると一日はそれは恐ろしい早さよ」
 などと適当に相槌を入れながらヘンデは物珍しげに鍛冶場の中を見回した。ロワーゼの方も腕を組んで考え込んでいるので気がついた節もなかった。
入口の右側にはとにかく沢山の道具が棚の中に納められている。下の方には大きな革袋が五つほど転がり近くにさらに置くへと続く扉があった。扉の向かいには真っ赤に燃える釜戸があり隣にとってのついた置物が置かれている。壁際には鈍い輝きの剣がいくつか無造作に立てかけられていた。
「行く。月に一度のことだしね」
 そこで初めて気が付いたのだろう。ロワーゼはヘンデの視界を遮るようにして立ち上がる。立ち上がるとロワーゼのほうが頭半分ほど高い。ヘンデもそれを受け流すようにして部屋の中を興味深そうに覗いていた。
「じゃあ、荷車の車輪を直しておいてくれ」
「ちょっと、先月直したばかりですよ? もっと大事に乗ってくださいよ」
 ロワーゼは不平顔をする。変では笑いながら入口のそばにあった椅子に腰掛ける。
「いいじゃん。さっさと直していこうよ」
 そのそばでデールが目をキラキラさせながら喜ぶ。桶はすでに部屋の隅に投げ捨てられている。
「もっと丈夫なのを作ってくれればいいんだよ」
「使い方が悪いんだよ。それに俺、木はほぼ専門外だし」
 ロワーゼは言いながら手袋を外す。分厚い手袋はなかなか外せないのでまたに挟んで引き抜く。勢い余って手袋は土の床の上に落ちた。かがんでそれを拾う。
「職人がそんな言い訳して良いのか?」
 ヘンデは笑った。
「しょうがないだろ。色々思い出しながらやってるんだから」
 ため息を付きながら顔を上げるとヘンデの姿はもうそこにはなかった。デールが外を指差していた。ロワーゼは仕事場を見ながらため息をついた。
「二年か。もうそんなに経つんだな。なんだか早すぎてあんまり変わった気がしないけど」
「そうだ。ご飯まだ?」
 と、デール。
 ロワーゼは両手を上げて立ち上がった。
「今日からロワーゼの番だよ。忘れてた?」
「忘れてた」
 その顔に向かって手袋が飛んで来る。
「わかったよ」
 ロワーゼは部屋の奥にある扉に向かっていく。
 デールは背中側の古い扉を閉めて閂をかけた。その後ろからロワーゼが声をかけた。
「昨日のシチューが残ってたよな? あれとパンにしようか?」
「それじゃあ、僕がやったほうがマシだよ」
 デールは床に落ちている手袋を拾い上げる。
「そう言うなって、忙しいんだからさ」
 ロワーゼの姿が扉の奥に消える。
「どうせ大したもの作ってないくせに」
「なにか言ったかー?」
「何も」
 デールは椅子の上に手袋を置いて奥の扉へ向かう。と、突然走りだした。
「ロワーゼ! パンをそのままいれないでよ!」

 *

 今にも降り出しそうな曇り空の下、荒野の中の道をボロをまとった男が立っていた。ゆっくりと前に向かって歩いているようにも見えた。
 男の体を包むのは垢や泥だった。おそらく汗の匂いが相当にきついだろう。バラバラと乱れるままに伸びた髪の毛と揃えられることもなく放置されたヒゲ。土埃や無視がからみ合って外殻のようになってしまっている。
 男の目には光がない。ボロの中からねじれた左手を出し、枯れ木のような身の歩みは今にも地面に倒れ込みそうなものだった。ようやく引きずり出されながら出される足は金属の足枷で繋がれていた。
 あれから二年。ルゼロはまだ生きていた。
 時折すれ違う旅人や追い越していく馬車の中から好奇の視線が投げつけられてもルゼロは一向にかまわなかった。
「よぉ、どこまで行くんだ? 乗って行くか?」
「爺さん。逃亡奴隷だよ。声をかけるなって」
「バカ、見てみい。哀れもんじゃって」
 情をかけてくれるものもあったが大抵の場合は同乗者の拒否にあう。それでも馬車に乗せてもらい距離を行くこともあった。
「今の見た? ひどい格好」
「ああはなりたくないね」
「あぶねえな! さっさと避けろ!」
 聞こえよがしに邪魔者扱いをされるのが常だった。
 それでもルゼロは歩き続けた。どこに向かうのかも分からずに。
「マテアー、お前も騙されてるんだ」
 人気がなくなるとそんなつぶやきが口から漏れ出す。喉の奥側からかすれた笑い声が出る。
「これが報いか」
 左腕を持ち上げる。顔の前に明後日の方を向いた左手がやってくる。親指と薬指だけが動いたが、あとの指はピクリともしない。
「それとも、これが求めていた自由なのか?」

「……」
 ルゼロの耳に何かが届いた。歩みを止める。
「兄さん」
 マテアーの声に振り返る。黄土色の大地。不規則に草地が点在している。雲の流れは早く、風の音が強かった。
 そこにはルゼロ一人しかいない。
「兄さん。私、お城で働くことになったのよ。そこで見聞きしたことをガシュトー様に報告するのがお仕事なんですって、変よね」
 ルゼロは辺りを見回す。声の主は見つけられない。
「これからは兄さん一人に苦労はさせないから」
 空から一粒の雨。いや、黒い塊が降ってきた。ルゼロの背中に覆いかぶさるようにまとわりついた。ルゼロのヒザが重さに耐えられず沈む。
 辺りはいつの間にか夜になったのだろうか。
 そうではなかった。夜と似た何か別のものだった。その証拠に空は限りなく暗くても地面は真昼のように明るかった。
「マテアー」
 ルゼロの声は押しつぶされそうだった。彼の背中に絡みつく一人の女の姿。赤い血のこびりついた白い手袋を力いっぱいルゼロの顔にこすりつける。
 マテアーの純白のドレスの上を這いまわるキラキラした真珠色のヒルたち。どこに行く宛もないのかすれ違い合う。
「夢だ」
 ルゼロの呻きを聞いてマテアーの顔が上下反転する。
「そう。夢よ」
 その顔がルゼロの正面に回りこんでくる。化粧を施されたはずの皮膚に黒い血管が浮かんでいる。
「人殺しなんて最低の人生でしょ?」
「好きでやっていたんじゃない」
「あの人たちにもそう言える?」
 マテアーが遠くを指差した。その指の先に不規則に揺れ動く影法師たちが見えた。それらは何かを探しているようにウロウロとさまよい続けている。
「夢だ」
「夢よ」
 マテアーはゆっくりとルゼロから離れていく。
「兄さんを探しているのよ」
「俺はどうすればいいんだ?」
 ルゼロを見てマテアーが笑った。
「もう、手遅れよ。ここよ!」
 マテアーの声を合図に影法師たちの目が一斉に開いた。黄色く濁った無数の目。

 *

 幌のない馬車が街道を行く。左右に小刻みに揺れながら痩せこけた背の低い馬の後ろ姿をロワーゼたちは眺めていた。手綱を取るのはヘンデだった。時折デールも代わりたがったが、馬が進まなくなるのですぐにヘンデと交代することになるのだった。
 村から少し離れてみると景色もだいぶ変わってしまう。遠くに白雪を頂きに抱え連なる山脈も見える。この辺りは耕作地にも向かないためか誰も住もうと思わないようだった。
 空はどこまでも青かった。
「今日はいいのか?」
「ええ、別に悪く無いですよ」
 ヘンデの問いにロワーゼが答える。
「この間は悲惨だったな。乗り物酔いと頭痛のダブルだったか」
「そんなにひどかったの? いつ?」
「デールが風を引いてこれなかった時と、拾い食いをしてお腹を壊してた時かな」
「拾い食いなんてしないよ」
「風邪が感染ったのかと急いで村に戻ればなんでもない顔をしやがってさ」
「だから、いつも元気か? って聞くの?」
「当たり前だろう? 者が壊れた時に直す奴と荷物を運ぶ奴がいないと困るんだから」
「それ、俺のいないところで言ってもらえます?」
 ロワーゼはあからさまに嫌な顔をした。ヘンデは気にする様子もなく続ける。
「ところが、大事を取って村に戻ってきたら急になんでもない顔になってな」
 三人の声が微妙に震えるのは車輪が小石を踏んでいるからだった。
「今日は平気さ。気分だって良いし」
「どうだかな」
 馬車はゆっくりと南に向かって行く。
 デールが大きなあくびをする。
「まだ思い出せないの?」
「いろいろやっては見るんだけどね。技術は多少思い出せるんだけど、後はダメだな」
「じゃあ、ずっと村で暮らそうよ」
 デールがルゼロに言った。ヘンデがその頭をなでてやる。
「デール。こんなロワーゼにだって待っている人がいるんだよ」
「こんなは余計」
「僕には、いない」
 デールは横を向いてしまう。
「デールがいていいっていうんだったらずっといるかな」
 ロワーゼが言った。するとデールはすぐに笑って切り返す。
「ずっとは嫌だ」
 それを見ていたヘンデが笑った。
「なんだ、本当の兄弟みたいだな」
「どっちが兄?」
 デールがヘンデに絡みつく。
「俺に決まってるだろ」
「決まってないよ」
「年が上なんだから、当たり前だろ」
「年だけが上だろ」
 デールの返しにロワーゼは黙った。それを見てヘンデが大きく笑った。ロワーゼの矛先がヘンデに向かう。
「なんだよ」
 それから何かに気が付いたように、ロワーゼはヘンデにある疑問を投げかけた。
「ヘンデは普段、何をしているんだ? 行商にしては商品を見たこと無いし」
 ロワーゼとデールの視線から逃れるようにヘンデはそっぽを向いた。
「わしのことより、お前たち若者の未来を大事にするんだ。未来は若者たちによって切り開かれる」
「なんだそれ」
「若者の時代だって、ロワーゼの場合、バカモノの時代だよね」
「うるさい。デールじゃ不器用だから未来を切り裂いちゃうかもな」
「言ったな!」
「言ったよ!」
 ヘンデを間に挟んでロワーゼとデールが口喧嘩を始める。
「子ども相手にずいぶんとムキになるじゃないか。その感じだと小さいころに何かあったのかもしれんな」
 ヘンデの言葉を受けて、ロワーゼは黙りこんだ。そうして小さく呟いた。
「そうなのかな」

 *

 三人は夕方近くに町にたどり着いた。人の背丈ほどの外壁に囲まれた小さな町だ。東西にある門をくぐるだけ。そこに衛兵のような者はおらず来るものも出て行くものもまばらだった。
 ロワーゼたちが西の門から中に入って行くと、この時間でもまだ商いは続いていたがすでに活気も商品も少なくなっていた。
 立ち並ぶ家々にも人気があまり感じられなかった。
 中央に立つ領主館にもやる気というか生命力があまり感じられず、寒々とした空気が町の中に漂っていた。
「相変わらず寂れておるな」
 ヘンデが呟いた。デールが続く。
「村より少し人と物が多いくらいだよね」
「しょせんは地方って言うことだな。都とは比べられんよ」
 馬車が行き来するための幅広い道は、今はどこか寂しい感じがした。ロワーゼたちの乗る馬車がひときわ高い音を立てて進み、数少ない人たちの目を引いた。一日の終りを決めきれない店主たちの救いを求めるようなその視線から逃げるように馬車は町の中を急いだ。
「気味が悪いよ」
「仕方がない。どこも乾いておるんだ」
 ヘンデがデールの頭をなでた。
 やがて三人を乗せた馬車は宿屋の前で止まった。
「今日はここでいいだろ」
 ヘンデはそう言ったが、宿屋の看板は斜めに傾いているし、ひさしの角には蜘蛛の巣が張っているのが見えた。壁は塗り物が剥がれ落ち虫食いになっていて、埃っぽい。宿屋とは名ばかりで納屋とでも名乗るほうがお似合いな建物だった。
 ロワーゼは嫌な顔を隠さなかったが、変ではそれを無視してさっさと馬車を降りて宿屋の中に入っていく。ロワーゼは店先に馬の手綱を括りつける。それからデールと一緒にヘンデを追った。
 きしむ床。薄暗く商売っけのない狭いロビー。小さなカウンターが真ん中にあり、右には階段、左には続き部屋のようなものがあった。
 埃っぽいカウンターには誰もおらず、薄っぺらい宿帳が開かれていたが何も書かれていない。色あせたそのページを押さえつけるように小さな呼び鈴が置かれていた。それを取ろうとしたロワーゼの脇からデールの小さな手がいきなり現れ、乱暴にむしりとった。
「やらせて」
 声は可愛いが、やることはめちゃくちゃだ。呼び鈴を振り回すように鳴らし続ける。
「はいはい、ただいまただいま」
 木の床を軋ませながらカウンターの左の部屋から中年の小柄で貧相な男がやってくる。客を前にあまり嬉しそうな顔はしていない。
「お食事ですか? お泊りですか?」
 総早口で言うと男は出てきた部屋の方に振り返りながら叫んだ。
「お客さんだ。仕事ですよ!」
 そう言って顔を戻した男の顔には絵に描いたような愛想笑いがあった。
「で、どちらです?」
「泊まりだ」
 ヘンデの隣でロワーゼが付け足す。
「こんな時間だからもう空いてないよね?」
 男は両手を前に出してあらん限りの勢いで首を横に振った。
「いえいえいえいえいえいえいえ。今日は暇なもので。お部屋はありますよ」
 男はそう言うと三人を左の続き部屋の方へと招き入れた。どうやらそこは食堂のようだったが、安っぽい木の丸椅子が五脚とテーブルクロスのない脚のぐらつく長机が一つ置いてあった。明かりは天井から吊り下げられた燭台が数本伸びていて、今はその中の一つが灯っているだけだった。
「ランプじゃないんだ」
「うちよりしょぼいね」
 ロワーゼとデールの囁きは男の耳には届いていないようだった。
「料金は先払いだよ」
 部屋の更に奥から背が高く細い女が現れ、長い釣り目を細くしてロワーゼたちに言った。色あせた黒いスカートに生成りのシャツ、手には前掛けを掴んでいた。
「すみませんね。そういうことで。お一人様、銅貨5枚になります。お食事は別料金です。今お部屋をご用意いたしますのでこちらでお待ち下さい」
 ヘンデは男の出した手の中に銅貨を乗せていく。女はそれをつまらなそうに見てから奥に消えていった。
「どうも」
 男は代金を受け取ると奥に消えていく。しばらくすると奥から男女のいがみ合う声が聞こえてくる。
「どう思う?」
 とロワーゼ。
「どうって?」
 とデール。
「今晩だけだから気にするな」
 とヘンデ。
 部屋の奥から女が現れ、ロワーゼたちの前を通り、カウンターに向かっていった。男がその後を追うようについていく。
「部屋は?」
 ロワーゼが男を呼び止めると、男は後頭部を押さえながら愛想笑いをした。
「今ご用意します」
 男がカウンターに向かっていく。その時、宿屋、いや、町中に女の怒鳴り声が響いた。
「誰だよ! 人の店の前に馬車を止めてるバカは! あんた! 早く移動させないと一生後悔することになるよ!」
 ロワーゼとデールは飛び上がって驚く。
「やばい。繋いだままだ」
 そこに宿屋の男が顔を出す。愛想笑いが引きつっている。
「すみませんが、裏に停めておく所があるんでやってもらえませんか?」

 *

 ロワーゼが外に出ると外はもうじき夜になりそうな様子だった。馬車を裏に回すために手綱をとって引いていく。ふと、顔を上げた瞬間、宿屋の女の声を思い出した。
「一生後悔することになるよ! 」
 そのフレーズがずっと耳の中に残っていた。その声を振り払うように頭を振ると道の向こうから何かがやってくるのが見えた。それは人となった夜なのか、暗闇を一緒に連れてくる。
「人?」
 亡霊のようにも見えたがそれは人だった。ボロをまとった針金のような細い体が、左に右にとふらふらと揺れながらこちらに向かってやってくる。近づいてくるにしたがってそれが只の人間でないことに気が付かされた。
 奇妙にねじれた左腕。両足をつなぐ足枷。
「囚人?」
 両の足をつなぐ鎖が地面をこする。その音がロワーゼの耳にも届く。小さな音だったが、それはロワーゼに届いていた。
 響く。響いてくる。
 ロワーゼは自分の背中の裏、背骨の内側からかすかな声を聞いた。何を言っているかまではわからなかったが、それは明らかにロワーゼを恨む者の声だった。
 ロワーゼはこめかみを押さえながら、地面に膝をついた。顔は苦痛にゆがむ。
 亡霊の男はただ歩いてくる。男が近づいてくるほどに鎖の音と怨嗟の声が響いてくる。ロワーゼの顔に汗がにじむ。手をついて呼吸をしようとあえぐ。
「ロワーゼまだ? 早くご飯を食べに行かない……と……」
 宿から出てきたデールがロワーゼの様子を見て、すぐにヘンデを呼びに行く。通りを行くまばらな人影がロワーゼを見る。
 宿から出てきたヘンデが誰よりも先に見たのはボロの男だった。その瞬間、ヘンデの表情が険しくなった。ボロの男もヘンデの視線に気がついた。ヘンデをじっと見返していた。
「ロワーゼ!」
 デールが叫ぶのと同時にロワーゼが地面に倒れこんだ。
 ヘンデがロワーゼを抱えて宿に入るとき、ボロの男の姿はもうなかった。

 *

「武器を取れ」
 町はすっかり夜だった。明かりは殆ど無く薄っすらと人の影が見えるだけだった。
 ヘンデは先の尖った鋭い棒を持っていた。前に立つ人影に向かいながら、言った。
「せめてわしが送ってやる」
 しばらくの沈黙の後、人影が声を出した。
「サングー師、お久しぶりです」
 その声は震えていた。ヘンデは下唇を噛んだ。
「ルゼロ、なぜ里を裏切った?」
 ヘンデの声に人影が闇の中から姿を現す。それはボロをまとうねじれた左腕の放浪者ルゼロだった。
「里はどうなったのです?」
 ルゼロはヘンデの前に膝をつく。ヘンデはそれを見下ろす。
「白々しいな」
「里はどうなったのです!」
「燃えた。お前のせいでな」
「なぜ?」
「なぜだと? お前が里の在り処を主人に売ったからではないか!」
「私の主人とは誰のことですか!」
「二万もの兵馬を里に送り込める者と言ったら他に誰がいるのじゃ!」
 ヘンデはルゼロの肩を棒で打った。ルゼロは左に飛ばされる。地面に顔をつけながら身体を縮こませて起き上がる。
「クレイドルが?」
「おのれ! もう良い武器を取れ! 殺してくれる。このわしの思いを踏みにじりおって、お前なら、お前なら、必ず里を開いてくれると思っておったのに」
「サングー師! 私ではありません!」
「モルツェもアッデも死んでおるわ! お前しかおらんではないか! お前は命を惜しんで里を売ったのであろう!」
「モルツェを殺したのは俺じゃない! 俺は……」
 ルゼロはあっと小さくうめき言葉を途中で止めた。ヘンデが近づいてくる。
「やはりそうか」
 変での声が重く沈んでいる。
「ち、違います。私です。私が言ったのです」
 ルゼロは頭を地に擦り付けながら言った。
「マテアーか」
 ヘンデの言葉が稲妻のようにルゼロを襲う。
「違います。妹ではありません。妹は関係ありません」
「では、お前が言ったと?」
「……はい」
 ルゼロは顔を上げずに答える。それを見下ろすヘンデは軽く笑うと棒を背にしまった。
「もういい。里は無くなった。面倒な掟も無くなったようなものだ。生き残りには都合がいいかもしれん。だがなルゼロ。お前は人を殺してしか生きられぬ獣を世に解き放ってしまった。それだけは覚えておけ」
 ヘンデの声にルゼロは顔を上げる。ヘンデがルゼロをじっと見つめていた。
「はい」
「行くあてはあるのか?」
「いえ」
「ならばわしのところに来い。何もなくてつまらんがな」
 柔らかい顔をしたヘンデにルゼロはすぐに言葉が出なかった。
「遠慮するな。本当のことを言えば、わしも里から開放されて第二の穏やかな人生を生きておるんじゃ」
 ヘンデはルゼロの左肩を擦る。
「すまんかったな。わしのことはヘンデと呼べよ。サングー師などと呼んではならん。いいか?」
「はい。サングー師」
「ヘンデだ」
「はい、ヘンデ師」
「師はいらん」

 *

 部屋の隅にはホコリが積もったままだった。二つのベッドと簡易ベッドが一つ。ベッドは冷たくジメジメしていた。鉄製の簡易ベッドは錆びだらけで脚の一つが折れて歪んでいる。木の棒が代わりに支えていた。
 窓は、つっかえ棒がないと開いておけない板状のものだった。
 部屋の中は、燭台の上の蝋燭で灯されている。
「お連れさん。どこに行っちゃったんでしょうね?」
 ぼうっと蝋燭の光で浮かび上がる宿の男の顔。
 その直ぐ側のベッドでロワーゼは未だに苦しんでいた。うめき声を聞くたびにデールは濡らした布でロワーゼの顔の汗を拭ってやる。
「そろそろ替えの桶を持ってきますね」
 宿の男はそう言って部屋を出て行った。
 ロワーゼが頭を押さえてベッドの上をのたうち回る。目を見開くとデールの傍にあった桶の水をかぶり、その桶の中に激しく嘔吐した。
 デールはとっさに袖口で鼻を押さえる。しかし、その目は桶の中を見ていた。ロワーゼの嘔吐物の中に黒い虫が数匹いるのが見えた。
「虫だ。父さんの虫だ」
 デールのつぶやきは誰も拾えなかった。
 嘔吐物の中の虫たちは、「あー」という声を上げて順々に破裂して消えていった。
「ロワーゼ、父さんとどこで会ったの? 父さんは今どこにいるの?」
 デールの呼びかけにロワーゼは反応しなかった。目や口は半開きで不規則な呼吸を繰り返していた。
「どうだ?」
 ヘンデが部屋に入ってくる。振り返って首を横に振るデールの目に光るものを見てヘンデはひどくうろたえた。
「まさか!」
 と、ロワーゼに近づいて嘔吐物の入った桶をひっくり返す。それにはかまわずにロワーゼの様子を見る。とりあえずは生きていることにホッとしたのか小さく何度も頷いた。
「ずっとこんな調子か?」
「うん、でも、もう大丈夫だよ」
 デールがそう言うと、そこに宿の男に連れられてルゼロがやってきた。宿の男は部屋の有様を見て悲鳴を上げる。
「困りますよお客さん」
 デールはそれを無視した。その視線はルゼロに向いている。
「誰?」
「わしの古い知り合いじゃ。いろいろあってわしを頼ってきたんじゃよ」
「名前は?」
 デールはルゼロから視線をはずさない。ルゼロもデールを見る。
「ルゼロだ」
 ルゼロが答える。ルゼロはそのままロワーゼに近付いていく。ヘンデがデールに問いかける。
「どうして大丈夫なんだ?」
「前にも見たことがあるから」
 デールの返答は短かった。

 *

「すまんな」
 ヘンデとデールが雑巾とモップで部屋を掃除している。それを嫌そうな顔で宿の男が見ている。
「具合が悪いなら、もっと大きな町に行ったほうがいいですよ。薬師だっているし、聖導師様だっていますからね」
「ここからだと一番近くてスペントか」
「二頭立てなら一週間もかかりませんよ。変な病気だったら大変だ」
 宿の男が言う。デールがヘンデの顔を見る。
「お金ないよ」
「どちらにしても一度村に戻ろうか。あの馬では無理じゃ」
 ヘンデがそう言うと、ロワーゼが目を開いた。
「大丈夫です。吐いたら少し楽になりました」
「おかげで私は大変ですよ」
 宿の男がブツブツ文句を言う。
「変なボロを着た男を見てたら、気分が悪くなって、いろいろ思い出してきて……。あのボロの男はどこに?」
 と、ロワーゼ。すぐそばからルゼロが声を出す。ルゼロが部屋の隅に座っていた。
「俺のことか?」
 その姿を見て、ロワーゼはすぐに足元を見る。見られたルゼロは足をひいて足枷を影に隠した。
「で、思い出したのか?」
「はい、思い出しました!」
 ヘンデの問いに答えたのは宿の男だった。一斉に宿の男に視線が集まる。
「この人の宿賃、まだもらってませんよ」
 とルゼロを指差した。
「もういいからあっちに行って」
「騙されませんよ」
「わかってるって。明日払うから」
 デールがそう言って宿の男を部屋の外に追い出した。
「そちらのお客さんお湯浴みでもしますか? それとも桶に湯と布のほうがいいですか?」
 宿の男はすぐに顔を出して閉じられる扉を押さえながら言った。
「湯と布を頼む。それと何か着るものも」
 ヘンデは宿の男に金を渡してやる。宿の男はそれを見て本当の笑顔を見せた。
「こりゃどうも」
 宿の男が行ってしまうとデールが急いで扉を締めた。
「ルゼロも人間らしくならんとな」
 ヘンデが言った。ルゼロが横を向く。変ではそのままロワーゼに向かって言った。
「それでロワーゼ、何を思い出したのじゃ?」
「夢かもしれません。できればそうであって欲しい」
 ロワーゼはベッドの上に身体を起こそうとしたが、ヘンデはそれを止めた。
「無理をするな。今はゆっくりと休むがいい」

 *

 冷たい風が窓を叩いている。 
 暗い部屋の中。堅いベッドの上で薄い毛布を頭からかぶる。吐き出される息さえも大事な熱だった。一生懸命に息をした。それでも身体は暖かくはならなかった。
 寒い? 寒いよ。ここは寒いよ。
 夜遅くには声が聴こえるんだ。はるか遠く、山を越えて、ほろびてしまったミータエントの王国からたくさんの声が聞こえてくるのさ。
 父さんも、お爺ちゃんも、お婆さんも、その前のお爺さんも、お婆さんもみんなが僕を呼んでいる。お母さんの声は聞こえない。
 だって、側にいるもの。
 今日は弟を抱いて寝ているはずだ。ううん。ちがった。弟じゃない。何か別のものだ。だって、そいつはいつも朝にはいなくなっちゃうから。
 声が聞こえてくる。
 何を言ってるかわからないのは、それが歌だからだと思う。子守唄のようなもの。聞いているうちにまぶたが閉じちゃって目が覚めればいつも朝だった。
 朝には全部忘れてしまう。
 また夜が来て、寝床に入ると急に思い出すんだ。その時に誰かに教えてあげられればいいんだけれど嘘寝は出来ないんだ。
 どんなに寒くても冷たくても逆らうことなんか出来なくて、夢の中に吸い込まれちゃうんだ。そこでは辛いことも悲しいことも楽しこともみんな忘れちゃうんだ。
 何もない。何も。
「ロワーゼ、朝よ」
 懐かしい声。

 *

 ロワーゼは目を開けた。

 知らない天井が見えた。ここがどこなのかわからなかった。不安から逃げ出そうと毛布の中から手を出した。
 大きな手を顔の前に持ってくると、ホッとした。

 良かった。大人の手だ。当たり前だ。子どもの頃の夢を見たから子どもに戻るなんてあるわけがない。やり直せるわけがない。

 ロワーゼの顔がゆがむ。身体を小刻みに震わせて頭を押さえる。

 まただ。なんだって言うんだ。どうして僕がこんな目に。なにか悪いことでもしたのか。悪いこと。これは病気だ。それも重い病気なんだ。そのせいで昔のことが思い出せないんだ。○○○親方……。何? 誰だって? 誰を呼んだんだ? ああ、痛い。いや、寒い。
 寒い? 違う。喉が熱い。熱い何かが喉の奥から這い上がってくる。
 声が出ない。

 ロワーゼは毛布の上に嘔吐した。大人の頭くらいほどもある大きな黒い塊が落ちた。

 なんだ。虫か。こんな大きな虫がいるんだな。木の桶に入れておかないとデールが怒るかもしれないな。
 え? 虫? 虫だ。まだ生きてる。これを僕が吐き出したのか? 僕の中に?

 黒くつやつやな身体に突き出た沢山の短い足。まるまると肥えたお腹には人間の顔がついていた。丸顔の男の顔。
「マビル」
 ロワーゼがそうつぶやくと虫の顔が答える。
「よぉ、ロワーゼ」
 虫の腹のマビルが答えた。
「お前に殺されたマビルだよ。覚えていてくれたかい?」
 マビルは恨みのこもった目でロワーゼを見た。
「夢じゃないぞロワーゼ。現実でもないかもな。だけどよぉ、本当のことなんてお前にも俺にもわからないんだ。でも、これは夢じゃない。それだけは確かさ。信じるか信じないかはお前の勝手だけどよ。このまま思い出としてサヨウナラっていうのはひどすぎると思わねえか?」
 マビルの声は震えていた。その振動がロワーゼを震わせる。ロワーゼは助けを呼ぼうと身をよじった。
「無理だ。他のやつとは段が一段ずれているんだ。誰も助けに来れない」
「僕は悪いことなんてしてない」
「そうさ。お前は俺に剣を突き立てただけ。何も悪いことはしてない。たまたま刺さっちまったんだよな」
「違う。親方の打った剣が勝手に動いたんだ」
「俺をあそこから出してくれよ!」
 マビルが叫んだ瞬間、虫が破裂して消え、ロワーゼは気絶した。

 *

 ロワーゼは再び天井を見ていた。両目からこぼれていく涙とわななく唇を左右の手で覆った。
「二年だ。二年も僕は何をしていたんだ」
 誰の耳にも届かない声。
「やるべきことはわかっていたはずなのに」
 ロワーゼはゆっくりと起き上がり、荷物を手にするとその足は部屋の外へと繋がる扉に向かう。手を取っ手にかけた時、ヘンデに声をかけられた。
「どうした? もういいのか?」
「はい。トイレです」
 ロワーゼは振り返りもしないで答えた。
「そうか」
 ヘンデの寝息がすぐに聞こえた。
 扉を開き廊下に出ると音を出さないように閉める。壁にそって廊下を進み、階段を静かに降りて宿の外を目指す。
「誰だい?」
 女の声に呼び止められる。
「まったくこんな時間にいい加減にしてほしいよ」
 食堂の方から明かりがやってきてロワーゼを照らす。宿の女だった。
「具合、良くなったのかい?」
「はい。ここ開きます?」
「朝まで開けないからお待ちよ」
「どうにかなりませんか?」
 宿の女はカウンターの上に明かりを置いた。
「ならないね」
「僕といるとみんなが死にます」
「ふん。ただ逃げたいだけだろ。格好をつけるんじゃないよ」
「そんなこと……」
 ロワーゼが言った瞬間、ロワーゼの腹から緊張感のない空腹の鐘の音が鳴り響いた。宿の女は笑いをこらえながら言った。
「ほら、バカなこと言ってないでこっちにおいで」
 そう言ってロワーゼを食堂に引いていった。

 *

「どうだい?」
 ロワーゼはいきなり正面から覗き込んでくる宿の女に照れた。スプーンが透き通ったスープの中で泳ぐ野菜を転がした。テーブルに置かれている蝋燭の火がゆらりとした。
「あったかいです」
 宿の女はロワーゼの答えに不満そうな顔をした。
「おいしいかって聞いてるんだよ」
「あ、はい」
 一生懸命に食べるロワーゼを見ながら女は薄く笑ったが、その笑みはすぐに消えてしまった。
「何かあったんだろうけど、別れの言葉くらい言ってやるのだって人情ってもんじゃないのかい? あんなにあんたのことを心配してくれている連中だ。ちょっとかわいそうだと思うね。あたしもね、覚えがあるよ。あんたみたいに逃げ出してしまいたくなったこともある。いいって、食べながら聞いてな。そんないい話じゃないんだ。恥ずかしい話さ。聞き流してくれてかまわないんだ。あたしにもあんたの連れてるくらいの歳の子がいてね。まぁ、どうしようもないいたずらっ子だったよ」
 宿の女は蝋燭の灯を見つめながら続けた。
「あの日はね、ずいぶんとまぁ忙しかったよ。今のこの有様じゃ考えられないだろ? でもね、あの日、あの頃は毎日が目の回るような忙しさだった。あの子ったらちっとも親の言うことを聞かずに宿のいたる所を駆けずり回っていたんだよ。危ないからおよしとか、向こうに行ってなさいとか言うんだけどさ、こっちを困らせて楽しんでるもんだからねぇ。どうにもならないもんさ。厨房は特に危ないから絶対にくるんじゃないよって言ってもさ、そう言われると行きたくなるのが男の子だろ?」
 宿の女はロワーゼを見て、あっと口を閉ざした。
「やっぱり食べてる時にする話じゃないね。やめにするよ」
「聞かせて下さい。聞きたいです」
 ロワーゼは言った。女は蝋燭の火の遠くを見た。
「人はなんのために生きているんだろうかね。あの子がいなくなってから、そう思う毎日だったよ。あの子がまだ生きていれば忙しさも続いていて、こんなこと考えもしなかったかもしれないけど、本当に色々思うんだよ。まだたくさんしてやりたいこともあったのに。こんなことならあんなに強く叱るんじゃなかったとかね。失くしてみると、わかるもんだよね。あの日はいつも異常にイライラしてたんだ。いっつもヘラヘラした顔で人のことをバカにしてくるもんだから、ついカッとなっちまってね。頬を強く打ったんだ。そこが厨房だってことをつい忘れててね。鍋に身体がぶつかって、煮えてる湯を被って死んじまったよ。そこが厨房じゃなかったら、もう少し優しく叩いていたら、死なずにすんだんじゃないか。とかね。本当にやりたいことがあるんなら、逃げたりしないでちゃんと説明してやんな。もし、あんたが重荷を抱えているなら、死ぬことはなんの償いにもならないんだって覚えておきな。生きて、生きて苦しみ続けなきゃいけない。私はそう思うよ」

 *

 ロワーゼが目を覚ますと、すでにヘンデとルゼロは目覚めていて、ヘンデはカミソリでルゼロのヒゲを剃っている最中だった。ルゼロはすでに短髪になって、身につけていたボロから綺麗な服に着替えていた。だが、足についた枷はそのままだった。
「もう少し短くしてやろうと思ったんだが、生意気にも反対しおってな」
「ヘンデは加減を知らないので」
「前にもやったみたいなことを言うな」
「やりましたよ」
「いつ?」
「里を、……村を出る前に」
「あれはガタガタだったろう。ツルツルは初めてだろうに」
「ツルツルにするつもりだったんですか?」
 ルゼロはねじれた左手をゆっくり上げた。
「もういいです。もう大丈夫」
 慌てて逃げ出そうとするルゼロの背中を見てヘンデは笑った。
「ヘンデ、知り合いがいてよかったね。こんなに楽しそうなヘンデを見るのは初めてだ」
 ロワーゼがそう言うと、ヘンデはカミソリをしまいながら言った。
「何を急に大人ぶりおって、気持ち悪いわ」
「人が素直に感想を言ってるだけだろ」
「何が素直じゃ。わしが死んでもわしの遺産はやらんぞ」
「いらないよ。何が遺産だ。あんなボロの馬車と年老いた馬なんか誰がいるか」
「なんだとぉ。帰り道は歩いて帰れよ乗せてやらんからな!」
 今にも取っ組み合いをしそうなロワーゼとヘンデの間に枕が飛んで来る。
「うるさい!」
 デールは二人を睨むと、すぐに横になって寝てしまった。

 *

「またおいでね。今度はもっと良い物を食わせてやるよ。あんたに言ったからには、あたしもちゃんと生きないとね」
 宿の女の笑顔とは逆に宿の男は不思議そうな顔をしていた。
「あんなに愛想が良いなら、初めからそうしてくれれば良かったのに」
 ロワーゼ一行は町の中で買い物を済ませ、馬車にいっぱいの食料品や雑貨を積み込んで帰ることになった。
 荷台の隅にデールとルゼロが座り、前の座席にはロワーゼとヘンデが座っていた。
 帰りの途は山を目指すだけでよかった。淡い色の影だった山が次第に濃さを増していきその中に入って行くと、そこが山なのかわからなくなっていく。道は心地よい揺れを起こす。その揺れがデールが捕まえ、ささやかな寝息を生産させるまでそう時間はかからなかった。ルゼロもまぶたを閉じその揺れに身を任せていた。
 ロワーゼは後ろの二人の姿を見てからヘンデに語りかけた。
「ヘンデ。全部思い出したんだ」
「ふぇ」
 ヘンデは明らかに不意を突かれた。ピクリと体を震わせる。彼もまた眠りの扉を開こうとしていた一人だったのだ。
「なんだと?」
「思い出したんです」
 ロワーゼは気にせずに続ける。ロワーゼの真剣な様子にヘンデは明らかに着いて来れていないようだった。
「僕はスペントで鍛冶を学んでいました」
「待て、待て、わしは拒否できんのか?」
「本当は言わずにみんなの前から消える予定でした。でも、僕がもしどこかで殺されたらあの事件は無かったことにされてしまうんです」
「殺される?」
「はい。この二年と言う間、敵が来なかったことが奇跡だとしか思えない。敵は必ず僕を殺しに来る」
「敵とは、誰だ?」
 ヘンデの問いに少しの間。
「ムージェ・ダ・ベルト。スペントの領主です」

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