まいほーむ

大秦頼太

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まいほーむ 6~11

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 建物の隙間から、時折細長い煙突が見える。紙袋を抱えて歩く女の子の足取りはずいぶん軽くなっているようだった。
「なぁ」
 女の子が成田を見上げる。
「そんなに風呂が嬉しいのか?」
「うん」
 返事はすぐに返ってくる。
「そっか」
 二人は銭湯を目指して歩く。
「お風呂入ったら、これ着てもいいの?」
 抱えた紙袋を成田に見せる。成田は力強くうなづく。女の子の目が一瞬、輝いたように見えた。それでも表情にあまり変化は無かった。

 銭湯にたどり着くと、ちょっと絶望的な光景が二人を待っていた。
 準備中。
 そう書かれた札が、二人の行く手をふさいでいた。
 成田の頭の中で再び計算が始まる。
 今から別の銭湯を探すのはロスが大きい。銭湯に入らずに東方デスティニーランドに向かう。この子があまり楽しめない。それじゃあ意味がない。準備中。準備していると言うことは中に人がいる。中に人がいるなら、話が通じるかもしれない。
 成田は入り口の引き戸を叩いた。反応がないと見るやもう一度力強く叩いた。
 それでも反応が無いので、再度叩こうとした瞬間、入り口の戸が開き成田の手が老婆の額を打った。昭和のコントか。
 見る見るうちに老婆の顔が赤くなっていく。成田はゆっくりと後ずさりした。
「何するんだい、あんた!」
 最悪の出だしだ。まずはこのお婆さんをなだめなければならない。
「すみません」
「すみませんで済んだら警察なんかいらないよ。何? 強盗かい? ここには取るものなんてないよ」
 一番嫌いなタイプだ。人の話をあまり聞かないタイプの人間だ。
「お風呂のことなんですけど」
「風呂は三時から、もう少し経ってから来な」
 戸が閉まっていく。
「お願いします! この子だけでもいいんで。時間が無いんですよ」
 戸の動きが止まる。奥から老婆が覗き込む。女の子を見て、鼻息で成田を吹き飛ばす。
「甘やかすんじゃないよ」
 戸はぴしゃりと閉ざされる。成田は、顔を抑える。ため息をついて銭湯を離れかけるが、下唇を噛んで再び戸を叩く。
「お願いします。この子とは今日しか一緒にいられないんです。お願いします」
 何で、こんなに一生懸命になっているんだろう。見も知らぬ女の子のために、ここまでしてやる必要があるのだろうか。
 戸が再び開き、老婆が額に当てた手で成田の手を受け止める。
「しつこい奴だね」
「お願いします。今日しか一緒にいられないんです。あんまり時間もなくて……」
「どうしてだい……」
 老婆は女の子と成田を見比べている。そして突然、大きな口を開けてうなづきはじめる。
「あぁ、そういうことかい」
 老婆は女の子を手招きする。
「じゃ、お嬢ちゃんだけね」
 女の子は成田を見つめる。成田はゆっくりと笑顔を作る。
「スマホ渡してるだろ。俺はここで待ってる」
 女の子は力強くうなづいた。そのまま戸の奥へと消えていく。
「あの」
「ん?」
 奥に向かおうとする老婆を引き止める。
「お金」
 老婆は、あぁと答える。
「一五〇円」
 成田は財布から小銭を取り出して老婆に渡す。老婆はニカっと笑って戸を閉めた。



 高校を卒業して大学へ進学することになったとき、成田には彼女がいた。上京することになっていつの間にか自然消滅していた。その後、彼女らしい彼女が出来たことは無かった。
 成田の心には、今も懐かしい思い出が残されていて、もしも、と言う言葉に囚われもする。忙しいときはそれほど気にもならなかった。大学を卒業して地元に戻れば、もしかしたらやり直すこともあったかもしれない。会社を首になってすぐに帰れば、あるいは……。
 そうしたら、あの女の子くらいの子どもがいて、幸せに暮らしていたかもしれない。幸せがやって来たのかもしれない。
 だが、幸せは俺を選ばなかった。ただそれは、まだ俺の番じゃないからだ。
 成田は信じていた。順番を待つことで自分にも幸せが来るのだと。今は、不幸に耐えるときなのだと。
 再び現れた新品のワンピースを着た女の子を見て、成田は驚いた。ピンクから水色に変わったからではない。同じ女の子とは思えないくらいに表情が変わっていたからだ。
「おとーちゃん」
 女の子が成田をそう呼んだ。変化がすごくて、そう呼ばれたことににも気がつかなかった。老婆が、成田の手を握る。
「私はね、弁護士って奴らが本当に嫌いなのさ。仕事が無いくらいで親の権利を奪い取るなんて、本当にひどい話さ。でもね、負けちゃいけないよ。この子の父親はあんただけなんだから。頑張るんだよ」
「えぇ、はい」
 老婆の言葉ににわか返事をしながら、成田は女の子の変わりようにただただ驚いていた。
「おとーちゃん、いこ!」
 女の子は先に歩き出していた。
 名前も知らない女の子に、おとーちゃんと呼ばれている不思議。そして、それが嫌ではない不思議。成田の心の中に、何かそんな不思議な種が生まれた瞬間だったのかもしれない。
「ありがとうございました」
「あの子は、あんたと一緒にいるのが幸せなのかもしれない。しっかりと守っておやり」
 老婆が成田の肩を押した。成田は深く頭を下げて、女の子を追いかけた。
「おとーちゃん」
「何だよ、おとーちゃんって」
「嫌? おばあちゃんがそう呼んでたもん」
 首をかしげて聞き返す女の子。なんだか成田は照れくさかった。
「嫌じゃないさ、でも」
「でも?」
「俺は君の名前を知らない」
「シオリ。何か変な字でシオリって読むの」
「変な字?」
「カタカナのキの上が無いのが二つあって、それに木を書くの」
 何を言ってるのか意味がわからない。
「シオリね。よろしくシオリ」
「よろしくね。おとーちゃん」
 シオリが不器用に笑った。片方の頬だけがひくひくと上がっている。
「普段はシオリって呼ばれてるの? しーちゃんとか? しおちゃんとか?」
 シオリは黙り込んだ。瞳の中にあった光が、薄くなった。
「オイ」
 言葉を吐き出しながら、シオリは両足で地面を蹴る。
「オマエ」
 成田はシオリが前の服を持っていないことに気がついた。
「あとテメエって呼ばれてた」
「服、取りに戻らなきゃ」
 シオリの手を握って銭湯に戻ろうとすると、シオリは両手で成田の手を力強くつかんだ。
「いらない!」
「いらないって、帰るときに必要になるだろ?」
「帰りたくない。どっかに連れて行って」
「俺が誘拐犯になっちゃうって」
「誘拐して、おとーちゃん」
「簡単に言うなよ」
 どうして、問題は広がろうとするのだろう。俺は犯罪者になりたくないんだ。
「遊園地に行って、ご飯を食べたら最初の駅に戻る」
「ヤダ」
「ヤダじゃない」
「さっきのおばあちゃんが言ってたもん。ママのところに戻ったら、ひどい目に遭うから、おとーちゃんと逃げなさいって」
「それは本当の父親に頼めってことだろ」
「違うもん」
 シオリの目から大粒の涙が零れ落ちる。
「パパはずっと前にいなくなっちゃったから、新しいパパはパパじゃないもん」
 成田は、シオリの手をしっかりと包み込んだ。
「わかったよ」
 シオリはまた変な顔で笑った。
 どうせ、夜になる頃には家に帰りたがるに決まってる。それまでのガマンだ。



 東方デスティニーランドは、湾の内側にある大型のテーマパークだ。訪れる客の数が衰えることを知らないのは、そこがプロ意識を持って徹底しているからだろう。
 成田は、なんとなくここが苦手だった。厳格なルールがここを夢の世界にしている。そうここは夢の世界だ。ここに入っている間は、現世のわずらわしさから抜け出し、誰しもが童心に返り楽しむ。
 頭でそれがわかっていても、いや、わかっているからこそ作られた夢の世界に疑問を感じる。単純に客として楽しめなくなっている自分に気がつく。
 大人になってしまうというのは、こういうことなんだろうか。単純に心が死んでるだけなのかもしれない。
 成田は入場してくる人々の笑顔を見つめる。
「金で買う幸せの象徴」
 そのつぶやきはシオリの耳には届いてはいなかったようだ。彼女の目には、ここは正に夢の世界として映っているのかもしれない。
 子を思う親がいて、親にお金と余裕があればここで幸せを与えることが出来る。何かが欠けてしまえば、一生縁が無い世界。
 ここは必要な世界だ。少なくともこの子には。
 シオリの手を取ると、成田は壁のような建物に向かって歩き始める。
「さぁ、行くぞ」
「うん」
 もう四時間も無い。一つ何かに並んだら、もうそれで終わりだ。そうしたら、遅い昼食を取ればいいさ。いや、先にお昼を済ませておいたほうがいいかもしれない。
「お腹空いてないか?」
 シオリは黙り込んだ。
「おとうちゃんに遠慮すんなよ」
 シオリは小さくうなづいた。
 本当の親子じゃないけど、この夢の世界では本当の親子でいいじゃないか。そういう設定だ。
「ハンバーグでも食べるか」
「え?」
「子どもはハンバーグとか、カレーとかオムライスとか好きだろ?」
「わかんない」
 成田はシオリを抱き上げると、人の流れの中に入っていった。



「写真取ろう」
 オムライスを目の前に目を丸くしているシオリを見て、成田はおかしくてたまらなかった。目の前のカレーに触らないようにシオリの手元からスマートホンを引き抜くと、一瞬シオリが不安そうな顔を見せた。
「見て、見て」
 再びシオリの目が、オムライスに注がれ成田はシャッターを切る。シオリはオムライスを凝視して身動きすらしない。
「どうした?」
「食べたら、無くなっちゃう」
 成田は噴き出したが、すぐにその意味を理解した。シオリにとって、次にオムライスと出会えるのはいつなのかわからない。だから、食べてしまえば無くなってしまうのだ。
「オムライスは、食べたあとシオリの体になるんだよ」
「ほんとに?」
「本当さ。俺の母親が言ってたんだけど、ほら俺はシオリよりも大きいだろ?」
「うん」
「それは俺が今まで食べたものが俺を作っているからなんだよ」
「んー、よくわかんない」
「小さい頃に食べたハンバーグがここで、カレーがここ」
 成田は自分の頬や腕を指差す。シオリが笑った。
「でも、ウンチするよ」
 成田は両手を交差させる。
「食べてるときにウンチの話は無しだ」
「何で?」
「食べながらトイレのこと考えて、ご飯が美味しくなると思うか?」
「なんない」
「じゃ、無し」
「うん」
 シオリはまだオムライスを眺めている。
 成田はスプーンを持ってカレーを食べ始める。
「オムライスが待ってるぞ」
「うん」
 シオリがスプーンを握って半熟卵に突き刺す。小さく切り取りながら、口の中に入れていく。
「それじゃあ卵だけだよ。中のケチャップライスも一緒にしないと」
 シオリは黙々とオムライスを食べ始める。
 おい、ナリタマコト。忘れてないよな?
 何をさ?
 このガキはここに置いていくべきなんじゃないのか?
 そんなことしないさ。
 猫や犬を拾っているんじゃないんだぞ。
 わかってるさ、あの子は人間だ。
 いいや、わかってないね。
 うるさい。
 今頃、ガキの親が警察に連絡しているはずだ。
 してるもんか、パチンコに夢中に決まってる。
 いいや、負けてガキをいたぶるつもりで戻っているさ。
 ハマってる奴がそんなに早くやめられるもんか。
 ハハハ、お前の親父みたいにな。
 うるさい、黙れ。
「飲み物買うの忘れてたな。何が飲みたい?」
 シオリは返事も忘れてオムライスに夢中だ。成田はゆっくりと立ち上がる。思い出したようにスマートホンをシオリの前においていく。
 注文を告げながらシオリを振り向く。今頃気がついてきょろきょろしている。大きく手を振ってやるとシオリが席を立ち上がろうとする。店員に「すみません」と言って、席に戻る。
「食べてて大丈夫。置いて行ったりしないから。今、飲み物持ってくるから」
 側でそれを聞いていた家族連れが笑った。
 笑いたけりゃ笑えばいい。こっちは慣れてないんだ。新米なんだぞ。
 成田はそんなことを考えて笑った。
 そうか、新米の父親に見えたのかもな。
 オレンジジュースとコーラを持って戻ると、興味心身に目を向けてくる。
「どっちがいい?」
 目が左右に揺れ動く。やがて困ったような顔になる。
「両方飲んじゃダメ?」
「俺のが無くなるからダメ」
「じゃあ、そっちの黒いの。あ、やっぱりこっち」
 オレンジジュースを取るシオリ。
「オムライス美味しい?」
 半分くらいに減ったオムライス。抱え込むようにオレンジジュースを持って吸い上げる。
「うん!」
 シオリは力強く返事をした。

10

 パレードが終わる。シオリのささやかな癒しの時間も終わるのだ。そうしてこの子は、また辛い日々に帰っていく。こんなに可愛い子なのに。親の愛情を受け止めようと両腕をいっぱいに広げているのに、この子にはきっと与えられない。世の中は、なんて不平等なんだろう。競争とか勝負とか、そう言ってしまえば聞こえはいいけど、結局のところはフルイにかけて追い落とすのだ。
 税金を払えなくなった奴をゴミと呼び、仕事をしてない奴をクズと呼ぶ。税金で暮らしてる連中がどれだけ偉いんだよ。
 公的機関こそ独立採算制にしちまえば良いんだ。1円の使い方も分からないバカな脳味噌だから予算クレクレ病が治らないのさ。
 お金が無くても暮らしていける世界は、愛に満ち溢れてるのだろうか?
 そうしたら、シオリのようにぎこちない笑顔を見せる子を減らせるのだろうか。

 不意に手を引かれた。振り返るとシオリがショーウインドウの向こうを見ている。一緒になって覗いてみれば、大きなクマのぬいぐるみがあった。シオリは何も言わなかった。ただ、じっとクマを見つめている。
「欲しいのか?」
 シオリはマッハの速度で成田の顔を見た。その表情はすぐに曇り首を横に振った。
「いい」
 成田はシオリの頭をなでた。
 この糞みたいな世の中で、この小さなシオリが生きていく。そんなささやかな願いも許されない社会のどこがまともで健全で、成熟しているのだろうか。
「逃げてみようか」
 つぶやく成田の顔をじっと見つめるシオリ。
「もう時間も無いし」
 成田はシオリの手を引いた。シオリはうつむいてついてくる。
 そのまま店の中に入っていく。地面の色の変化にシオリの顔が跳ね上がる。
「え?」
「どれが欲しいの?」
「でも」
「次はいつ来れるかわからないだろう?」
 店員が近づいてくる。どうせ、そろそろ閉店ですと言うに決まってる。だが、少し待ってくれ。少しだけで良いんだ。あんたがフォークダンスを踊り終えるよりも早く決めてやるからさ。
 シオリは沢山並ぶクマの中から自分の体くらいあるものを手に取った。
「お客様」
 成田は呼びかけてくる店員に向き直る。閉店だと一言でも言ってみろ。お前の口の中に店中のでかいクマを詰め込んでやるぞ。他所の家の子がどうかは知らない。この子には必要な時間なんだ。それを邪魔する覚悟はあるんだろうな。
 店員は成田の尋常ならざる目におびえたのか、一瞬、言いよどんだ。
「お客様、まもなく閉園になりますので、お急ぎください」
 閉園と閉店。似ているようで大分異なる二つの言葉のおかげで、あんたは口からクマのケツを出さなくて良くなったんだぜ。良かったな。
「ちょっとだけ」
 シオリは成田を何度も振り返る。成田はそのたびに頷いてみせる。ようやく戻ってきたシオリはクマの頭の横から顔を覗かせた。その笑顔に店員の顔もほころんだ。
「税込みで三万円になります」
 店員の言葉に成田の頭の中がクラッシュした。慌てて財布の中を覗く。諭吉は二人。後一人足りない。野口の加勢を入れても到底太刀打ちできそうに無い。
 成田はシオリに手を合わせる。
「ほんっとゴメン。お金が足りなくて、今度来るときは絶対に大きいの買うから」
 苦笑する店員。シオリは意外にも嬉しそうだった。
「うん」
 ほっとする成田の背中から、店員がシオリに向かって別のクマを出す。顔はしっかりと成田を見ているわけだが。
「これならどうですか? 大きさは一回り小さくなりますけど、値段はぐっと下がって六千円です」
 成田はシオリを見る。シオリも成田を見る。
「どうする?」
 シオリは小さく頷いている。成田は大きく頷いた。
「すみませんが、それください」
11

 駅までの道のりシオリはクマを抱き右手で成田の手を掴んでいた。うつむいたまま何もしゃべらずに二人は歩いていく。人並みはまばらで皆足早に通り過ぎていく。
 駅にたどり着くと、成田は切符売り場の地図を見つめる。シオリはうつむいたままだった。
 選択肢はいくつかある。最初の予定通りシオリをコンビニに帰す。このまま交番に行く。児童相談所に行く。どこかは知らないけれど、二人で親子として生きる。
 この世の中は、優しくはない。ある程度は易しいかもしれないが、物や法律に血が通っているわけではない。何もかもが容易に切り離すことが出来る。
 人の心はお金にならない。金にならないものは無価値だ。この世に生まれて死ぬまでの間、制度や手続きに縛られ、生きていくことは経済活動の一部にしか過ぎない。
 お金を生み出さない奴は、この国の社会では死んでいるのと同じだ。
 言葉では言わない代わりに法律が物語る。手続きに従って履行しているだけだと自分の非道を正当化する。
 誰も、誰も助けてはくれない。ここは意外と地獄だったりする。惨めな気持ちに追い込んで自殺させようとする。
 欲望にまみれた亡者の群れが、自分の恨み辛みを他人にぶつける低俗なゴミ虫たちに孵化場だ。
 成田は、シオリの手を強く握った。シオリも握り返してくる。
 未来。未来はここにあるのに、こんなにも弱い未来を食い物にしているこんな世の中が本当に正しいのか。この未来が失われれば、大人たちは口々に言うのだ。
 なぜもっと早く、行政が動き出さないのか。SOSは出ていたのに。
 そう、俺だってそうさ。本当はこんな面倒なことは遠慮したい。自分のことで手一杯だ。
 ニュースの片隅で流れる虐待死を見ても、何も感じなかったはずだ。可愛そうに。それだけだ。この手に触れるこの圧力を感じて初めてこの社会が誰のものでもないことを知るのだ。
 悔しい。
 ただひたすらに悔しい。何も出来ない自分に、本当に腹が立った。
 想像力が足りなかった。ただなんとなく日々を生き、誰かの作った仕事をこなし、誰かが作ったシステムの上で安穏とし、老いて死に行くだけの一本道。
 感謝しなければならない。
 小林係長に感謝しなければ。
 この国のどん底に落とされて、俺はやっと気がつくことが出来たような気がする。俺は不幸ではなかった。少なくとも部品ではなく人間だ。
 行こう。どこへ?
「探そう」
 成田から声が漏れ、シオリが見上げた。
「本当の自分の家を探そう」
 シオリを見下ろす。そう。この子は人の心を理解するとか、読むとかそんな力はないけど、未来なんだ。未来を、これ以上傷つけさせるわけには行かない。
 成田はシオリから手を放すと財布を取り出して切符を購入する。シオリの手が成田のズボンを掴む。成田はシオリに微笑んだ。
「お父ちゃんは、どこにも行かないよ。これから二人で旅をするんだ」
「旅?」
「そう。本当のお家を探すのさ」
「本当の?」
 成田はシオリの頭を優しくなでた。
「この子も一緒でいい?」
 シオリはクマを成田に向けた。成田は笑った。
「もちろん。クマは旅の仲間さ」
 首謀者は一人。共犯はクマ。捕まったらそうとでも言おうかな。そうしたら、こいつは頭がおかしいんだと思ってくれるかもしれない。おかしいのは俺じゃなくて、この世の中の方なんだけどな。
「さあ、どうする」
 成田はしゃがんでシオリを正面から見る。片手に切符を握り、もう一方を開いてみせる。
「さよならをしてママのところに帰るか、それともお父ちゃんと一緒に旅に出るか」
 シオリはクマと成田を交互に見つめる。
「お父ちゃんもいつも優しいわけじゃないからな」
 おとなしく帰ってくれ。そういう気持ちが、まだ半分くらいは残っていた。そうしたら俺はまた日常に戻って、深く物事を考えずに生きていけるから。生きているのか死んでいるのかわからないけれど、刑務所に叩き込まれるよりはマシな選択だ。そのうち死んでいく俺にとって、未来なんてそれほど大事なものでもない。
「行く」
 シオリは小さな声でつぶやいた。
 神様がもしいるならば、重大な選択を仕切れない俺に罰を与えたのかもしれない。俺はこの期に及んでこの小さな女の子に運命の選択をさせると言う脅迫をしたのだ。
 覚悟を決めろ。
「わかった」
 成田は立ち上がりシオリに手を出した。シオリの手が成田の手を握る。

 俺は、この子のお父ちゃんになった。そう。今、この瞬間から。そして、誘拐犯になったのだ。

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