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繋がれた手
176.
しおりを挟む支えを失い、重力に従って落下するはずだった身体がぶらりとふりこのように垂れた。
右腕が、いや右手首が激しく痛み、軋む。
ぎりぎりと肩から引き千切られるのではと思ってしまうくらいに。
はらりと何かが視界の隅に落ちていった。キラリと光ったのはもしかしたらミサンガだったのかもしれない。
確認しようとは思わなかった、それ以上に目を疑う光景がそこにはあったから。
見上げた先にソンリェンがいた。
トイが、最後の最後に思い浮かべたその人が。
「……そんりぇん」
「バカが! 手ぇ伸ばせ!」
腕が痛むはずだ。
トイはそれなりに幅のある突き出したバルコニーから身体全てがはみ出るほど落下している途中で、ソンリェンはかなり身を乗り出してトイの腕を掴んでいた。手すりに膝を引っ掛けてなんとか体勢を保っている状態だ。
小降りになったとは言え雨のせいもあり、滑る。側から見るとかなりみっともない格好になっているだろう。
手を伸ばせと怒鳴られた理由もわかった。トイの身体が軽いとは言えこれほどの状態では何かしらの策を取らないと共に落ちてしまう。トイが、自ら登ろうとでもしない限り。
けれども、そんなことをするつもりはなかった。
強張っていた身体から力を抜き、下がりつつある足に体重を預ける。
ソンリェンが表情を強張らせた。
「離せよ」
「……、クソが!」
ソンリェンのクソが、を久々に聞いた。
手を伸ばさない、よじ登るために力も込めないトイに、ソンリェンがもう片足でバルコニーを乗り越えようとして体勢を崩して、慌てて堪える。
ソンリェンはトイのことをバカだと言ったが、ソンリェンこそ本気でバカだ。
助かる気力もない人間を、必死に救おうとしているなんて。
「手、離してよ」
「いいから、伸ばせ!」
「やだ」
「トイ、この……!!」
「もういやだ」
はっとソンリェンが目を見開いた。
落とすことなくもう片方の手に持っていたナイフをトイが翳したからだ。
突き刺そうと狙っているのは、他でもなくトイの手首を掴むソンリェンの手の甲だ。
「もう、いやなんだ」
「……トイ」
「もう……疲れた。いいよ、もう」
「死にたいのか」
「……離せよ」
「刺す気か?」
体勢が体勢だというのに、ソンリェンの声は落ち着いていた。
「──うん」
トイの返事を聞いても、顔色一つも変えなかった。
「……いいぜ、刺せよ」
ソンリェンの額に滲んだ汗がぽたりと垂れてきた。ソンリェンの瞳は真っ直ぐだった、昨日と同じように。
ベッドの上で組み敷き見下ろしていたソンリェンの瞳を今は見上げている。
壊された日、路地裏に捨てられた。
あの瞬間もこんな風に、降りしきる雨と暗い空を見上げていた。やっとあそこに、飛んでいけるんだと歓喜した。
そんな消えかけたトイの命を見つけたのはシスターだ。そして今は、ソンリェンだ。
でももう、いい。もう疲れた。
「離さねぇから」
雲の隙間が広がり、頭上を覆う空の青とソンリェンの瞳が被った。
トイから視線を逸らすまいと目を見開いているソンリェンに、は、と失笑が漏れる。
「嘘つき」
迷いは微塵もなかった。
手を振り翳し、エミーにされた時のようにえぐり取る勢いでソンリェンの手の甲を刺す。
さくりと嫌な音がして、ぽたりと血が垂れてもトイの手を掴む力は一切緩まなかった。
引き抜いてもう一度刺し込み、肉の感触を確かめながらぐりっとナイフを斜めに動かす。
ぼたぼたと真っ赤な血液が顔に降り掛かってきた。ソンリェンが低く唸り、一瞬手の力が緩んだ。
ほっと安堵して、そのまま手を振り払おうとしたが瞬時にまた捕らえられた。
しかもどうしてか、先ほどよりも強い力で。
なんで、と。囁いた声は言葉にはならなかった。
「ばぁ、か」
彼の口元は激痛のために震えているというのに、トイを安心させるためにかソンリェンがぐっと口角を釣り上げた。
それにトイの手首を掴む手のひらは、微塵たりとも震えていない。
「……泣いてんじゃねえよ」
「……離せってば」
「断る」
「離せって、言ってるだろ!」
「もう離さねえっつったろ!」
「なんで! オレのことなんてどうでもいいくせに!」
ソンリェンに手を振り払われたことは二度あった。
一度目は初めて輪姦された日。そして二度目は壊された日。
どちらも救いを求めて縋り付いても瞬時に振り払われたのに、どうして今はトイが必死に振り払おうとしても離してくれないんだ。
ソンリェンはずるい。
トイがしてほしいことは何もしてくれなくないくせに、してほしくないことばかり、する。
笑ってもくれないくせに、そうやって真っ直ぐにトイを見つめてくる。
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