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喧嘩
11.
「……えと、またむしずとか、はしってる?」
むしず……虫唾か。イントネーションが絶妙に違うせいで、一瞬何を言われたのかわからなかった。「テレビ」と同じ発音だった。
「いや……」
「あのな、俺、『むしずがはしる』ってやつ調べたんだ」
「そ、そう」
「うん。あれだろ、あれ。すっげぇイヤなことされて虫がこう……身体ン中走ってるって意味なんだろ?」
まあ、近いかもしれないが。
橘はちらりと僕を伺うと、気まずそうな角度で、シーツにこてんと頭を預けた。
「だから、ごめんな?」
「え」
「俺さ、このまえ、おまえに酷いことゆっちまったじゃん……」
この前というのが橘と仲違いをしたあの一件にかかっていると知り、口を閉じる。
「ごめんな。いびつとか、いっちゃってさ。俺、バカだからさぁ……思ったことすぐに言っちまうんだ。だから透貴にもしょっちゅう怒られてて。おまえは、もう俺と話したくなさそーだったけど、やっぱりもっかい、ちゃんと謝っときたくてさ……」
──どうして、君が謝るんだ。あの時も、今も。
むしろ、君に謝るべきは……謝らなければならないのは。
「だからさ、おまえももう俺に、へんなイヤガラセとかすんなよな?」
「……え?」
「え? じゃねーし。おまえ俺の鉛筆とかとってただろ? ほら、HBのやつ」
ひゅわっと喉が震えた。嫌な緊張によって。
「透貴に『また無くして~!』って怒られたんだからなっ……まぁあれ以外は、ほとんど返してくれたから別にいーけどさァ」
「き、づいて……たの?」
「え? うん。俺の机漁ってたの見たし」
まさか、バレていたなんて。冷や汗がぶわりと背中を流れ落ちた。
橘の私物に、ずっとずっと悪戯をしてきた。それをまさかまさか、全部見られていたのか?
もしかして僕があの日、橘の靴下を使って自慰をしたことも。そのせいで橘がヒートに陥ってしまったことも。
僕がわざと教師を呼ばずに、一人で橘の後を追いかけたことも。
すべて、彼がお見通しだったら。
どうしよう。なんて言って謝ればいい。僕に怯えないまともな橘と早く会話をしたかったのに、実際顔を合わせたところで何を言うべきかは全く考えられていなかった。
現実から、逃げていた。
どう彼に詫びればいい。このままじゃ橘に嫌われてしまう。どうしよう、どうしようどうしよう、どうしよう──普段はくるくると回転し続けているはずの脳が、ぴたりと動くのを止めてしまった。
思考停止した額から染み出した汗が、ぽたぽたと床に落ちて水さな水たまりになる。
すると、くすくすと、この場にはそぐわない軽やかな笑い声が病室に響いた。
顔を上げる。笑い声の主は、僕以外……つまり橘本人だった。
橘は何が面白いのか、眩しそうに目を細めて仔犬みたいに笑っている。くしゃりとした、目尻のシワ。くぼんだ小さなえくぼ。橘の八重歯が、口の中からはっきりとのぞいている。
そんな煌めく彼の顔から、目が逸らせない。
「ふ、ふは……なんだよぉ、おまえ変な顔してるぞ? しわしわじゃん。らしくねーの」
まるでそうすることが当然であるかのように、ついと布団の中から差し伸べられた一本の腕。
「なぁ、こっちこいよ。そこ寒ィだろ? ここ、日があたってあったかいんだ」
確かにこの位置は、クーラーの冷房が直接当たるのでかなり冷える。
入院期間中、ずっと点滴の針が刺さり続けている橘の腕は、あの日階段の下から伸ばされた腕とは程遠いものだった。魚の骨のようにやせ細っていて、触れただけで折れてしまいそうだ。
針の刺さった部分も、ずいぶんと変色している。
ストレスのせいで髪も随分と抜け落ちて、耳の上の辺りには500円玉くらいの禿げもできてしまっている。
彼のベッドの下はいつも抜け毛だらけだった。
今の橘は見た目も心も、ボロボロだった。
それなのに。
「姫宮……俺さ、おまえと──仲直り、したかったんだ……」
橘の心の根っこの部分は、何も変わっていなかった。
腐ってすら、いなかった。
むしず……虫唾か。イントネーションが絶妙に違うせいで、一瞬何を言われたのかわからなかった。「テレビ」と同じ発音だった。
「いや……」
「あのな、俺、『むしずがはしる』ってやつ調べたんだ」
「そ、そう」
「うん。あれだろ、あれ。すっげぇイヤなことされて虫がこう……身体ン中走ってるって意味なんだろ?」
まあ、近いかもしれないが。
橘はちらりと僕を伺うと、気まずそうな角度で、シーツにこてんと頭を預けた。
「だから、ごめんな?」
「え」
「俺さ、このまえ、おまえに酷いことゆっちまったじゃん……」
この前というのが橘と仲違いをしたあの一件にかかっていると知り、口を閉じる。
「ごめんな。いびつとか、いっちゃってさ。俺、バカだからさぁ……思ったことすぐに言っちまうんだ。だから透貴にもしょっちゅう怒られてて。おまえは、もう俺と話したくなさそーだったけど、やっぱりもっかい、ちゃんと謝っときたくてさ……」
──どうして、君が謝るんだ。あの時も、今も。
むしろ、君に謝るべきは……謝らなければならないのは。
「だからさ、おまえももう俺に、へんなイヤガラセとかすんなよな?」
「……え?」
「え? じゃねーし。おまえ俺の鉛筆とかとってただろ? ほら、HBのやつ」
ひゅわっと喉が震えた。嫌な緊張によって。
「透貴に『また無くして~!』って怒られたんだからなっ……まぁあれ以外は、ほとんど返してくれたから別にいーけどさァ」
「き、づいて……たの?」
「え? うん。俺の机漁ってたの見たし」
まさか、バレていたなんて。冷や汗がぶわりと背中を流れ落ちた。
橘の私物に、ずっとずっと悪戯をしてきた。それをまさかまさか、全部見られていたのか?
もしかして僕があの日、橘の靴下を使って自慰をしたことも。そのせいで橘がヒートに陥ってしまったことも。
僕がわざと教師を呼ばずに、一人で橘の後を追いかけたことも。
すべて、彼がお見通しだったら。
どうしよう。なんて言って謝ればいい。僕に怯えないまともな橘と早く会話をしたかったのに、実際顔を合わせたところで何を言うべきかは全く考えられていなかった。
現実から、逃げていた。
どう彼に詫びればいい。このままじゃ橘に嫌われてしまう。どうしよう、どうしようどうしよう、どうしよう──普段はくるくると回転し続けているはずの脳が、ぴたりと動くのを止めてしまった。
思考停止した額から染み出した汗が、ぽたぽたと床に落ちて水さな水たまりになる。
すると、くすくすと、この場にはそぐわない軽やかな笑い声が病室に響いた。
顔を上げる。笑い声の主は、僕以外……つまり橘本人だった。
橘は何が面白いのか、眩しそうに目を細めて仔犬みたいに笑っている。くしゃりとした、目尻のシワ。くぼんだ小さなえくぼ。橘の八重歯が、口の中からはっきりとのぞいている。
そんな煌めく彼の顔から、目が逸らせない。
「ふ、ふは……なんだよぉ、おまえ変な顔してるぞ? しわしわじゃん。らしくねーの」
まるでそうすることが当然であるかのように、ついと布団の中から差し伸べられた一本の腕。
「なぁ、こっちこいよ。そこ寒ィだろ? ここ、日があたってあったかいんだ」
確かにこの位置は、クーラーの冷房が直接当たるのでかなり冷える。
入院期間中、ずっと点滴の針が刺さり続けている橘の腕は、あの日階段の下から伸ばされた腕とは程遠いものだった。魚の骨のようにやせ細っていて、触れただけで折れてしまいそうだ。
針の刺さった部分も、ずいぶんと変色している。
ストレスのせいで髪も随分と抜け落ちて、耳の上の辺りには500円玉くらいの禿げもできてしまっている。
彼のベッドの下はいつも抜け毛だらけだった。
今の橘は見た目も心も、ボロボロだった。
それなのに。
「姫宮……俺さ、おまえと──仲直り、したかったんだ……」
橘の心の根っこの部分は、何も変わっていなかった。
腐ってすら、いなかった。
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