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前篇
1.良夜とナギサ
しおりを挟むそれは、子どもが天に指をさし。
あの月が欲しいと哭いてしまうような、美しい夜のことだった。
* * *
「良夜」
かぽりと、空気の漏れる音がする。弱々しく震える兄の手を取り、リョウヤは涙を流すことしかできなかった。
「にいちゃん、ナギサにいちゃん……!」
いつもリョウヤの手を引いてくれていた大きな手が、もうこんなにもやせ細ってしまっている。あんなにもあたたかくて優しかったナギサが、ナギサの命が、今まさに尽きようとしているのだ。
信じられなかった。信じたくなかった。
「ナギサ、いくなよ! 約束したじゃん、俺が絶対……ぜったい連れて帰ってやるって……なのにっ」
髪を振り乱し、ナギサの首元に縋りついてむせび泣く。毎日毎日、弱っていくナギサの前だけでは明るく振舞おうと努力していたのにもうそれもできない。リョウヤの体と心の全てが、ナギサの現状を憂いて打ち震えている。涙が滝のように溢れて止まってくれない。
「もう、いいよ……」
「……っ、そんなこと」
「いいんだよ、リョウヤ……僕の、ために、いまま、で、ありがとうね……」
そんな言葉、言わないでほしかった。
ナギサが、人差し指でリョウヤの涙を拭ってくれた。親指では鼻水も。ナギサの細く乾いた指に汚い鼻水がついてしまったことが申し訳なくて、服の袖でごしごしとぬぐう。
ふ……と、ナギサがかすかに笑った気配。くしゃりと歪んだ顔を上げる。
「このぉ……泣き虫、め」
「な、きむしじゃ……ない、よ……うぅ」
「泣き虫、だよ。おまえは、昔っから……」
そんな風に笑わないでほしい。ナギサが一番辛いのに。今のナギサはもはや骨と皮だけの状態なのに、こうやっていつもいつも人のことばっかり。必死に浮かべてくれた笑みだって、唇の端からぱりぱりひび割れている。
ナギサは、リョウヤのことをいつも庇ってくれていた。この世界に突然落ちてきてしまって、殴られ、蹴られ、嬲られ、犯され、子を産まされ、死に物狂いで逃げて逃げて逃げた先で、それでも理不尽な目にばかりあって。
やっと見つけた安住の地で病気にかかり、この狭くて埃だらけの部屋で苦しみながら死んでいく。2人で探した、誰も済まなくなった小さな廃墟。ベッドとも呼べないような硬い木の板の上で、ふかふかの寝具の代わりにあったのは、穴のあいた汚れた薄い布だけ。
床には虫が這い、割れた窓から入る隙間風に時折ぶるりと震える細い体。
あまりにも、惨すぎた。
「良、夜……リョウヤ、聞、いて」
「ぇ、うっ……な、に」
涙で前が見えない。それでもナギサの声を一字一句聞き逃すまいと、必死になって耳を傾ける。ナギサのニホンゴを聞き取れるのはもう自分しかいないのだ。自分でできることがこれしかないことが、歯がゆかった。
「これ、あげる」
「なに、これ……?」
ナギサが、震える手で何かを手渡してきた。ちりんと、この場にそぐわない可愛らしい音が震える。渡されたのは布でできた長方形の袋だ。小さい。色は多少色褪せているが赤く、真ん中は白く、不思議な模様と文字のようなものが描かれている。きゅっと絞られた部分についているのは白い紐。時々、ナギサが首から下げていたものであることに気づく。
ただ、紐の先に丸っこくて金色の何かがついていた。これは初めて見た。
先ほどと同様、ちりんちりんと揺れ、か細い音が鳴る。
まるで、儚いナギサの命の音みたい。
「なにこ、れ」
「……」
「ねえ、なんだよ、これ」
もう一度同じ言葉を繰り返し、ゆする。ナギサからの返事がないことが何よりも不安だった。ナギサは虚ろな視線を天井へと移し、遠い何かを映し出しているかのように微笑んだ。
何が、見えているのだろう。
「ふるさとの、思い出……だよ。御守りって、いう、やつで……」
「オマモリ?」
「そう、御守りだ。昔……買ったんだよ。東北の、月の、神社で……良夜はちっちゃかったから……覚えて、ないだろう、けど」
「うん、ごめ……覚えて、ない」
「……だね」
ナギサの眉が悲しそうに下がった。手渡された思い出をぎゅっと手の中に閉じ込める。手が震えてしまい、ちりん、りん、と音が鳴った。悲しい音だ。
「綺麗な音、だろう? 涼やかな、秋の夜、みたいで……な……? これ、あげる、から……大事、に」
うん、うんと何度も頷く。誌的なナギサの一言一言を噛み締めて涙を拭う。もう、泣きすぎて体中の水分が枯れてしまうのではないかと思うぐらいだ。だって胸が痛い。痛すぎた。ナギサはもう故郷に帰れないのだ。自分はどうなってもいいから、ナギサだけは幸せにしてあげたかったのに、それももう、叶わない。
2人で、あちらの世界に行くことも。
「うん、うんっ……きれい、綺麗、だ、ね」
ナギサはここで死ぬのだ。誰よりも優しいナギサは、リョウヤを守ってくれていたナギサは、この腐った世界で孤独に死んでしまう。リョウヤを一人、この世界に残して。
ナギサが、緩慢な動作でこちらを向いた。
「頼みが、あるんだ、リョウヤ……」
「……うんっ、なんでもいって。俺、ナギサのためだったら、なんでもするよ」
「僕の、ことを──」
続く言葉に、力が抜けていく。
「お願いだ、リョウヤ……」
ナギサの顔が、くしゃりと歪んだ。お願いだと繰り返すナギサに、何度も何度も力強く頷いてみせる。
「……うん、うん、わかった……約束、するよ。俺は──」
逝かないでという言葉を嗚咽と共に飲みむと、ナギサはほっとしたように笑ってくれた。
「月、きれ、だ……なぁ……」
ここの小窓から月は見えない。しかしナギサのその瞳にははっきりと映っているのだろう。その夜空のように黒い瞳から零れた涙を、リョウヤは生涯、忘れることはないだろう。
崩れた天井に向かって手を伸ばしたナギサは、最期に「良夜」とささやいた。縋りついたナギサの体から力が抜けていく。ひゅう──……と細くて長い呼吸を1つ、ナギサはした。伸びていた手がぱたりと落ちる。
空洞のように生気を失ったナギサの瞳孔が、広がっていく。
「約束、するよ……やくそく、するからね」
何度も繰り返す。少しでも、消えゆくナギサの魂が救われるように。肩が震える。細胞の全てが痛い。今リョウヤは、本当に1人になってしまったのだ。手が震えて、開かれたままのナギサのまぶたを下げてやることさえできなかった。自分と同じ色の瞳を、涙に濡れた目でじっと見つめる。
「俺、ぜったいぜったい、ナギサを、ナギサにいちゃんを……」
慟哭の涙を流す、絶望にも似た途方もない孤独の中で。
月明かりのように儚いナギサの夢は、リョウヤの決意となり、一筋の希望となった。
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