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前篇
21.マティアス・フランゲル(1)
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「やあ、ミスターチェンバレー。可愛い可愛い奥さんもらったんだって?」
他の者であったら、その名で呼ばれた瞬間蹴り飛ばしてやろうと思っていたことだろう。
だが当の本人は悪びれる様子もなく、それどころか主人のいぬ間に執務室の椅子に座りくるんと向き直ってきた。本来であれば客人用の部屋に通すのが普通だが、一応友人という枠組みの男なので、使用人たちもいつも通り通してしまったらしい。
それに、どうせ使用人たちが部屋を出て行った瞬間を見計らいこの椅子を占領したに違いない。そういう奴だ。
「とりあえずそこをどけ、マティアス。いつからここはおまえの部屋になった」
「つい30分前かな。いいじゃないか、おまえと私との仲さ」
どんな仲だと吐き捨ててやりたいが、この飄々とした男の言う通りセントラススクール在学中から続くそれなりの仲なので、視界から排除することで先手を打った。それに、新聞を読んだその日に駆け付けてくるとは思っていた。こんな男だが、やはりそれなりに信用はしているのだ。
返事の代わりに肩に置かれた手を振り払い、マティアスを押しのけて椅子に腰かける。
「うわっ、酷いなぁ、新聞読んで駆けつけて来てやった親友にその態度はないだろ」
「疲れてるんだ、ふざけた真似はやめろ。まだその新聞も読めていないんだぞ」
「え、まだ読んでなかったのかい? もう昼になるのに」
「今日は朝から仕事が山積みで、暇がなかったんだ」
ばさりとデスクに置かれた朝刊をちらりと一瞥する。案の定、『チェンバレー家の当主、稀人と婚約か』とでかでかと黒インクで印刷されてあった。まだ価格変動も確認できていない上に、午後からも新しい店に視察にいかなければならない。記事のせいで速達郵便だけでなく来訪者も増えた。
正式に結婚証明書が発行されれば、上流階級からの祝辞が新聞の一面を山ほど飾ることになるだろう。直接、嫌味ったらしい祝いの言葉をぶつけてくる輩もいる。受け流すことは得意なのだが、面倒臭いことこの上ない。
「それに、まだ妻ではない。特定指定住民の登録も終わったばかりだ」
「つまり本当だったんだねぇ、おまえが稀人と結婚するとかいう話は。あれだけ稀人嫌いだったおまえがねぇ」
「仕方がないだろう。チェンバレー家の正式な跡取りは、僕の才を受け継ぐ優秀な子である必要がある」
「それ、自分で言っちゃう?」
「事実だ」
「相変わらずだ。一言ぐらい相談してくれてもよかったのに」
「誰に相談しようと僕の考えは変わらん」
「友達がいのないやつめ」
「いいから、おまえは髪を結べ。邪魔だ」
デスクに波紋のように流れる艶やかなぬるっとした金髪は、見ているだけで鬱陶しい。
「イヤだよ。私の美貌が薄れるだろう?」
髪をばさりと肩から後ろに流しながらふざけたことを言う男にため息が漏れた。マティアスは自身の容姿に圧倒的な自信を持っている。美容のために毎晩毎朝の肌の手入れは欠かさないと豪語しているし、肌にいいとかで外国の謎の黒い墨をアレクシス経由で仕入れては肌に塗りたくっている、らしい。
スクール生時代、うーん、私より美しくない子は好きになれないんだよねぇ、と、自分の垂れた目元のホクロをつん、とつつきながら、声をかけて来た女の誘いを断っている姿を見た時は正直引いた。
だがそんな彼だからこそ、アレクシスのどんな態度にもひるまない。そればかりか楽しそうにからりと笑う。長く友人関係が続いているのはそれが所以だ……こいつの、自分の顔が好きすぎるところは難点だが。
「で、その稀人ちゃんは今どうしてるのかな? 牢屋にでも閉じ込めてたりして」
牢屋、という単語に数日前の出来事を思い出して、苦々しい屈辱がぶり返してきた。相当渋面顔になっていたのだろう、マティアスがにやにやしながら顔をのぞきこんできた。
「面白い顔になってるねぇ、どうしたの?」
「……もう、閉じ込めてはいない」
「もうってことは出してあげたのか、なるほど、一日で死んじゃうようなひ弱ちゃんなのかな?」
ひ弱という単語に今度は頬が引き攣った。マティアスは、アレクシスが今話題になっている稀人を丁重に扱っていないことなどお見通しなのだ。その通りである。丁重に扱ってなどいない。決してそんなことはないというのに。
「……一日で死ぬようなタマだったらまだマシだったな」
「は?」
てぺてぺてぺ、と、遠くから近づいてきた間抜けな足音が扉の前でぴたりと止まった。かちゃんという金属音が一瞬だけ響く。マティアスは使用人の1人が酒でも持って来たのだろうと気にも留めない様子だったが、次の瞬間、がァん! と、響いた大きな音にびくっと肩を強張らせた。
「え……な、なに、今の音」
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