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前篇
得体の知れない生き物(2)
しおりを挟むユリエットが用意した毛布をぎゅっと握りしめ、稀人は膝を抱えて馬車の中で体を丸めていた。馬車の揺れ以外で動くこともない。そしてアレクシスは足を組んで黙し、まぶたを閉じることで稀人の存在を消し去った。
馬車の中では、雨が窓を強く叩く音が長い沈黙に響いていた。
* * *
汚れた稀人を先に洗わせてから、夕食の席に着いた。雨は、まだやまない。
髪が乾ききっていない稀人は全体的に濡れている上、泥で汚れた服の予備も乾かしている最中だったため、アレクシスが若い頃に着ていた、袖にフリルのついた白いブラウスを与えた。
しかし稀人にとってそれは大きく裾も膝まであったので、まるで白い布切れを纏った幽霊に見えた。
稀人はいつまでもアレクシスと目を合わせることなく、もくもくと野菜を咀嚼している。いつもの如く、今日あった出来事などすっかり忘れているとばかりに、リスのように頬張りながら。
アレクシスもまた先に食べ終えたというのに、珍しく部屋にも戻らずここに留まっているのには理由があった。
「旦那様、お酒をお持ち致しました」
「おい」
「はい」
「葉巻も用意しろ」
「お煙草……でしょうか?」
「ああ」
「承知いたしました。少々お待ちください」
食後に酒ではないものを選ぶのは、アレクシスにとっては滅多にないことだった。綺麗に口がカットされた葉巻の火が消えないよう注意しながら、すうっ……と吸い、独特の苦味を口内でふかす。社交界におけるたしなみの1つだ。慣れてしまっている香り故に、好きも嫌いもない。
ちらりと稀人を横目で見る。奴はアレクシスがしようとしていることを知りもしないで、豆で作った濃いスープを音を立てて飲み干し終わったところだった。相変わらず、庭園に増殖した例の草を千切っていれていた。
「……以前、おまえが割った花瓶の話だが」
「唐突だね」
「どれほどの価値があると思う」
突然話しかけられても、稀人は顔色1つ変えずに答えた。これが馬車に乗ってから初めての会話だというのに。
「知らないよ」
目を、冷徹に細める。先に大口を叩いたのはこいつだ。
「あれはフィリップ・モンテにデザインさせたものだ」
「だから誰だよ」
「この国で最も著名な画家だ。屈折のモンテはその通り名の通り捻くれた性格の老人でな、王侯貴族にどれだけ頼まれても金を積まれても、気分が乗らなければ絵を一切描かないことで有名だった。そんなモンテが、チェンバレー家のために、最高傑作と名高い花器をデザインした。今年で丁度没後20年だ、値打ちも数十倍に跳ね上がるはずだったというのに……うちの使用人が死ぬまでこの屋敷で働いても決して払えん額だぞ」
「……数年分ぐらいじゃなかったんだ」
「なんの話だ」
タイミング悪く、端にいるメイドがテーブルにグラスをごとりと落とした。
「キャシー、静かに」
「も、申し訳ありません……っ」
新人のメイドだろうか。あまりにも声が裏返っていたため一瞬そちらに視線が向きそうになったが、稀人に「ねえ」とやけに強めに声をかけられたので、視線を戻す。
稀人は、どことなく焦いている様子だった。
「なんで今更そんな話すんの。俺ちゃんと謝ったじゃん」
今更不穏な空気を感じ取っても、もう遅い。
「謝罪如きですむとでも?」
「わざと壊したんじゃねーし」
「悪びれもせんとは。貴様のふてぶてしさは一体どこからくるんだ?」
「っていうかさ、そもそもそんな高いやつ俺の部屋に置いておかないでよ。どっかのガラスケースにでも保存しておけばよかっただろ」
「そもそも、あそこはおまえの部屋じゃない」
「じゃあ、誰の部屋だったの」
答える気はない。ただあの花器と同じように、この稀人の心も壊してやりたいと思った。
「……甘やかしすぎた、か」
ふう、と長く煙をくゆらせて。
「喜べ、貴様には罰を与えよう。これまでの貴様の愚行を全てひっくるめた罰だ」
ぴたりと、白身魚を頬張っていた稀人の手が止まった。
「言っただろう、おまえを生かすも殺すも僕の自由だと」
「なんの、罰」
「そうだな、やりようはいくらでもあるが……今はとりあえず、手を出せ」
「て?」
燃え尽きた白い灰がぱろりと灰皿に落ちた。クリスタルガラスでできたそれも、祖父の代からチェンバレー邸にて使用されている一級品だ。葉巻から一旦口を離し、怪訝そうな顔をしている稀人にわかりやすく命じてやる。
「ここに手を置け。今すぐにだ」
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