月に泣く

宝楓カチカ🌹

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前篇

  マティアス・フランゲル(3)

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 地下牢から出たリョウヤは2日分の穴を埋めるかのように食事をもりもりと平らげ、おかわりも要求した。ちなみにリョウヤがおかわりを所望した使用人は、リョウヤをダイニングルームで犯した際、腕を押さえつけさせていた男の1人だった。顔を忘れたわけではないだろうに、当の本人もかなり狼狽していた。
 
「えーっと……君は一体何をしてるのかな?」

 冷え切った2人ぶんの空気を溶かすために、マティアスがやんわりと間に入ってきた。

「どういう質問?」
「ああ、ごめんね。聞き方がまずかったか……なんの本を読んでるんだい?」
「見たまんま、歴史の本だよ。元の世界に戻るための情報が欲しくて、今読み漁ってるとこ」

 リョウヤが抱えていた本を持ち直した。今リョウヤが目を通しているのは、国から認可された、どこの上流家庭でも揃えられている歴史の本だ。家庭教師もこれを使って貴族の子どもたちに歴史を学ばせる。
 全部で15巻ほどあり、実際、アレクシスやマティアスも、セントラススクールに入学する前は、これを使って勉学に励んだ。故に、2人揃って内容は知っている。
 稀人についての情報が、ほとんど書かれていないことも。

「へえ、元の世界ねぇ」

 マティアスの垂れた目の横に人好きのしそうなたゆみができる。
 この男は凝り固まった貴族社会の中では、ある意味で稀有な性格をしていた。貴族らしからぬ男で、面白いものに目がなく、いわゆる変人というやつだ。共にセントラススクールで統括生を任されていた時期もあるが、彼はその自由さと型破りさで有名だった。規則が厳しいスクールで、他国の珍妙な踊りや奇怪な歌を広めようとして教師から目を付けられ、校則破りも日常茶飯事だった。バカンスで未開の南米へと向かい動物を狩り、その毛皮でごてごてしたコートを特注し堂々と羽織ってきたり、寮だって気ままに抜け出していた。
 そんな男なので、多方面に知り合いがいて友人も多い。また破天荒な男ではあったが、その類まれなる美貌や気さくさで周囲を虜にし、上級生下級生問わず、生徒からは慕われていた。統率力もある。
 だからこその統括生だったのだ。
 またマティアスは、己の欲求に忠実な男だ。なにしろ興味をそそられたものにはすぐに手を出そうとする。それが物であればまだいいのだが、人間ともなると厄介だ。学生時代は、上級生や教師の恋人に軽々しく手を出し、飽きたらぽいっと捨てるなんてこともざらにあり、一部からは反感を食らっていた。
 しかし、マティアスだから……と簡単に許されてしまうところもある。いい意味で人望は厚く、悪い意味で人たらしだ。
 皆が皆、アレクシスから見れば胡散臭さ極まりないこの男の微笑みに、騙される。要するに。

「それ、何巻まで読んだの?」
「3巻」
「そっかそっか。実は僕もその本読んだことあるけど、稀人についてはまあまあ書かれてたと思うよ。きっとその本なら、君の望む答えが見つかるさ……頑張ってね」

 こいつはとてつもなく性格が悪いのだ。
 突然、リョウヤがぴたりと口を閉じた。どうしたんだい? と柔らかく首を傾けたマティアスを、リョウヤはじいっと見上げた。見定めるように、しっかりと。

「マティアスさ、アレクの友達って本当?」
「ああ、もちろんだよ。セントラススクールの同期でね、共に統括生も務めた仲なんだ」
「じゃあこの本はもう読む必要ないね」
「……どうして?」
「だって、あんたすっげー胡散臭えんだもん」

 今度はマティアスがぴたりと口を閉じる番だった。

「アレクと同類の臭いがする。誰かの無駄な努力を影でせせら笑ってそうだ」
「そんなこと……ないよ。ただ、これを読んだのは随分昔のことだからねぇ……ぼんやりとしか覚えてないんだ。でも、すごく面白い本だったよ?」
「そうかな、あんたの面白いって愚かって意味に聞こえるんだけど」

 口許は笑みの形を模ってはいるが、マティアスの目はじわじわと細められていった。図星の顔だ。

「アレクの言う愚か者と、響きが全くおんなじだ」
「おい、いい加減にしろ」

 礼儀知らずの愚か者に立ち上がりかける。

「いいか、そいつはフランゲル家の次男だ」
「いや、だから誰って」
「フランゲル家は今のエリンヒス領内の貴族で、その家祖は14世紀に遡り西アリアーネ帝国のブルンヒル地方の」
「ごめん、そういうのいいや。言われてもわかんねーし」

 そもそも興味ないし、とさらりと失礼なことを付け加えられて結局立ち上がり、睨みつけた。

「貴様はそろそろ謙虚さというものを身に着けろ」
「あんたに謙虚さ発揮してどーすんだよ。まだそのお説教モドキって続く?」
「……、このっ」

 埒が明かないと判断したのか、リョウヤはマティアスに矛先を変えた。

「ねえ、そろそろあっちの部屋行ってもいい? 腕痺れてきちゃった」
「あ、そ……うだね、ごめんねぇ」
「いいよ別に。じゃあマティアスもごゆっくり」

 執務室から繋がっている隣の部屋へさっさと入っていったリョウヤの後ろ姿を、マティアスと共に見送る。中に入る直前、「あ、そうだ」とくるりとリョウヤが振り向いた。

「そういえば、今朝パンにジャム付けるの許可してくれたよね」
「……は?」
「まだお礼言ってなかったから。ありがとアレク」

 言われてみれば数日前の妊娠検査時に、この稀人はまず栄養を取る必要があると専属医に忠告されたので、糖分を取らせるため適当にジャムでも付け加えておけと料理長に告げていたのだ。果物の搾りかすでもいいと。どう伝え聞いたのかは知らないが、曇りなき眼とでも言うのだろうか、そんな目で見つめられて視線の置き場に困る。

「あと前から思ってたんだけど、そんなに眉間にしわ寄せてたら取れなくなっちゃうぜ? 少しは肩の力抜いたら、そこの人みたいに。じゃーね」

 後ろ髪を引かれる様子など微塵もなく、ばったんと閉じられた扉。ガタガタと椅子が引かれ、どさどさと重そうな本が無造作に置かれる音も聞こえた。
 かれこれ数時間、リョウヤはこうして離れた書斎とここを何度も行き来し、集中力を途切らせることなくせっせと書物を読み漁っていた。書斎の利用は許可しているし、本を読む時は見える所でしろと命じてあるので、こうして隣の部屋を使われるのは別に構わないのだが。
 たっぷりと長い時間、それぞれが押し黙る。
 なんとも言えない顔でマティアスが振り向いてきた。
 情報量があまりにも多すぎて、全てを把握し切れていない様子だった。

「……あのさぁ、アレクシス」
「なんだ」
「うーん…………今の坊やは、なにかな?」

 そんなのこっちが聞きたいと思ったのは、二度目だ。ぎしりと椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ目頭を押さえる。今のリョウヤとの会話で、眉間のしわは確実に増えた。

「闇市で買った孕み腹用の稀人だ」
「いや、それはわかるんだけど……ぇ……ええーっと……?」

 あんなんだったっけ……? と続けられたが、その質問にははっきりと答えられる。


 断じて、あんなんではない、と。






 * * *




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