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前篇
痛む手のひら(2)
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『奥様、これを』
『いい、いらない』
『でも、ここでは夜は凍えるように冷えると思います。受け取ってください』
『へーきだって。こういうところで寝んの俺慣れてるから。そんなことより、いつまでもうろうろしてたら見つかるよ。早く戻りな』
もちろん毛布は受け取らなかった。キャシーはいい子だ。なんてことないように振舞ってはいたが、食べるものも、水も、光さえない地下牢での2日間は、地獄だった。腹が減って、石壁の隙間にコケが生えていたので、無心で口に含んだ。喉が渇いて渇いて、地面に這いつくばり、牢獄の隅の角や石壁に付着した水滴を舐め始めてからの記憶が飛び飛びだ。
もう二度と、あそこには閉じ込められたくない。体力のある自分だったからこそ耐えられたのであって、キャシーのような女の子があんなところに押し込まれたら、きっと1日で狂ってしまうだろう。
だから、アレクシスの怒りが彼女に向くことだけは避けたかったというのに──急いで足を速めてマティアスを追い抜き、自分よりも少しだけ背の低いキャシーの前に出る。
高圧的に見えるように顎を引いて、冷たく見下ろす。
脳裏に浮かんだ赤い目の男と似たような表情を作れているかが、心配だった。
「突っ立ってないでどけよ」
「え……」
「何様のつもり? 俺より立場が下のメイドの分際で俺の前に立ってんな、邪魔だ」
どん! とキャシーを乱暴に押しのける。きゃあ! と騒いだメイドたちが、勢いに負けて後ろから転びかけたキャシーを支え、助けた。転ばなかったことに安堵するが、驚愕の色を浮かべたキャシーとは決して目を合わせず、そのまま通り過ぎる。誰に、そしてキャシー本人どう思われたとしても、これが最善の策だ。
「ふうーん……」
すぐに横に並んだマティアスは、にやにやと顔を覗き込んできた。
「なに?」
「さっきの子、何か言いかけてたみたいだけど仲がいいのかな?」
「さっきの子ってどの子」
「坊やが、思いっきり突き飛ばしてた栗毛の子だよ」
「さあ。この家にいるメイドってみんな似たような顔だからいちいち覚えてないね。邪魔だっただけだ」
「……賢いねぇ。守ったんだ」
眉根を寄せる。流石に騙せなかったか。
「言ってる意味が、わかんないんだけど?」
だが、ここは堂々と白を切り、胡散臭い笑みを浮かべている男とあえて目を合わせる。
マティアスは、これまで見て来た誰よりも笑みらしい笑みを浮かべていた。いわゆる人好きのするようなそれだ。リョウヤの経験上、そういう笑みを浮かべている奴が一番厄介だ。腹の底で何を考えているのかわかりゃしない。
「なるほどねぇ……ふふ、ますます坊やに興味が出てきたな」
「悪いんだけど、俺はあんたに興味ねーから」
「あはは、辛辣だ。気が強いところもいいね、気に入ったよ」
地位の低いリョウヤが強く言い返しても、怒りもしないなんて。
過剰な優しさの裏には、常に残酷な何かが隠されている。それが過酷な環境で生きてきたリョウヤにとっての常識だ。何度、見せかけの善意というものに裏切られてきたことか。
兄が与えてくれた温もり以外、信じられるものなんかない。
馬鹿正直についていこうとしたのは、拒否した後に何をされるのかがわからなかったからだ。なにしろマティアスはあのアレクシスの友人であり、いわば同類だ。仮に、今ここで逃げようとしてもすぐに連れ戻されてしまうだろう。そもそもリョウヤは逃げないと誓った。約束を破ればアレクシスに自由を制限される。それは一番、避けなければいけないことだった。
「だから、俺は坊やじゃなくてリョウヤだってば」
「──さっきのことは、坊やの旦那様には黙っといてあげる」
足が、止まる。
「高潔で、自分というものをしっかり持ってるんだね。偉い偉い……ふふ、坊やってすっごく面白い。さあ行こうか、アレクシスが待ってるよ」
ねっとりとした声色に、寒気がする。
リョウヤに残された選択肢は、このままマティアスの後を追ってアレクシスの元へと向かうことだけ。カシャンカシャンと、慣れ始めていた足枷がより一層重く感じられる。
再び、じくじくと火傷痕が痛み始めた手で、胸元をきつく握りしめる。ここにオマモリがぶらさがっていることを想像すると、ドクドクとはやる鼓動がほんの少しだけ落ち着くのだ。
──ナギサにいちゃん、今だけ力を貸して。俺、頑張るから。頑張れるから。
下がりそうになる目線をぐいと引き上げ、リョウヤはマティアスと共に別室へ向かった。
かくして、リョウヤの抱いた悪い予感は当たった。
それも、最悪の方向で。
* * *
『いい、いらない』
『でも、ここでは夜は凍えるように冷えると思います。受け取ってください』
『へーきだって。こういうところで寝んの俺慣れてるから。そんなことより、いつまでもうろうろしてたら見つかるよ。早く戻りな』
もちろん毛布は受け取らなかった。キャシーはいい子だ。なんてことないように振舞ってはいたが、食べるものも、水も、光さえない地下牢での2日間は、地獄だった。腹が減って、石壁の隙間にコケが生えていたので、無心で口に含んだ。喉が渇いて渇いて、地面に這いつくばり、牢獄の隅の角や石壁に付着した水滴を舐め始めてからの記憶が飛び飛びだ。
もう二度と、あそこには閉じ込められたくない。体力のある自分だったからこそ耐えられたのであって、キャシーのような女の子があんなところに押し込まれたら、きっと1日で狂ってしまうだろう。
だから、アレクシスの怒りが彼女に向くことだけは避けたかったというのに──急いで足を速めてマティアスを追い抜き、自分よりも少しだけ背の低いキャシーの前に出る。
高圧的に見えるように顎を引いて、冷たく見下ろす。
脳裏に浮かんだ赤い目の男と似たような表情を作れているかが、心配だった。
「突っ立ってないでどけよ」
「え……」
「何様のつもり? 俺より立場が下のメイドの分際で俺の前に立ってんな、邪魔だ」
どん! とキャシーを乱暴に押しのける。きゃあ! と騒いだメイドたちが、勢いに負けて後ろから転びかけたキャシーを支え、助けた。転ばなかったことに安堵するが、驚愕の色を浮かべたキャシーとは決して目を合わせず、そのまま通り過ぎる。誰に、そしてキャシー本人どう思われたとしても、これが最善の策だ。
「ふうーん……」
すぐに横に並んだマティアスは、にやにやと顔を覗き込んできた。
「なに?」
「さっきの子、何か言いかけてたみたいだけど仲がいいのかな?」
「さっきの子ってどの子」
「坊やが、思いっきり突き飛ばしてた栗毛の子だよ」
「さあ。この家にいるメイドってみんな似たような顔だからいちいち覚えてないね。邪魔だっただけだ」
「……賢いねぇ。守ったんだ」
眉根を寄せる。流石に騙せなかったか。
「言ってる意味が、わかんないんだけど?」
だが、ここは堂々と白を切り、胡散臭い笑みを浮かべている男とあえて目を合わせる。
マティアスは、これまで見て来た誰よりも笑みらしい笑みを浮かべていた。いわゆる人好きのするようなそれだ。リョウヤの経験上、そういう笑みを浮かべている奴が一番厄介だ。腹の底で何を考えているのかわかりゃしない。
「なるほどねぇ……ふふ、ますます坊やに興味が出てきたな」
「悪いんだけど、俺はあんたに興味ねーから」
「あはは、辛辣だ。気が強いところもいいね、気に入ったよ」
地位の低いリョウヤが強く言い返しても、怒りもしないなんて。
過剰な優しさの裏には、常に残酷な何かが隠されている。それが過酷な環境で生きてきたリョウヤにとっての常識だ。何度、見せかけの善意というものに裏切られてきたことか。
兄が与えてくれた温もり以外、信じられるものなんかない。
馬鹿正直についていこうとしたのは、拒否した後に何をされるのかがわからなかったからだ。なにしろマティアスはあのアレクシスの友人であり、いわば同類だ。仮に、今ここで逃げようとしてもすぐに連れ戻されてしまうだろう。そもそもリョウヤは逃げないと誓った。約束を破ればアレクシスに自由を制限される。それは一番、避けなければいけないことだった。
「だから、俺は坊やじゃなくてリョウヤだってば」
「──さっきのことは、坊やの旦那様には黙っといてあげる」
足が、止まる。
「高潔で、自分というものをしっかり持ってるんだね。偉い偉い……ふふ、坊やってすっごく面白い。さあ行こうか、アレクシスが待ってるよ」
ねっとりとした声色に、寒気がする。
リョウヤに残された選択肢は、このままマティアスの後を追ってアレクシスの元へと向かうことだけ。カシャンカシャンと、慣れ始めていた足枷がより一層重く感じられる。
再び、じくじくと火傷痕が痛み始めた手で、胸元をきつく握りしめる。ここにオマモリがぶらさがっていることを想像すると、ドクドクとはやる鼓動がほんの少しだけ落ち着くのだ。
──ナギサにいちゃん、今だけ力を貸して。俺、頑張るから。頑張れるから。
下がりそうになる目線をぐいと引き上げ、リョウヤはマティアスと共に別室へ向かった。
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それも、最悪の方向で。
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