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前篇
44.見えなかったもの(1)
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「大事に至らないようで、安心いたしました」
アレクシスが傷つけた下肢の血も、直ぐに止まった。
医者の見立てでは、数日も経てば熱も引くだろうとのことだった。原因は疲労による発熱らしい。また、睡眠不足で、栄養失調気味でもあると。
睡眠不足は、リョウヤの生活習慣を見ていればまあわかる。
問題は栄養失調に関してだ。
確かに与えていた食事は質素なものではあったが、リョウヤは子を宿す胎を持つ重要な体だ。
上手く妊娠できるよう、栄養はしっかり取れるようバランスよく用意させていたはずだ。
リョウヤだって三食きっちり食べていたし、なんならおかわりもしていた。
それなのに、なぜ。
「クレマン」
「はい」
「……こいつは、こんなにやつれていたか」
眠りながらも、多少は落ち着いた息をするようになったリョウヤを見る。
リョウヤの裸は毎晩見ていたが、しっかり服を脱がせるのはほとんど下のみだったし、常日頃から手袋越しで触れていたため今日に至るまで気付かなかった。
胸に触れた手のひらに、薄っすらと浮き出たあばら骨が当たるだなんて。
「毎食お召し上がりになっても、ほとんど吐いていらっしゃったようです」
「……吐いていた、だと?」
「ええ」
それは初耳だった。
「毎回か?」
「おそらくは」
さらりと答えられたが、毎回だなんて異常だ。
「なぜ、知らせなかった」
「……お伝えいたしましたが」
クレマンの声が硬くなった。
彼が嘘を言うはずがないので、つまり報告を受けても右から左へと受け流していたのだろう。リョウヤに関するあれこれは、アレクシスにとっての重要事項ではなかった。
仕事という、集中するものが他にあったので。
「何故、吐くんだ」
「それは、ストレスからではないでしょうか」
「ストレスだと?」
「ええ」
「こいつがそんなたまか」
「本気でおっしゃっていますか?」
押し黙る。ストレスだなんてそんなもの……あり過ぎるくらいにあるだろう、が。
「毎食しっかりとお取りになられているのも、吐いてしまうのを見越してのことだったのではないでしょうか」
「そんな……そんな馬鹿げた食い方があるか」
「奥様は忌人狩りに見つからないよう、様々な地区を転々としていたとお聞きしています。ゆっくりと、お食事をとる暇もなかったはずです。いつも頬がぱんぱんになるまで詰め込んでしまうのも、奥様の体に染み付いている……生きる術、というものなのではないでしょうか」
生きる、術。
そういえばリョウヤは、死ぬことよりも生きることの方が大変だと言っていたな。あのセリフは、リョウヤにとってはとてつもなく重いものだったのかもしれない。
リョウヤは寝返りもせず、胎児のような恰好で寝ている。
額に乗せたタオルがずり落ちそうだったので位置を変えようとすれば、随分とぬるくなっていた。ちゃぷんとボウルに浸して暫くしてからしっかりと絞り、再び乗せてやる。
リョウヤが落ち着いたので、現在メイドたちは全員下がらせている。
見よう見まねではあるが、頭にタオルを乗せることぐらいはアレクシスにもできるようになっていた。
上から見ると、リョウヤの頬もかなりこけているのが見て取れた。目の下の隈も、深い。
「……奥様は、いつも同じ体勢で寝ておられますね」
クレマンも言う通り、リョウヤはいつも石のようにぎゅっと体を丸めて寝ている。確か地下牢に放り投げた朝も、今と全く同じような格好で冷たい石畳に横たわっていた。
まるで、自分で自分を守るかのように。
どうでもいいと気にも留めていなかったことが、今はやけに目につく。
「朝もほとんど同じ時間に起きられますね。眠りも浅いようですし……劣悪な環境で、生きてきたからなのかもしれません」
リョウヤを好き勝手に犯し、とっぷりと日付も過ぎた真夜中に解放することもしばしばあった。睡眠時間は2時間ほどだっただろう。
そんな朝であっても、リョウヤはいつもと同じ時間に目を覚まし、何食わぬ顔で朝食を食べていた。これにはアレクシスも、こいつの体内時計は狂っているのではと顔を顰めたものだ。
今思えば、最初の数か月は唐突に行方を眩ませた午後もあった。
リョウヤは、年季の入った物置小屋の隅や狭すぎるクローゼットの中で、埃まみれになったままぐうぐう寝こけていた。ここでもカタツムリのように体を丸めて。
あれはもしかすると、眠気に耐え切れず気を失っていたのかもしれない。
野生児のようにあえて薄暗く人気のない場所を選んだのは、誰にも寝ている姿を見られたくなかったからだろうか──見られたら、何をされるかわからないから?
睡眠を取るだけで危険が近づいてくるような世界で、ずっと生きてきたから。
ひとりで。
「最近、気が付いたことがございます。お話をしてもよろしいでしょうか」
「……なんだ」
ため息を吐く。疲労のではない。
「奥様が厩舎にお見えになり馬と戯れた後は、馬房がとても綺麗になっていたそうです」
もうここまでくると、クレマンが何を話そうとしているのかはすぐにわかった。
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