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Beautiful spirit

9裏ー2

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商店街の一角にある、店と店の隙間。
その路地裏にあたしたちは身を隠していた。
右隣に間久辺、左隣に御堂がそれぞれ壁に寄りかかりながら立っている。
「なんとか、間に合った」
そう言って、ガスマスクを手に持った間久辺は、地面に崩れ落ちる勢いで座り込んだ。その様子から、憔悴しきっているのがわかる。
それはそうだ。一晩で商店街のシャッター、数十枚すべてにグラフィティを描いたのだから、かなりの体力を消耗する。それに、本来の目的である落書きを上書きするということを念頭に起きながら、あたしが作った桜の花びらのステンシルを最後に壁に描くところまで、計算しなければならなかった。
当たり前のことだが、色には強弱があって、例えば黒色の絵の具に白色の絵の具を一滴垂らしたところで、色に変化は出ないが、その逆ならどうだろう。
白色のインクは、たちまち濁った灰色に変わる。
グラフィティで使われるスプレーインクは特に色のバリエーションが多く、濃密で、赤、青、黄などのビビッドカラーですら、その色の濃度は非常に濃い。
それ故に、花びらに使用する淡いピンクのインクでは、上書きしたときに、下にある落書きの強いインクの色がうっすら浮かびあがってしまい、結果的に花びらが綺麗に仕上がらなくなってしまう。
それを見越して、間久辺はグラフィティを描いた。
あたしが持ってくる桜の花びらのステンシルを計算に入れながら、主だって目立つ落書きは、木の幹と枝を描く濃度の濃い茶色いインクで上書きし、桜の花びらでも上書きできるくらいの薄い色の落書き部分には、花びらを存分に使って見せた。
あたしが作ったステンシルを、バイクで来た御堂が間久辺の所に届けてくれて、あたしの役目はそれで終わりだった。
だけど、間久辺がどんなグラフィティを描いているのかどうしても気になってしまい、仕上がりを見に来て、驚愕した。まるで、あたしが作った桜の花びらがどんなものか初めからわかっていたかのような出来映えに、鳥肌が立った。
これで、良いのだろうか?
侭の心を、救うことはできるだろうか?
ずっと抱えていた疑問はしかし、その絵を見て確信に変わった。
きっと、これで大丈夫だ。あの商店街に落書きされるようなことは、二度となくなるだろう。
改めて、間久辺の腕に感心していると、左隣に立つ御堂が、納得がいかないような口調で言った。
「なあ、二人とも。いまいち理解できないんだけどさ、どうして今回、わざわざ桜のグラフィティなんて描く必要があったんだ? 俺には詳しいことはわかんねえけど、あんな大変な絵を描くくらいなら、いっそシャッターを真っ白く塗っていった方が楽だったんじゃないか? それなら、俺にも手伝えたわけだし」
なにをいまさらそんなこと言ってるのよ、とあたしは思ったけれど、考えてみると御堂はライターじゃないし、知らないのよね。
間久辺は、疲労した体を正して、顔だけ持ち上げた。そして、御堂を見上げて答える。
「シャッターを白く塗りつぶすことは誰にでもできるよ。ぼくや御堂、それに与儀さん、もちろん甲津侭にもね。そんなこと、誰だって真っ先に思い付くはずだ。当然、甲津侭も何度も白く塗りつぶそうとしたと思うよ。だけど、意味はなかった。またすぐに、上から落書きをされてしまうからね」
「それはそうかもしれねえけど、だったらあの桜のグラフィティも同じじゃねえのか? イリーガルなライターは法律なんて無視してるじゃねえか。どうせ、すぐに上書きされるんだったら、一晩中苦労してグラフィティを描く意味なんてあったのかよ?」
「御堂の言う通り、イリーガルなライターは確かに法を守らないかもしれない。でも、だからってライターの中にもルールがないわけじゃない」
あたしはそこで、口を挟む。
「ライターの不文律ね」と。
その通り、と間久辺は答えた。
「おいおい、なに二人で通じあってるんだよ。二人はライターだからいいけど、俺はグラフィティに詳しくないんだからな。説明ハショるなよ」
「ああ、そうだね、ごめん」
そう言って謝ると、間久辺は再び説明を続けた。
「イリーガルなライターは、一見好き放題にグラフィティを描いているように思われがちだけど、ライターの中にも明確なルールがあるんだ。一言で言えばリスペクト。相手に敬意を払うことさ」
「それのどこが明確なルールなんだよ。全然抽象的じゃねえか。だいたい、他人に敬意を払ってたら、落書きなんてしないだろう?」
「言い方が悪かったね。ライターが敬意を払う対象は、同じライター。正確に言うなら、自分よりレベルの高いライターだ」
具体的に例を出すけど、と言って、間久辺が首を回す。
「グラフィティを大きくわけると、タグ、スローアップ、マスターピースに分類される。それくらいは御堂もわかるだろう?」
「なんとなく」
「オーケー。あんまりピンと来てないみたいだから、一応説明しておくと、タグは自分の名前やチーム名をほとんど一瞬の内に描いたものを指す。そしてスローアップ作品は、タグほどではないが、バブルレターのように簡単に描けるグラフィティのことを指している。そして、マスターピースはーーー」
「今回、間久辺が描いたものよ」
あたしは、そう言って言葉を奪った。
「ぼくだけの力じゃありません。花びらは与儀さんがつくったじゃないですか」
「でも、それを壁に吹き付けたのは間久辺じゃない。元々、あんたの考えた案でもあったわけだし」
あたしが称賛の言葉を真っ直ぐにぶつけると、照れているのを誤魔化そうとして、間久辺は「とにかく」と話を本題に戻した。
「グラフィティには、いま話した三種類が存在して、個人差はあるけど、一番楽に描けるのがタグで、一番大変なのがマスターピースなんだ。ライターの不文律っていうのは、タグの上にスローアップ作品を描くのは良いが、その逆は駄目。スローアップ作品の上にマスターピースを描くのは良いが、その逆は駄目、という風に、明確なルールが決まっているんだよ。一言で言うなら、手間をかけて描いた作品の上から、簡単に描けてしまう作品を描くのはやめましょうってこと」
間久辺の言う通り。
力関係で言うと、タグ〈 スローアップ〈 マスターピースという関係になる。
「だからさ、御堂。この商店街はライターにとっての楽園だったのさ。君が初めてこの場所に来たときの印象は、どうだった?」
「ん? ああ、そうだな。なんかぐちゃぐちゃした落書きだらけで汚ねえって思ったな」
「そういうこと。ここの壁に描かれていたのは、せいぜいスローアップ作品。マスターピースと呼べるレベルの絵は一つも存在しなかったよ。だから、ここのライターたちは次から次に上書きし合って、あんなに滅茶苦茶になってしまったんだ」
「なるほどな、ようやく話が見えてきたぜ。だから間久辺は、マスターピースを壁に描いたわけか。ここのライターたちには、上書きすることができないから」
一旦納得した御堂だったが、そこで再び首を傾げた。
「でもよぉ。じゃあ、もしマスターピースを描けるライターが来たらどうする? あのシャッターの桜を見て、挑んでくるライターもいるかもしれないじゃないか」
「それはまずないよ」と、間久辺は即答した。
「どうしてそう言いきれるんだよ?」
「御堂の言う通り、タグならタグ、スローアップならスローアップ、マスターピースならマスターピースに、さっきの相関関係は通用しない。理屈の上では、あの桜のグラフィティの上からマスターピース作品を描くことは許されるはずだ。描くのにかかる苦労が同程度なら、上書きしても問題ないということになるからね。だけど、現実問題は違う。ここで、もう一つのルールとして、描かれているグラフィティのレベルが関係してくる。描かれているグラフィティの完成度が、自分の描こうとしているグラフィティよりも上回っていた場合、そのライターは描くことを諦めないといけないんだ」
「はあ? それってつまり、自分より上手なライターのグラフィティには上書きしないって話か? それこそ、信用ならねえだろう。だって、上手いか下手かなんて、それぞれの主観でしかない。ましてや、ヒップホップは自分が一番って連中の集まりじゃねえかよ。そんな、どっちが上手いか下手かなんて、抑止力にならねえって」
御堂の言っていることはもっともだと思う。
こればかりは、ライターになってみないとわからない部分もあるかもしれない。それでも、間久辺は説明を続ける。
「そこで、最初の話に戻るのさ」
「最初って、リスペクトの話か?」
「そう。ライターは敬意を持ってグラフィティを描かないといけない。それはなにも、精神論だけの話じゃないんだ。確かに、御堂の言う通り、上手い下手なんて無視して上書きしようとするライターもいるかもしれない。だけど、もしそんなことをして、万が一、後から上書きされたグラフィティの方がレベルが低いと判断された場合、そのライターは間違いなく県内にはいられなくなるだろうね。もし見つかったら、ただじゃ済まない。二度と、その地区のストリートに顔を出せなくなるよ。そうなったら、ライターとして終わったようなものだ」
つまり、そういうこと。
イリーガルなライターにとって、この狭い街の中でグラフィティを描く場所を探すのは大変なことだ。だからこそ、明確なルールがなければ、好き勝手に人の作品の上からライティングする者が出てきて、描かれた方と衝突し、争いが生じてしまう。それを避けるために、ライターには不文律が、絶対に遵守する必要のあるルールが存在するのだ。
まあ、それを逆手に取って、タグの上にわざとタグを重ねて相手に喧嘩を売るような手法も存在するんだけどね。
「ちょっと待ってくれ。混乱してきたんだけど、つまりまとめるとこういうことか?」
御堂は眉間にシワを寄せながら、考える素振りを見せる。
「マスターピースで、なおかつ誰も超えられないレベルの作品を描くことができれば、上書きされることは永遠にないってことか?」
こくんと間久辺は頷き、不敵に笑う。
「まあ、永遠は言い過ぎだけど、つまりはそういうこと。そして、あの『桜のグラフィティ』はぼくと与儀さんの合作。それを上回ることのできるライターなんて存在しない」
間久辺のやつ、徹夜明けで変なテンションになってるのかとも思ったけど、その言葉を聞いても不思議と慢心だと感じなかった。あたしはともかく、間久辺が線引屋として切り抜けてきた修羅場を思うと、それだけの力は十分に備わっている。
間久辺は、自信に満ちた表情のまま、言った。
「だから、もしもあの桜のグラフィティを消すバフれる存在がいるとしたら、それはリーガルだけだ。たとえば、市が考え方を変えて、ライターの取り締まりを強化した場合、あの商店街のシャッターは真っ白く塗り直されことになるだろうね。そうなれば、あの商店街は元の綺麗な姿に戻る。当然、警察の取り締まりも強化されるだろうから、上書きもされなくなるだろう」
あたしも御堂も、その言葉に呆気に取られ、間久辺の言葉を黙って聞き続けた。
「ね? どっちにしても、落書きで溢れかえっていた、昨日までの商店街に戻ることはなくなるわけさ」
あたしは、素直に驚いていた。
最初、作戦を聞かされたとき、間久辺の話は机上の空論でしかないと思っていた。一晩であれだけ広い場所にマスターピースを完成させることなんて、不可能だと思っていたのだ。だが、彼は現実にそれをやってみせた。間久辺は、「与儀さんのステンシルのお陰です」って言うけど、ステンシルはそもそも、グラフィティを描く上で用いる道具でしかない。それを使い、他のライターを出し抜いたのは、紛れもなく線引屋なのだ。
しかも、間久辺はライターを封じ込めるだけでなく、リーガルな手によってグラフィティを消された場合のことまで考えて行動した。
イリーガルなライターを封じ込めながら、リーガルな行政の手が入っても、商店街から落書きを一掃することができる。どちらに転んでも、もう落書きだらけの商店街に戻ることはない。

とんでもない策士だわ。

そう思い、隣でしゃがみ込んでいる間久辺を見ると、いままで喋っていたはずなのに、いつの間にかすうすうと寝息をたてながら眠りこけていた。
「呆れたわね、さっきまであんなに雄弁に語っていたくせに。もう、こんな所で寝たら風邪ひくわよ」
ねえ? と左隣を見ると、御堂のやつも目を瞑って、首をカクン、カクンと落としていた。
「まったく」
そう悪態をつきながら、まあ仕方ないかという気分になってくる。
今回、二人は侭と無関係にも関わらず、あたしのために立ち上がってくれた。
御堂は実際に足を動かして、団地に住む元商店街で働いていた人物の所へ行き、連絡が取れるかぎり元商店街の人たちを集めてもらうように頼みに行った。その後、病院へ行って、侭に商店街に来るように言いに行ったんだ。
その後も、ステンシルを仕上げたあたしの所に来て、バイクでそれを間久辺の所に届けてくれたり、一番動き回ってくれていた。
そして間久辺は、言うまでもなく、たった一人でマスターピースを描きあげた。普通に考えたら数日はかかるものを、たった一晩で仕上げてしまったのだから、それに伴う疲労も相当激しかっただろう。
あたしも、壁によりかかりながら、ずるずるとお尻を落とした。眠ってしまった二人に並ぶように、座り込む。
「あたしだって疲れて、眠いんだから」
自然と出てしまったあくびに、眠気がさらに誘因される。
眠い目をこすりながら、隣で眠る二人の横顔を交互に見比べていると、ふと初めてあたしの前に二人で現れた日のことが思い出された。
こいつら、お互いに責任をなすり付け合いながら、見苦しく口論していた、ただの子供だと思っていたのに……。

『今度はぼくらが与儀さんを助ける番だっ』

昨夜、あたしの店でそう叫んだ間久辺と、その隣で決然と頷く御堂の姿が、今度は頭の中に蘇ってくる。
あの頼りなかったはずの二人が、あたしのためにこんなにくたくたになるほど頑張ってくれた。
あたしは、気付くと笑みがこぼれていた。勝手に、この二人にとってのストリートの保護者みたいに思っていたけど、とんでもない話だった。
両隣で座ったまま眠りに落ちている二人の首に腕を回すと、少し力を込めて引き寄せる。よほど疲れていたのか、起きる気配はなく、あたしの両肩に体重がかかる。
「ありがとう、二人とも」
寝息をたてる二人の耳に、その言葉は届いていないだろう。
だけど、あたしは言わずにはいられなかった。
「あんたたちは、最高の仲間だよ」
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